地蔵院
臨済宗系単立 衣笠山 地蔵院(じぞういん) 2009年12月20日訪問
西芳寺総門と西芳寺川に架かる大歇橋から再び池大雅美術館の近くの駐車場に戻る。先ほど歩いてきた華厳寺橋とは逆方向となる南側の石段を上る。この石段の脇には、「細川頼之公建立 一休禅師修養の寺 竹の寺 地蔵院庭園」という盛り沢山な道標が建つ。その足元にも「地蔵院 左一丁 細川頼之史蹟」の石造の道標が残されている。前者は西芳寺が観光地となってから建てられたものであろう。石段を上り、西芳寺川を挟んで北側の西芳寺に相対する衣笠山の丘陵に入る。最福寺跡その2でも触れたように、松尾山に連なる山々と衣笠山に挟まれた西芳寺川流域は谷と呼ばれ、現在の亀岡市山本に通じる唐櫃越は山陰道の間道であったことから、多くの合戦がこの地で繰り返されてきた。
このあたりの地理については、竹村俊則の「新撰京都名所圖會 巻2」(白川書院 1959年刊)に掲載されている葉室周辺の鳥瞰図を見ると手に取るように分かる。
石段から先に続く道の右手側は地蔵院の境内で鬱蒼とした林となっている。それに対して左手は宅地開発が進行し新しい戸建て住宅や駐車場が見られる。GoogleMapの航空写真を眺めると、この丘陵地の西芳寺川に面した斜面でも宅地化されていることが分かる。地蔵院も西芳寺もやがて住宅に囲まれる日が来るのだろうか。
地蔵院の山門はこの道に面して設けられている。地蔵院は西芳寺と同じように臨済宗の単立寺院で衣笠山と号する寺院。通称、谷の地蔵、又は、竹の寺とも呼ばれている。竹の寺は境内に入ると良く分かる。山門前の京都市による駒札によると、この地には歌人の衣笠内大臣藤原家良の山荘があったとしている。藤原家良は鎌倉時代初期から中期にかけての公卿であり歌人。新三十六歌仙にも選ばれている。建久3年(1192)大納言・粟田口忠良と権大納言・藤原定能の娘の間の子として生まれる。父の忠良は政治家としてよりも、勅撰和歌集には69首が入るなどから歌人としての才能に長けていたようだ。また忠良は近衛家の創始者となる近衛基実の次男にあたる。兄の基通が近衛家を継いでいる。家良は忠良よりは政治的な才能があったようだ。承久3年(1221)の承久の乱における行動は不明ではあるものの、乱後、後鳥羽上皇の近臣が失脚する中、側近ではなかった家良は急速に昇進を果たしている。九条道家の信任を得て、嘉禎3年(1237)には道家邸を訪問し厚遇されている。同年12月に大納言に昇り、さらに仁治元年(1240)に内大臣となる。しかし仁治2年(1241)にこれを辞任している。父が政治的にさしたる足跡を残していないにもかかわらず、内大臣にまで昇進したのは母方の血縁が大きいとされている。
「山城名勝志」(新修 京都叢書 第7巻 山城名勝志 乾(光彩社 1967年刊))では、衣笠の地名については下記のように2箇所に分けて記している。
衣笠 岡。山。
等持院後山也此山等持院領也至二于西一龍安寺領也
衣笠 今下山田村是也地蔵院山号曰二衣笠山一
そして等持院の衣笠において衣笠内府第があったことに触れている。「山城名跡巡行志」(新修 京都叢書 第10巻 山城名跡巡行志 京町鑑(光彩社 1968年刊))でも下記のように記している。
衣笠ノ内大臣ノ第 在二松原村ニ一
しかし「都名所図絵」(新修 京都叢書 第11巻 都名所図絵(光彩社 1968年刊))の衣笠山地蔵院の記述に下記のようにある。
旧此地は、衣笠内大臣家良公の山荘あり 後山を衣笠山といふ
この「都名所図会」以外の地誌では、悉く衣笠内大臣第を等寺院のあった衣笠としている。京都市の駒札は、「都名所図絵」の記述に従ったと考えられるが、果たして藤原家良の山荘が此の地にもあったかは疑問である。
地蔵院の開山は夢想国師を勧錆開山としているが、実質的には碧潭周皎の開山である。碧潭周皎は正応4年(1291)土佐に生まれている。真言宗の僧で東寺長者を務めた禅助(真光院大僧正)に密教を学び大阿闍梨となる。後に禅宗に転じ夢窓国師の法を嗣ぐ。康永元年(1342)西芳寺住持となり、禅密兼学から公武の敬信を集める。西芳寺の檀越の室町幕府評定衆摂津能直の紹介で管領細川頼之と出会う。頼之は周皎に深く帰依し、応安元年(1368)10月、尼妙性の私領であった山林つきの衣笠の敷地を30貫で買い取り地蔵院を建立している。
細川頼之は元徳元年(1329)細川頼春の子として三河額田郡に生まれたとされている。室町幕府初代将軍足利尊氏に従う父のもとにあったが、正平5年(1350)阿波の国人小笠原頼清が南朝に属すると、父に代わり阿波に派遣されている。その最中の正平7年(1352)、南朝の楠木正儀、北畠顕能、千種顕経らによる京都侵攻で、頼春は足利義詮を守り七条大宮付近で戦死している。頼之は軍を率いて上京し、義詮軍に属し男山合戦に参加して南軍を駆逐する。
頼之が京で戦っている間、阿波では再び南軍の活動が活発化し、領国経営のために数年従事することとなる。阿波の小笠原氏を始めとし、伊予の河野氏や他の国人勢力との戦を通じて頼之は四国における支配体制を強化していくと、南軍への対応として備前、備中、備後、安芸などの中国方面での勢力拡張を進めている。そして貞治の変後の正平22年(1367)頼之は幕府に召還され、管領に就任している。
地蔵院が建立されたのは細川頼之が管領となった翌年のことであった。周皎は先師を開山とし、自らを第二世と称した。なお、夢窓国師は地蔵院建立以前の観応2年(1351)に既に逝去している。頼之に倣い近隣の土豪も土地の寄進を行っている。応安5年(1372)2月には松尾社神主秦相季が仁倉林西在家の家地を、翌年9月には仁倉林内山大路の屋敷を施入している。これらの寄進により地蔵院は寺域を拡張し、伽藍を整えて行った。
周皎は応安7年(1374)84歳で逝去し、地蔵院に葬られている。朝廷は直ちに宗鏡禅師の諡号を勅賜している。
頼之が管領に就任した直後の貞治6年(1367)12月に、足利義詮は急死している。義詮は生前、幼少の義満を頼之に託している。頼之は第3代将軍を補佐し、将軍権威の確立に関する諸政策を実施する。比叡山と南禅寺との対立においては南禅寺派を支持したが、ついには比叡山の強訴に屈服し南禅寺楼門を撤去させるなど、五山側とも溝を生じることとなっている。また康暦元年(1379)の紀伊における南朝征討での失敗より、拡大化した反頼之派により康暦の政変が起こる。反頼之派は軍勢を率いて将軍邸の花の御所を包囲し、義満に頼之罷免を迫る。義満は頼之罷免に同意したため、頼之は自邸を焼いて一族を率いて領国の四国へ落ちることとなった。頼之はその途上で出家している。
頼之の弟である細川頼元は幕府に対して赦免運動を行い、康応元年(1389)に赦免される。そして明徳2年(1391)には斯波義将が義満と対立して管領を辞任し、頼之は義満から上洛命令を受けて入京している。後任の管領に頼元が就任すると、頼之は政務を後見し、宿老として幕政に復帰している。明徳3年(1392)3月に死去。享年64。
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