梅宮大社 その2
梅宮大社(うめみやたいしゃ)その2 2009年12月20日訪問
梅宮大社で記したように、梅宮大社の公式HPに掲載されている御由緒でも、檀林皇后が橘氏の祖神を祀るためにこの地に遷座させたとしている。しかしその創建の年代は明らかにしていない。「伊呂波字類抄」(風間書房 1965年刊)の梅宮によると、天子の「外家神」にもかかわらず大幣に与らなかったことに怒り、仁明天皇に祟りを成したとある。これにより葛野川頭に遷座している。この記述に従うならば、弘仁元年(810)の仁明天皇誕生以降、嘉祥3年(850)の崩御までの間、さらに仁明天皇と太后ということならば、天長10年(833)の即位以降に絞られる。いずれにしても社記にある檀林皇后の酒解二神への祈りによって仁明天皇が誕生したという逸話とは整合しないこととなる。
梅宮に対する授位の記事は、「続日本紀」承和3年(836)11月7日の条に
奉レ授二無位酒解神従五位上。無位大若子神。
小若子神並従五位下一。此三前坐二山城国葛野郡梅宮社一。
讃岐国水主神奉レ授二従五位下一。
とあり、無位から酒解神が従五位上へ、また無位の大若子神と小若子神も従五位下に叙せられている。これが始めて現れる記事である。この承和3年(836)11月以前に梅宮大社が檀林皇后によって創建されたと考える方が自然であろう。
仁明天皇が即位した天長10年(833)からの凡そ10年間は、藤原北家の藤原良房が嵯峨上皇と檀林皇太后の信任を得て急速に台頭し始めた時期にも一致する。良房の妹順子が仁明天皇の中宮となり、その間に道康親王(後の文徳天皇)が生まれている。道康親王を皇太子に擁立する動きがあることに不安を感じた恒貞親王と淳和上皇は、しばしば皇太子辞退を奏請するが、その都度、嵯峨上皇に慰留される。そして淳和上皇が崩御した2年後の承和9年(842)の承和の変が発生する。皇太子を東国に移す計画は良房側に漏れ、春宮坊帯刀舎人伴健岑と但馬権守橘逸勢は捕えられ流罪に、皇太子は廃せられている。
事件後、藤原良房は大納言に昇進し、道康親王を皇太子に立てるなど、藤原氏による他氏排斥が行われている。檀林皇太后の権威が疵つくことは無かったが、伴氏及び橘氏が受けた打撃は大きかった。特に檀林皇太后の生前はその勢力を維持したが、没後の50年間に7名の公卿を輩出したものの、その多くは参議または中納言止まりであった。橘好古は大納言まで昇進したものの、永観元年(983)参議在任3日で薨去した橘恒平を最後として、橘氏公卿は絶えている。
「続日本紀」承和10年(843)5月23日には、
奉レ授二従五位下酒解子神従四位下一。
と、酒解子神に従四位下が授けられている。さらに「日本三代実録」の貞観元年(859)正月27日の条には、
正四位下大若子神。小若子神。酒解神。酒解子神並正四位上。
と四神ともに正四位上となっている。「日本三代実録」の貞観17年(859)5月14日の条から
梅宮正四位上大若子神。小若子神。酒解神。酒解子神。並授二従三位一。
と従三位に昇位している。
この後も延喜11年(911)2月2日に正三位に平安中期には二十二社中の十六番に列せられ、治承4年(1180)12月に正一位を授けられている。この昇位に合わせて梅宮祭も承和仁寿(834~854)頃より始まり、4月上酉と11月上卯に行なわれていた。元慶3年(879)からと寛平年間(889~898)の2度にわたって祭りが廃されることもあったが、寛和2年(986)11月には旧に復している。
梅宮若宮は橘氏の氏神であったため、祭日には橘氏が五位一人を奉幣使としたが、橘諸兄の母・犬養三千代が藤原不比等の夫人となったため、後の時代には藤原氏が代行することもあったようだ。
梅宮大社の主要建造物は元禄11年(1698)の火災により失われている。そのため元禄13年(1700)に五代将軍徳川綱吉の命により亀岡城主が奉行となり再建されたものである。また拝殿と楼門は台風によって大破したため文政11年(1828)に再建されている。神苑にある池中亭も嘉永4年(1851)の建造である。
本殿は流造桧皮葺、間口四間の奥行二間。元禄13年(1700)の再建以降、文政6年(1823)に大規模な修繕が施されている。その後も度々修繕の記録が残されている。拝殿は入母屋造銅版葺、間口三間奥行三間の方形の建物。文政5年(1822)に造営されている。幣殿は間口三間二尺奥行一間二尺で向唐破風造桧皮葺。
本殿に向かって右側の若宮社は間口一間一尺奥行一間の流造、桧皮葺。左側の護王社は間口三尺九寸奥行四尺三寸の向千鳥破風造桧皮葺。本殿、若宮社、護王社、楼門、拝殿は昭和58年(1983)4月に京都府登録文化財に指定されている。
境内は6423坪で、東側には大堰川の分流を引き込んだ咲耶池があり杜若の名所として有名である。安永9年(1780)に刊行された「都名所図会」の梅宮の項には、図絵が掲載されている。上記、元禄13年(1700)の再建後の姿と思われる。二ノ鳥居、楼門、拝殿、幣殿と本殿、若宮社、護王社は現在と同じ配置であるが、御供殿と権殿は異なっている。建物配置から見ると、現在の神苑は権殿に続く庭園として作られたものかもしれない。 神苑は東神苑・北神苑・西神苑に分かれ、東神苑の池の島には池中亭と呼ばれる茶室が造られている。この他にも花菖蒲、霧島躑躅が植えられ、一年を通じて美しい庭を楽しめるように出来ている。小倉百人一首71番 大納言経信の「夕されば 門田の稲葉 おとづれて 芦のまろやに 秋風ぞ吹く」は、源師賢が所有する梅津の山荘で行われた歌会で披露された歌である。梅宮大社とは直接関係は無いが、かつての梅津の田園風景を再現するように萱葺屋根の茶室が神苑の中心に設けられ、大納言経信の歌碑も神苑内に建てられている。東神苑の東北隅にも瓦葺葺屋根の数奇屋建築が建てられている。こちらは池に面して露台が設けられているため、春の季節ともなれば杜若を鑑賞できるのではないかと思うが、この日の池は一部水が抜かれていた。恐らく梅の季節を迎える間の準備期間であったのであろう。
北神苑には勾玉池を中心とした庭で、花菖蒲、八重桜、平戸躑躅そして紫陽花が植えられている。やはりこの日は池の清掃を行っていたようだ。西神苑は北神苑から続く梅林で、江戸中期には本居宣長が献木の梅に添えて、
よそ目にも その神垣とみゆるまで 植えばや梅を千本八千本
と神苑を詠んでいる。
最後に、一之鳥居の右側に橋本経亮宅址という新しい碑が建てられている。橋本経亮は宝暦5年(1755)梅宮社の社家に生まれたとされている。本姓は橘、初め伊豆守と称す。後に肥後守と改称している。号は橘窓、香果堂。父も梅宮の神官で橘昆経。家職を継ぎ正禰宜となり、幼少の頃より宮中に出仕して非蔵人を兼務している。非蔵人とは蔵人の見習いで、六位蔵人の中から選ばれ、昇殿が許されて宮中で雑務をこなしていた。このように江戸時代になると、近郊の大社の子息を中心に宮中の雑用を勤める職となっていた。
有職の学は高橋図南に学び、図南の著書の多くを校正した。和歌を小沢蘆庵に学び、本居宣長、上田秋成、滝沢馬琴、谷文晁、伴蒿蹊などとも親しかった。また奇行をもって知られ、自宅から宮中に至る途上も読書しながら往来したため田畑に落ちて衣服を汚しても気にかけなかったという豪放さを備えていた。文化2年(1805)に没している。辞世は「のがれ得ぬ道とし知ればかねてわがおくつき処定めおきつる」。著書に橘窓自語3巻、梅窓自語2巻、万葉集校異20巻等がある。
「梅宮大社 その2」 の地図
梅宮大社 その2 のMarker List
No. | 名称 | 緯度 | 経度 |
---|---|---|---|
▼ 梅宮大社 本殿 | 35.0041 | 135.6948 | |
01 | ▼ 梅宮大社 一之鳥居 | 35.0028 | 135.6948 |
02 | ▼ 梅宮大社 二之鳥居 | 35.0034 | 135.6948 |
03 | ▼ 梅宮大社 橋本経亮宅址 | 35.0028 | 135.6948 |
04 | ▼ 梅宮大社 楼門 | 35.0037 | 135.6948 |
05 | ▼ 梅宮大社 拝殿 | 35.0039 | 135.6948 |
06 | 梅宮大社 若宮社 | 35.0041 | 135.695 |
07 | ▼ 梅宮大社 東神苑 | 35.0038 | 135.6957 |
08 | 梅宮大社 北神苑 | 35.0044 | 135.6952 |
09 | ▼ 梅宮大社 西神苑 | 35.0046 | 135.6946 |
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