文書と写真・地図による「記憶」の再現

大悲閣千光寺 その2

黄檗宗 嵐山 大悲閣千光寺(だいひかくせんこうじ)その2 2009年12月20日訪問

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大悲閣千光寺 了以像

 大悲閣千光寺では、その位置と角倉了以よる中興までの歴史について記した。ここでは了以が大悲閣千光寺を創建することとなった河川開削事業について書いてみる。

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大悲閣千光寺 大悲閣
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大悲閣千光寺 大悲閣内部

 角倉家の本姓は吉田氏で、近江国犬上郡吉田村出身とされている。初代となる吉田徳春が室町時代中期に上洛し、足利義満、義持に仕え、晩年に医術を習得している。その子の宗臨の代には足利義政に医術で仕えるようになる。そして三代目の宗忠がその後の角倉家の財を築き、土倉を営むようになる。角倉家は洛中帯座頭を務めるなど洛中における経済の中核となる。宗忠は土倉業を長男の光治に継ぎ、次男の宗桂には医者を継がせている。宗桂は臨済宗の禅僧・策彦周良に従い遣明船で2度中国を訪れている。兄の光治が早世したため、吉田家の本家は光治の子である栄可が継ぐ。

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大悲閣千光寺 大悲閣から東の眺め

 了以は天文23年(1554)宗桂の長男として生まれる。18歳で家長となると、親の代から引き継いだ土倉業だけでなく、海外貿易が生み出す莫大な富にも早くから注目していた。安土桃山期の海外貿易は、天正20年(1592)の豊臣秀吉による朱印状の発行に始まるとされている。しかしこの頃より、了以が貿易を開始していたかは分かっていない。しかし徳川家康の関が原の戦いで勝利した後に行われるようになった朱印船貿易の許可を得て、慶長8年(1603)には安南国すなわち現在のベトナムに向かっている。朱印船貿易は自然災害とともに海賊の襲撃を受ける恐れもあり、非常にリスクの大きな事業であった。またそれだけに大きな収益を伴っていた。了以の時代より角倉家を名乗るようになるが、角倉家は海外貿易によってさらに大きな利益を得ることと成った。また茶屋四郎次郎も朱印船貿易で豪商となったが、その創業時期が戦国末期であったのに対して、角倉家(吉田家)は三代目の吉田宗忠の時代には豪商となっている点が異なっている。

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大悲閣千光寺 北東から
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大悲閣千光寺
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大悲閣千光寺 南東へ

 角倉了以は貿易で得た富を河川開削という社会基盤構築のために投資している。現在では了以の行った土木事業は公共事業の一部ということで、民間の資金を使うことは稀である。しかし室町幕府末期から徳川時代の初期にかけて公共事業を行う資力が為政者になかったことは確かである。戦火によって社会基盤は破壊されるか、維持保全されずに朽ちてゆくことが長い時間続いた。
 角倉家が土木事業に本格的に参入したのは慶長9年(1604)のことと考えられている。既に前年には家康によって江戸に幕府が開かれている。すなわち足利幕府以降政治と経済の中心であった京都と伏見から、完全に関東へ移った時期に一致する。了以等の関西在住の経営者は、今後京阪神で起こる経済的な地盤沈下をある程度想像できていたと思われる。林屋辰三郎もその著書「京都」(岩波新書 1962年刊)で、角倉了以が河川開削事業を手掛けるようになった背景には、新時代の郷土の繁栄のためと無関係ではないと記している。司馬遼太郎も「街道をゆく 二十六」(朝日新聞社版 1985年刊)に掲載されている「嵯峨散歩」の中で下記のように語っている。

かれが、京都と伏見の間を水路でむすぶために高瀬川を掘ったのは有名だが(1614年ごろに完成)、このときの工費は七万五千両という、気の遠くなるような額だった。すべてかれの自弁であった。ただし高瀬川の場合も通航料は徴収した。むろん、通航料をとるために高瀬川を掘ったという小汚ない志ではなかった。

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大悲閣千光寺 トンネル前のトロッコ列車の停車

 大堰川開削工事の許可は了以の子である素庵より慶長10年(1605)に上申されている。素庵は藤原惺窩の弟子にして学友の林羅山を大学頭へと導いた人物で、江戸初期きっての知識人でもあった。了以は自ら上申はせず、素庵や弟で医家を継いだ吉田宗惇などの力を使っている。宗惇は単なる博覧強記ではなく、薬用になる植物、動物そして鉱物などの知識では当代の第一人者であり、そのことから健康オタクで有名な家康の側近となっていた。了以が自らの力に頼ることなく、角倉家の多様な能力を活用して後世に残る事業に着手したことに司馬は注目している。これは当時の京都にしか成立しないことでもあった。

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大悲閣千光寺 比叡山と仁和寺の五重塔
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大悲閣千光寺 雙ケ岡

 川の中にある岩を除去することが開削の一番の作業となる。その方法には大きく3つあったようだ。水面下にあった岩については浮き櫓を使用している。轆轤を使い、先端の尖った鉄棒を吊り揚げ、石の上に落として砕く方法。水面上に現れた岩は烈火を焚き、脆くしてから破砕する方法。海外の新しい技術を知っていた了以は爆薬を使用したとも言われている。ダイナマイトが発明される以前の工事に火薬を使用することは大きな危険を伴っていたと思われる。第三の方法は、川中の大石を陸に引き揚げる方法であった。この作業を行うためには多くの人を集める必要があった。
 単に資金を投入するだけでなく、このように多くの作業員を確保し、それを統率して新たな施工方法によって施工する能力が要求された。これらが角倉了以あるいは角倉家に備わっていたからこそ、この難工事を慶長11年(1606)春に着工し、約5ヶ月間で完工している。非常に短工期であったことからも施工技術の高さが分かる。

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大悲閣千光寺 中央左に霊山観音
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大悲閣千光寺 右端に西本願寺の素屋根

 なお、角倉家の洛中における住居跡は高瀬川沿いの中京区木屋町通二条下ルにあり、現在の日本銀行の門の前に角倉氏邸址やその向かいの高瀬川二条苑に角倉了以別邸跡の碑がある。かつてのホテルフジタ京都、現在のザ・リッツ・カールトン京都の地には角倉馬場屋敷であった。そして嵯峨における邸宅跡は臨川寺の東、かつての芹川、現在の瀬戸川の東側に右京区嵯峨天龍寺角倉町の地名が残っていることからも分かる。公立学校共済組合嵐山保養所「花のいえ」の門前には未見であるが三宅安兵衛遺志の桓武天皇勅営角倉址・了以翁邸址・平安初期鋳銭司旧址の碑が建つ。これは桓武天皇の勅営の土倉、平安初期鋳銭司の跡とともに角倉家の邸宅跡を示した碑である。この後で説明する「河道主事嵯峨吉田了以翁碑銘」の前半部分に下記のような記述がある。

洛四隅各有官倉在西曰角蔵

 桓武天皇の時代には都の四隅に官庫が設けられ、その西の官庫を角倉と呼んだという意味である。了以が吉田氏から角倉氏に姓を変えたのも、これに依っているようだ。

 また芹川については、嵯峨野の町並み その3で記したように、小倉山の北側山地に源を発し、天龍寺の東を南流する川で歌枕となっている。後撰集和歌集には、在原行平の歌として
     嵯峨の山 みゆき絶えにし 芹川の 
         千代のふる道 跡はありけり

が収められている。また光孝天皇の下記の有名な歌も芹川の流れに沿った芹川野で詠ったものとされている。

     君がため 春の野に出でて 若菜摘む
         我が衣手に 雪は降りつつ

 芹川の流域では芹が自生していたとされていることから、若菜とは春の七草のひとつであるセリかもしれな。光孝天皇は嵯峨殿を築いた嵯峨天皇の孫にあたる。光孝天皇も、嵯峨天皇や任明天皇に続き芹川行幸を度々行なったようだ。ただし、臨川寺が建立される以前にあった河端殿御所の中に引き込まれた芹川は嵯峨の朱雀大路を越え、その西側にあった芹河殿を通り大堰川に注いでいた。河端殿と芹河殿の池泉に使われていたのかもしれないが、天龍寺が創建されると、その必要がなくなったためか、現在のように臨川寺の東側で桂川に注ぐようになっている。

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大悲閣千光寺 石川丈山の書
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大悲閣千光寺 夢窓疎石の座禅石?

 話しを再び大悲閣に戻す。了以が中興開山として迎えた二尊院の道空了椿は天台宗の僧侶であり、了以も天台宗を奉じていた。しかし了以から11代目となる角倉玄寧が文化5年(1808)大顚を迎え黄檗宗に改めている。
 大悲閣には遺命により作られた了以像が安置されている。それは、巨縄を巻いた円座に坐し、石斧を手にして右立て膝の構えで保津川を臨む姿をしている。かつて了以も大悲閣に住み、開削事業を行った緒川の通舟の便益を念じたといわれている。その姿を表した木像を前にすると、了以の気迫が現在の私達にも伝わってくる。この写実性に溢れた黒光りする木彫は、了以の意志の強さを非常によく表現している。
 明治維新の際、天龍寺と同様に千光寺も大悲閣を除き、境内、山林、什宝等多くを失ったが、明治42年(1909)に寺地を拡張し、諸堂の整備を行った。寺宝は了以と良椿の木像、了以の大堰川開発に関する書状類、洛北詩仙堂の石川丈山の書と幕末の漢詩人・藤井竹外の書。竹外は摂津高槻藩の武士の家に生まれ、詩を頼山陽に学んでいる。梁川星巌、広瀬淡窓らとも親交があった。なお幕末の画家・田中訥言は目を病んで大悲閣の堂主となったが、ついに失明したことにより文政6年(1823)自死している。

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大悲閣千光寺
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大悲閣千光寺 河道主事嵯峨吉田了以翁碑銘

 昭和34年(1959年)9月の伊勢湾台風で大きな被害が受けている。そのため千光寺本堂は昭和53年(1978)にやむなく解体、また大悲閣の屋根も飛び、建物自体も歪みが戻らない状態になっている。今回訪問した時にも、周囲の立木等からワイヤーを張って転倒を防止していた。本尊の千手観音菩薩はその後建てられた仏殿に安置されている。なお大悲閣の前には林羅山撰文による「河道主事嵯峨吉田了以翁碑銘」がある。この石碑の左上部から斜めに破断した跡が残っているが、これは本堂を解体する際に生じたものらしい。この碑文については、岡山大学大学院・馬場俊介教授が管理されている「近世以前の土木遺産」という公式HP内に掲載されているので興味のある方はご参照下さい。この碑は寛永6年(1629)11月に建立されたことが碑文の最後の日付から分かる。角倉了以は慶長19年(1614)に既に亡くなっているので、死後15年を経て了以碑が建立されたのであろう。 なお2012年1月より、大悲閣の解体修理が始まり、同年10月を以って修理を完了している。

 大悲閣からの京都の眺めは素晴らしい。手前には亀山公園や大河内山荘の展望台もあるが、それらを遥かに越える高さから見下ろすため、景観の邪魔にはならない。縦構図で写真を撮影すると大堰川の流れとトロッコ列車から京都の町並み、そして比叡山の優美なシルエットまでがフレーム内に収まる。芭蕉の言うとおり大堰川から二町、凡そ220メートル石段を登るのは非常にきついので、是非天候の良い日に訪問されることをお勧めする。

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大悲閣千光寺

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