落柿舎 その3
落柿舎(らくししゃ)その3 2009年12月20日訪問
落柿舎 その2では、去来の落柿舎購入から芭蕉の三度の訪問について書いてきた。ここではその後の落柿舎について触れてみる。 向井去来は名を兼時、号を元淵と云う。去来は別号である。父の元升は肥前国長崎の儒者で、慶安4年(1651)次男として生まれ、万治元年(1658)8歳の時に京に移り住んでいる。飛鳥井家に仕え、儒学、暦学、射術を学ぶ。後年松尾芭蕉の門に入り俳諧を学ぶ。関西の俳諧奉行と称され、落柿舎に以下のような制札を掲げている。
一 我家の俳諧に遊ぶべし、世の理屈を言ふべからず
一 雑魚寝には心得あるべし、大鼾をかくべからず
一 朝夕かたく精進思ふべし、魚鳥を忌むにはあらず
一 速に灰吹を棄つべし、煙草を嫌ふにはあらず
一 隣の据膳を待つべし、火の用心にはあらず
右条々 俳諧奉行 向井去来
元禄7年(1694)閏5月22日に三度目の訪問を果たした芭蕉も、この年の10月12日に大阪で病没している。去来も10年後の宝永7年(1704)9月10日、洛東聖護院近くの寓居にて病没している。享年54。真如堂にて葬儀が執り行われ、同寺内の向井家墓地に葬られている。なお弘源寺墓地の去来墓には遺髪が埋められている。しかし「日本歴史地名大系第27巻 京都市の地名」(平凡社 初版第4刷1993年刊)によると、真如堂内の覚円院の墓地にあった去来の墓は隣接墓地の拡張に伴い取り除かれたため、この弘源寺の墓が唯一の墓となったと記している。 没後60年余を経た明和7年(1770)に、拾遺都名所図会の記すように井上重厚によって修復されている。この再興については山口敬太氏による「嵯峨野の名所再興にみる景観資産の創造と継承に関する研究 -祇王寺,落柿舎,厭離庵の再興事例を通して-」に詳しく記されている。先ず井上が再興を試みた明和7年(1770)の時点で既に落柿舎は失われており、その旧地を特定すべく当地の人々に聞いたものの得る所はなかったようだ。そのため新たな土地を選定することとなったが、井上は去来の詠んだ「柿ぬしや木ずゑはちかきあらし山」を参考に、嵐山が眺望できる地であること、柿の木があることを重要視したようだ。向井家から三畳の茶室を譲り受けて移築している。そして安永元年(1772)に「柿ぬしや」の句碑を建てている。天明7年(1787)に刊行された拾遺都名所図会の落柿舎についての「近年去来の支族俳士井上重厚、旧蹟に落柿舎を修補し、其傍に此句を石に鐫こゝに建てすまひし侍る」という説明は、正に井上重厚による修復が完了した時点での記述である。
その後、再興した落柿舎の敷地が天龍寺弘源寺跡であったため、捨庵と名づけられ老僧の隠棲所として使用されてきた。明治18年(1885)弘源寺は捨庵を取り壊し、その土地を売却しようとした。小林善仁氏の「山城国葛野郡天龍寺の境内地処分と関係資料」によると、維北軒と合併し天龍寺境内に弘源寺が出来たのは明治17年(1884)10月とされている。第二次上地令によって、天龍寺とその塔頭が大きく変わっていった様子を「社寺境内外区別調報」と添付図面を内務省に提出した時期に一致する。この動きを見ていた素封家・小松喜平治が、名跡の喪失を惜しみ落柿舎を買収したが、まもなくしてまた興廃したようだ。明治36年(1903)に刊行した「京都名勝記 中巻」(京都参事会 1903年刊)では、「現今は住人もなく、庭は八重葎いやが上に生茂りて、柿の木一本、古松二三あり。(中略)門は鎖さず、家は風雨の吹入るにまかせ、荒涼のさまいと詫し。」と記しているように、すぐに使われなくなったようだ。そして昭和10年(1935)小松家が落柿舎を処分する際に、新聞記者で俳人の永井瓢斎、そして堂島の相場師であった工藤芝蘭子が買い取り、修復を行っている。落柿舎保存会は公益財団法人となり現在まで落柿舎の姿を嵯峨野に残している。
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