真正極楽寺 (真如堂)
天台宗鈴聲山 真正極楽寺 (しんしょうごくらくじ) 2008年05月17日訪問
吉田神社の末社・斎場所大元宮から宗忠神社に向って坂道を下る途中で、大きな屋根と三重塔が正面に見えてくる。これが真如堂の堂宇である。宗忠神社の石段を下り、神樂岡東陵を左手に見ながら進むと、真如堂の朱塗りの総門が参道の奥に現れる。
一般に呼ばれている真如堂は本堂の名称で、正式な寺号は真正極楽寺。天台宗の寺院で山号は鈴聲山、本尊は阿弥陀如来、開基は戒算である。
永観2年(984)比叡山の僧である戒算が比叡山常行堂の本尊阿弥陀如来を一条天皇生母である東三条院詮子の離宮に安置したのが始まりとされている。
開基とされている戒算についての詳しい資料は少なく、真如堂の塔頭吉祥院の竹内純照住職の書かれているHP 苦沙彌のInternet僧坊 の中の 真如堂開祖 戒算上人 消息 - 境内霊譚奇談集Ⅱでは、元禄15年(1702)に卍元師蠻著が著した本朝高僧伝の記述から始まっている。 戒算の出身は不明であるが、比叡山で天台の教えを学び、後に浄土教を学んだとされている。永観2年(984)の春、比叡山常行堂の本尊・阿弥陀如来が戒算の夢に現れ、「人の集まる所で全ての民衆を救いたい」と告げる。戒算はこのお告げを実現するため、僧衆を説得し東山の神楽岡に本尊を安置する。そして正暦3年(992)に宣旨を承って寺を建立し、正暦5年(984)比叡山より高僧を招請して仏像を遷す供養法会を行う。長保元年(999)戒算は1丈6尺の涅槃仏を造刻して後門楼上に安置し、涅槃会を開いて不断念仏を行う。そして戒算は天喜元年(1053)享年91歳で遷化する。
この本朝高僧伝の記述は真如堂縁起をもとにしていると考えられている。
この当時の比叡山は、派閥抗争が激化している。第5代座主の円珍以降第11代までは円珍派から座主が選出されていたが、第12代から第17代座主は第4代天台座主・円仁の派閥が占めている。第18代座主に円仁派の良源が就任し、荒廃する延暦寺の復興にあたるが、第19代座主に良源の弟子尋禅が前例を破って就任すると、円珍派の反発が沸きあがり5年後には辞任に追い込まれる。その反動で第20代座主は円珍派の余慶が就任するも、今度は円仁派の妨害を受けわずか3ヶ月で辞任している。
この後、2代の座主は円仁派から選出すると、円珍派の勝算と成算が赤山禅院を襲って円仁の遺物を破壊してしまう。これに対して円仁派は円珍派の坊舎40余宇を破壊し、門徒千余人を追放に及んでいる。この攻撃により円珍派門徒は三井寺に移り、円仁派を山門派(延暦寺)、円珍派を寺門派(円城寺)と呼ぶような分裂状態に入る。さらに朝廷や摂関家もこの分裂騒動に関わったため、両派の衝突はこの後も長く続くこととなった。
ところで遷化した年と享年から戒算の永観2年(984)時点の年齢が22歳であることが分かる。竹内純照住職は、この若い僧の主張に従って本尊の遷座が行われたことに着目し、その出自を推測している。詳しくは、「真如堂開祖 戒算上人 消息」をご参照下さい。ここでは概略だけに留める。
竹内純照住職は、まず戒算の算の字に注目している。弟子の名前を付ける際、代々受け継いできた法脈の字を用いることが多くあるらしい。円仁派に正算という僧の名があり、円珍派にも房算、勝算、成算、穆算、済算という名も見られるため、ここからどちらの派閥に属していたかを特定することは難しい。しかし真如堂の本尊阿弥陀如来が円仁作であると伝えられていること戒算を円仁派の流れの中にいた僧と考えることができる。そして覚運の弟子の長算や広算の辺りにいた藤原北家に縁のある人物ではないかと推測している。
円仁派で第18代天台座主・良源には四哲と呼ばれる源信・覚運・尋禅・覚超という弟子達がいる。この中の尋禅は藤原師輔の十男で、後に第19代天台座主となっている。だから22歳で比叡山より本尊を遷し、神楽岡に寺院を起こすことが出来た戒算が藤原氏一族の出身であったと考えることも容易である。
真如堂建立の願主は東三条院である。
東三条院は藤原山蔭の玄孫にあたり、円融天皇の皇后、そして一条天皇の生母となっている。吉田神社の項でも触れたように、吉田神社は貞観元年(859)藤原山蔭が、一門の氏神として奈良の春日大社四座の神を勧請したのに始まる。 東三条院は応和2年(962)摂政関白・太政大臣藤原兼家の次女・藤原詮子として生まれている。摂関に在職した道隆、道兼、道長そして冷泉天皇女御超子は同母の兄弟にあたる。いわゆる藤原氏全盛期に、本流に属していた人物である。天元元年(978)に入内し、同年女御の宣旨を被る。天元3年(980)兼家の東三条邸において第一皇子懐仁親王を生む。この懐仁親王が後の一条天皇となる。天元2年(979)に中宮の媓子が没したため、空いた中宮位を藤原遵子と争い敗れている。父である藤原兼家と共に円融天皇を恨み、天皇のたびたびの召還にも応ぜず里邸の東三条邸に引籠もる。
しかし一条天皇が即位すると情勢は一変する。寛和2年(986)に皇太后に冊立され、正暦2年(991)円融法皇が崩御すると、詮子も出家して院号宣下を受け東三条院を称する。これは居宅の東三条邸に因んだもので、女院号の嚆矢でもある。一条天皇の時代には国母として強い発言権をもち、しばしば政治に介入している。特に4歳年下の弟・道長を可愛がり、兄道隆・同道兼没後の執政者に彼を推し、道隆の子で甥にあたる藤原伊周を圧迫し、遂には没落に追い込んでいる。
東三条院は自らの離宮に真如堂を開創し、戒算の阿弥陀如来遷座を受け入れている。この当初の場所は、現在の寺地の東北にあたり元真如堂と呼ばれている。 その後、応仁の乱応仁の乱(応仁元年(1467)~文明9年(1477))の際は、本尊を比叡山青竜寺へ、さらに江州穴大の宝光寺へと遷座している。応仁の乱終了後の文明10年(1470)に本尊を穴太より洛中一条町(現在の元真如堂町)に移している。文明16年(1484)には、第8代将軍・足利義政が真如堂を旧地である神楽岡での再建と本尊の帰座を命じ、灯明料として神楽岡東の花園田2町を寄付している。明応2年(1493)新造なった真如堂本堂にて本尊遷座の供養法会を催す。
永禄10年(1567)第15代将軍・足利義昭の命により足利義輝の菩提所となり、室町勘解由小路の義輝邸址に移される。しかしその地に義昭の邸を新築するため、永禄12年(1569)新たな寺地を一条通北(現存の元真如堂町)に移転する。その上、天正15年(1587)豊臣秀吉の聚楽第建設に伴い、京極今出川に移転される。慶長9年(1604)豊臣秀頼により真如堂本堂が再建される。その後、寛文元年(1661)と元禄5年(1692)の2度にわたり焼失している。
そして元禄6年(1693)東山天皇の勅により、真如堂は現在の寺地に復する。元禄8年(1695)総門(中門)、元禄9年(1696)元三大師堂、宝永2年(1705)真如堂、延享2年(1745)宝蔵、宝暦9年(1759)鐘楼、安永9年(1780)千体地蔵堂、そして文化14年(1817)には三重塔が竣工している。
宗忠神社からつづく道は参道となり総門へと続く。総門を潜ると参道の両側は鬱蒼とした木々が立ち並ぶ。参道は段状になり、徐々に本堂に向かい登っていく。参道の木々の外側には真正極楽寺の塔頭が並ぶが、この総門からそのまま参道に入るとその存在に気がつかない。
右手に鎌倉地蔵、三重塔(法華塔)、縣井観音、鐘楼堂、三千仏堂の諸堂、そして左手に茶所、千体地蔵堂、新長谷寺、元三大師堂が並ぶ。十五間四面の単層入母屋造り本瓦葺の本堂の前には石燈籠が3基建つ。この茶所は湯茶を接待するためだけではなく、建物の中心に仏間があり一光三尊の善光寺如来の御分身が祀られている。本堂の左には池があり、その中島には赤崎弁天を祀る小さな祠がある。
本堂の左手裏には庫裏、書院、位牌殿、開山堂や薬師堂が建つ。本堂の裏の万霊堂、経蔵を廻り、本堂右手裏を進むと真如堂の墓地を挟んで金戒金明寺へとつながっている。
元治元年(1864)に刊行された花洛名勝図会にはほぼ現在と同じ姿の図会が残されている。
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