百々橋 その2
百々橋(どどばし)その2 2010年1月17日訪問
水火天満宮の南に広がる扇町児童公園から小川通に入り南に下る。小川通が寺之内通と交わる北西角に細長い児童公園が現れる。小川の項でも触れたように、かつて小川通“おがわとおり”に沿って小川“こかわ”が流れていた。この寺之内通と交わる場所は百々の辻と呼ばれ、宝鏡寺を含む寺之内通の南北町は今も百々町という町名になっている。応仁以前の景観を描いたとされる中昔京師地図にも「百百ノ辻寺ノ内安居院」と記され、小川にも橋が描かれている。百百ノ辻に掛かる橋から百々橋と呼ばれている。百々の名は古より使われてきたようだ。元禄3年(1690)刊の「名所都鳥」(新修 京都叢書 第九巻「名所都鳥 堀川の水 都名所車 京内まいり」(光彩社 1967年刊))は、巻第四の橋ノ部で愛宕郡の第五の橋として百々橋を取り上げ、以下のように記している。
妙顕寺通二股川の末なり。東西にかけたり。橋の西宝鏡院の前の町を。百々の町といふよりいふか。古へ百々氏此所に住るなるべし。
この百々氏とは百々盛通を祖とする伊予国出身の豪族であろう。嘉吉年間(1441~44)に越智通春(河野通春)が近江の守護大名であった京極氏を頼って近江に移ったことに始まるとされている。ただし嘉吉年間とは室町時代後期にあたり、応仁の乱の凡そ20年前にあたる。中昔京師地図に百百ノ辻と記される来歴にしては、やや新し過ぎるようにも感じる。当初、細川派であったが、嘉吉の乱後、通春は幕府からの命令を引き出して本家の河野教通を討とうとした。しかし吉川経信や小早川盛景の援軍があり果たせず、文安6年(1449)に伊予守護に就任している。しかし翌年に教通に交替、さらに享徳2年(1453)に守護職に再任され、再び享徳4年(1455)に細川勝元に交替させられている。寛正3年(1462)阿波守護細川成之と戦い勝元と対立することとなる。寛正5年(1464)には伊予の混乱を収拾するために攻め込んだ勝元の軍勢を大内教弘の援軍を受けて撃退している。応仁の乱に於いては西軍に属し、東軍についた教通と対立した。
再び中昔京師地図を眺めると、応仁の乱前のこの地に何が存在していたかが分ってくる。
先ず北側には天神社、後花園院陵、悲田院地という名称が見える。天神社は水火天満宮のことであり、第二次世界大戦の建物疎開で移転する前の位置に描かれている。その東には後花園天皇火葬塚があり、この地に悲田院があったことが分かる。後花園上皇は文明2年(1470)12月27日、中風のため室町第で崩御している。上皇の最期を看取ったのは、屋敷の主である足利義政・日野富子夫妻とされている。翌3年(1471)1月3日に悲田院にて火葬埋骨され、翌月には遺詔により常照皇寺の光厳天皇陵の傍に移されている。なお、応仁の乱は文明9年(1477)まで続き、上皇の崩御は戦乱の中の出来事であった。外出が困難な時期にもかかわらず、足利義政は葬儀から四十九日の法要まで全てに参列したとされている。
天神社と後花園院陵の南は本法寺の寺地であるが、中昔京師地図には惣持寺地と瑞花院地と記されている。本法寺が現在地に移ってきたのは天正18年(1590)の豊臣秀吉の洛中整理策によるものである。この中昔京師地図では堀川の西、一条戻橋の北に浄菩提寺とともに描かれている。
また小川通に面する表千家、裏千家がこの地で茶道宗家となったのも千利休没後のことである。つまり応仁の乱の時代には両千家は勿論、千利休も存在していなかった。なお利休の切腹から3年が経った文禄3年(1594)、徳川家康と蒲生氏郷の連署状により秀吉の勘気も解け、千少庵は京に戻ることが許されている。少庵は環俗した息子の宗旦とともに現在の小川通の東に千家の再興を果した人物とされている。いずれにしても17世紀頃の出来事である。
これも後で詳しく記すこととなるが、光厳天皇の皇女恵厳禅尼によってこの地に宝鏡寺が再興されたのは、応安年間(1368~75)のことであった。この宝鏡寺には継孝院、養林庵、大慈院、恵聖院、瑞花院など末寺があった。地図に記されていた瑞花院地とは、この地にあった末寺・瑞花院のことである。
地図に記されたもう一つの惣持寺は臨済宗の尼門跡寺院であったが、今は存在していない。室町時代初期に五山に倣い、景愛寺、通玄寺、檀林寺、護念寺、恵林寺が尼五山に定められたが、室町後期の戦乱の中で衰退し廃寺あるいは合併統合されていった。景愛寺や通玄寺などの本山も、名跡のみが残るだけとなり、逆に宝鏡寺、大聖寺、曇華院などの塔頭寺院が継承され現在に至っている。
総持院は日野榮子(浄賢竹庭)を開基とした門跡尼寺であった。同じ時期に慈受院も浄賢竹庭によって開創されている。この2つの寺院に曇華院を加え通玄寺の三子院として本山が衰退した後も存続した。もともと、総持院と慈受院は一世浄賢竹庭とその跡を継いだ二世桂芳宗繁(足利義持の娘)によって兼帯されてきたが、その後はそれぞれ住持を迎え独立している。現在、宝鏡寺の西側、堀川通に面して薄雲御所という異名でかつての慈受院が継承されている。この慈受院は明治時代に入り衰退したため大正8年(1919)に総持院を併合し再興された寺院である。中昔京師地図に記された惣持寺は慈受院として現在に残ったことになる。
さらに中昔京師地図によれば、小川通と寺之内通の東北角に細川政国の屋敷があったことが分かる。政国は典厩家の当主・細川持賢の養子となり、応仁2年(1468)に持賢が死去すると、家督を継いで典厩家当主となっている。応仁の乱では細川勝元を支持し文明5年(1473)に勝元が死去し幼少の政元が家督を継ぐと、その後見人として補佐を務めた人物である。この細川政国の屋敷の寺之内通を挟んで南側に、細川勝元と政元が居とした屋敷があった。さらにその西南には、政国、政賢が当主となった典厩家の屋敷もあった。このように、細川勝元・政元父子の屋敷を中心として、それを支持した細川政国や典厩家の屋敷が隣接したことから、応仁の乱の東軍の拠点が百々橋の東側にあったことは明白である。
これに対して西軍の総大将であった山名宗全の屋敷址を示す石碑は、堀川通上立売下る一筋目北西角の山名町内にある。東西は堀川通、南北は上立売通と寺之内通を挟んで両陣が対峙していたことがよく分かる。
応仁の乱は文正2年(1467)1月18日に、上御霊神社で畠山義就軍と畠山政長軍が衝突した御霊合戦から始まっている。それを示すように、上御霊神社の西門前には応仁の乱勃発地の石碑がある。 応仁の乱の発端は、享徳3年(1454)から始まった畠山氏のお家騒動であり、それを助長したのは室町幕府8代将軍足利義政の介入であったとされている。しかし、その火種は義政の2代前の6代将軍足利義教の強権政治によって齎されたと考えてもよいだろう。呉座勇一氏著の「応仁の乱 戦国時代を生んだ大乱」(中央公論新社 2016年刊)は、この複雑な対立構造を説明するために応永年間(1394~1427)の大和国の勢力分析から始めている。同書は興福寺別当にあたる寺務大僧正を4度務めた経覚と経覚のあとを受けて大乗院に入り以後70年間在院した尋尊、そして成身院光宣を中心に据え、彼等の遺した日記から応仁の乱を客観的に俯瞰している。乱に参戦した武将の視点ではなく、大乱に翻弄された側の情報収集とその分析観察は、より緻密であるように思える。いずれにしても直接的な武力衝突は文正2年から始まったものの、この応仁の乱の背景を知るためには、第6代将軍・足利義教治世の正長2年(1429)の大和永享の乱から説明を始めなければ対立構造を理解することが難しいということであろう。ここでは百々橋で行われた戦闘に至る経緯を本項含めて3回に分けて説明することとする。
正長2年(1429)に将軍になった義教は幕府の権威復興のため、奉行人制度や将軍直属軍である奉公衆を強化し将軍親政の復活を図った。永享11年(1439)2月10日には対立していた関東公方・足利持氏を自害に追い込んだ。これにより関東を平定し、中央集権の実現へ一歩近づいた。更なる権力の掌握を進めるために義教が行ったことは、管領への統制強化と共に斯波氏や畠山氏などの家督継承への積極的な干渉であった。このような情勢で一色義貫や土岐持頼が将軍により誅殺されると、有力守護大名も我身に降りかかる厄災を想い「万人恐怖」となっていた。
嘉吉元年(1441)6月24日、赤松満祐は自邸に招いて行った宴の最中に将軍・足利義教を誅殺している。将軍によって満祐が討伐されるという噂が巷に流れ、先手を討たざるを得ない状況に追い込まれていた。この乱の終結後、義教によって隠居させられていた畠山持国は赦免される。つまり前年の永享12年(1440)7月から嘉吉元年(1441)4月に渡って行われた結城合戦への出陣を拒んだことが口実となり、弟の持永に家督を移されていた。赦免された持国は直ちに挙兵し持永を討ち、畠山家の家督を奪回している。
嫡子のいなかった持国は弟の持富を一度は後継者としたが、文安5年(1448)11月に持富を廃し、自らの子である畠山義就(義夏)に変更している。義就は畠山持国の子供であったが母が側室であったことから庶子として扱われてきた。
宝徳2年(1450)義就は家督を相続し幕府もこれを認めた。持富は兄の違約に反対を唱えることなく畠山家を去り、2年後の宝徳4年(1452)に没している。この急な後継者変更に一部の畠山家家臣が反対を表明し、新たに持富の子の弥三郎(政久)を指名するに至った。この後継問題の迷走によって家臣団は弥三郎派と義就派に分裂し、享徳3年(1454)4月には義就派の遊佐氏が弥三郎派の神保氏の屋敷を襲撃する事件を起こしている。神保親子は戦死、椎名、土肥等の神保の与党は京都から逃げ出している。
上記の「応仁の乱」によれば、持国と家臣達の離反は永享12年(1440)に義教の不興を買った際の持国が家臣に対して抱いた不信感によるものとされている。持国は昔からの有力家臣に見捨てられた考え、河内に没落した期間支えてくれた家臣を復帰後に重用した。この人事によって畠山家の家臣内に反目が生じたというのが真相のようだ。15年を経ても、畠山家は義教の亡霊に憑り付かれていたということになる。
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