足利将軍室町第址 その2
足利将軍室町第址(あしかがしょうぐんむろまちだいあと)その2 2010年1月17日訪問
白峯神宮 その9の南門を潜り今出川通に出る。そのまま今出川通の北側の歩道を東に進むと、室町通の東北角に足利将軍室町第址の石碑が現れる。大正4年(1915)に京都市教育会が建立した碑で、「従是東北 足利将軍室町第址」と記されている。ここが室町幕府の花の御所の西南の角に当たることを示している。2008年5月13日以来2度目の訪問となる。前回は足利幕府の将軍の邸宅の変遷について書いたので、今回は第3代将軍・足利義満が築いた室町殿について書いていく。
今出川通は平安京の一条通より北に位置することから、都の北郊が拡大した際に作られた通りである。すでに中世には北小路と呼ばれ、応仁の乱以前の京の状況を表わした中昔京師地図にも北小路の名称を見ることができる。なお東洞院通以東京極大路まで北小路の北側を今出川が流れていたことから現在の今出川通の名称になった。 西園寺家の本所邸宅である今出川殿は一条大路の北側に位置し、東側には今出川が流れ、北は武者小路を以って限られていたと考えられている。当時の今出川は一条通辺りまで南下しており、その状況は中古京師内外地図でも確認できる。この西園寺公経の今出川殿からさらに北側に西園寺家の一族子孫が集住していた。そして北小路室町、すなわち今出川室町の地には、西園寺実兼の第四子兼季を始祖とする菊亭家と公経の第四子実藤を始祖とする室町家の邸が隣接して設けられていた。実藤より5代目に当たる季顕の時、室町家の宅地を足利幕府第2代将軍・足利義詮に売却している。義詮はこれを別業に改め上山荘となした。また兼季の菊亭は北朝第2代光明院や北朝第3代崇光院の仙洞御所として使われていたことからも当時の上層邸宅の一つであった。貞治6年(1367)将軍義詮が崩御し、上山荘は崇光院御所として献上され、同7年(1368)2月5日に移徒されている。しかし永和3年(1377)、付近で発生した火災により院御所をはじめとし、菊亭、柳原日野邸などを焼失している。その後、院御所は再建されずにそのまま放置された。
父・義詮の崩御に伴い将軍を継承した足利義満は、義詮の旧地である上山荘とその周辺が火災後も放置されていることに目を付け、永和4年(1378)3月に新亭を築き、義詮が残した三条坊門邸(現在の柳馬場通御池)から居住した。その際、元の季顕邸すなわち室町家宅地だけでなく菊亭跡地も組み込み東西1町南北2町の敷地にした。これが義満造立の室町殿である。その四至は北小路以北、柳原以南、今出川以西、室町以東で室町通に面して正門である晴の礼門が設けられた。その敷地を現在の地図に落とし込むと、東は烏丸通(烏丸小路)、西は室町通(室町小路)。南は今出川通(北小路)で北は上立売通(毘沙門堂大路)に囲まれた地域で、今出川町、築山南半町、築山北半町、岡松町、御所八幡町、裏築地町上立売東町が含まれる。
義満の室町殿を花の御所と呼ぶのは、義満が新亭に名花を多く植樹したからと云われているが既に崇光院の仙洞御所のころから花御所の呼称が存在していた。上記のように室町殿は、季顕邸-足利義詮山荘-仙洞御所と兼季の菊亭の2つの邸宅を併せて作られたものである。川上貢は「日本中世住宅の研究 新訂」(中央公論美術出版 2002年刊)で2つは室町殿の中で分かれており、前者は花亭と呼ばれ敷地の北側、柳原邸の南隣に位置していたと考えている。この花亭には康暦元年(1379)7月8日に移徒している。永和4年(1378)3月10日に移徒した菊亭跡地の方は下亭または下宿所と呼ばれ花亭の南隣に位置した。後に両邸は北御所・南御所とも称されるが、両者を併せて花御所と呼んだようだ。
この室町殿の建築施設の内容を具体的に示す資料はない。ただ「日本中世住宅の研究 新訂」によれば寝殿・中門・透渡殿・対屋・釣殿などと寝殿内に台盤所・常御所・夜御殿・女房局などの諸室があったことは分っている。室町殿には初めての将軍邸の会所が北御所に設けられたことで知られている。会所とは行幸などの行事に使われた建物であるが、私的で遊興的な行事で使われることが多かったようだ。
室町殿に将軍邸を造営した足利義満は、やはり西園寺公経の別業であった北山殿を西園寺家から河内国所領と交換する形で入手している。そして応永5年(1398)4月には新たな北山殿を竣工させている。これは応永元年(1394)に将軍職を子の義持に譲った後も政務を執る場として北山殿を造営したと考えられている。現在、金閣が残る相国寺山外塔頭の鹿苑寺である。 創建後25年を経た応永13年(1406)幕府は山城国中に上納金を課している。未だ存命していた義満の権威を利用し室町殿の修理を行っている。永享元年(1429)第6代将軍足利義教は室町殿御会所と御会所泉殿の増築のため青蓮院の石を運ばせている。永享9年(1437)には後花園天皇の行幸があった。その際の行幸記により上記のような建物が室町殿に存在したことが分っている。
宝徳元年(1449)足利義政が第8代将軍となり会所が落成する。長禄3年(1459)2月上棟。同年11月室町新邸に移る。
応仁元年(1467)山名宗全の率いる西軍が室町殿を攻撃し応仁の乱(1467~77)が始まる。義政は文明6年(1474)第9代将軍足利義尚に室町殿を譲り今出川の小川御所に移る。しかし直後の文明8年(1476)近くの土倉や酒屋が放火されて室町殿をはじめ禁裏や公家、武家、門跡寺院の多くを焼失している。乱の終結をみた文明11年(1479)管領・畠山政長を惣奉行として諸国に上納金を課し、室町殿の再建を図る。新たな寝殿を造営したが翌年にまた類焼している。その後、再興はあったもののどの程度であったかは不明。やがてこの地に庶民の家が建ち並ぶようになった。
室町殿の跡地に残された町名の内、御所八幡町は鎮守神の八幡宮があったことに因んだものである。 現在上御霊神社に八幡宮跡を示す石標が建っているが、元々勧請されたのは御所八幡町として町名が残る烏丸通上立売下ルの地であった。
岡松町は御所内の岡松殿に因んで名付けられたもの。「京都坊目誌」には「明治二年二月。一本松片岡両町を合して。岡松町と為し旧称に復す。」とあるが、一本松は二本松の誤り。
ところでフィールド・ミュージアム京都の KA041足利将軍室町第址 を閲覧して初めて気が付いたが、確かにこの石碑は上から5分の4にあたる位置で継ぎ足されている。2度も訪問しても全く気がつかなかった。2008年の写真を確認してもはっきり継ぎ目が写っている。下部に比べ上部の方が新しく見えるが、北面の「大正四年十一月建之 京都市教育委員会」は、京都市教育会の誤りということならば下部の方が後で作り足したことになる。以前もこのページは確認していた筈なんだけど、初めて読む気がする・・・。
ということで2015年にダウンロードしたka041.htmlファイルがHDに残っていたので確認したら下記の様になっていた。
この地は,室町幕府三代将軍足利義満(1358~1408)が造営した将軍家の邸宅跡で幕府が置かれた。北は上立売通,南は今出川通,東は烏丸通,西は室町通に囲まれた東西一町,南北二町の規模であった。仙洞御所や公家邸宅の跡地に造営され,邸内の樹木苑地が美しかったことから花の御所とも称された。応仁元(1467)年,戦火で焼失,文明年間(1469~87)に再建したが再び焼失した。この石標はその跡を示すものである。
所在地 上京区室町通今出川東北角
位置座標 北緯35度01分31.5秒/東経135度45分37.8秒(日本測地系)
建立年 大正4年
建立者 京都市教育会
寸 法 高124×幅19×奥行18cm
碑 文
[南]
従是東北 足利将軍室町第址
[北]
大正四年十一月建之 京都市教育会
[西]
今出川千本
寄附者 田中
調 査 2002年2月7日
備 考
こちらのページの説明文も石碑同様に後で書き足していたことが分った。(記憶違いでないことが確認できて安心しました。)
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