文書と写真・地図による「記憶」の再現

京都御所



京都御所(きょうとごしょ) 2008/05/13訪問

画像
京都御所 承明門から紫宸殿を眺める

 昼食を終え、再び烏丸丸太町の交差点に戻ったのが13時近かった。仙洞御所の参観と同様、13時20分までに清所門に到着しなければならない。京都御苑の中でも北よりなので、地下鉄烏丸線で1駅先の今出川駅で下車して歩くこととした。烏丸通沿いの乾御門より京都御苑に入り御所の清所門を目指す。

画像
京都御所 月華門から日華門を眺める

 元々平安京の皇居は、朝堂院の北東に隣接する内裏であった。内裏の規模は南北300メートル、東西220メートルと少し小さなものであった。当時の内裏の紫宸殿の回廊の南正面にあった承明門の跡は、現在上京区下立売通浄福寺西入南側のあたりと考えられている。現在の承明門と比較するとおよそ西に1700メートル、南に400メートル程度離れた位置にあったこととなる。火事によって内裏が焼失すると、天皇の在所を一時的に他所へ移す必要がある。当初は天皇退位後の在所とすることを目的として設けられた後院を仮皇居として使用していた。しかし既に後院を太上天皇が使用している場合は、天皇の外戚の邸宅などを仮皇居としたことがあり、これを里内裏と称していた。藤原道長に代表される摂関期では、平安宮内裏が健在であるのにもかかわらず里内裏を皇居とする例はほとんど無かった。しかし白河上皇の院政期以降になると、平安宮内裏の有無に関わらず里内裏を皇居とする例が一般化していった。

画像
京都御所 承明門 広角レンズによる撮影のため歪んでいる
画像
京都御所 承明門より紫宸殿を眺める

 現在の京都御所の基となるのは、元弘元年(1331)北朝の光厳天皇が即位した里内裏 土御門東洞院殿である。元は平安時代後期の公卿 藤原邦綱の邸宅であった。土御門大路(上長者町通)の北、東洞院大路(東洞院通)の東にあり、一町四方の敷地に紫宸殿と清涼殿を兼用するような小規模な里内裏だったと考えられている。現在の京都御所とほぼ一致する場所と思われる。この里内裏を基に拡充が行われ、明治2年(1869)の東京遷都までの500年以上の間、皇居とされてきた。
 京都御所は江戸時代だけで6回の火災焼失にあい、8回の再建が成されている。天明8年(1788)の大火で焼失すると、老中 松平定信が総奉行となり、故実家 裏松固禅らの考証によって紫宸殿を含む多くの殿舎の意匠を平安の古制に復元した。また飛香舎などの当時既に失われていた殿舎の一部の復興を図り寛政2年(1790)に完成した。この殿舎も嘉永7年(1854)に焼失する。現存する建物は江戸末期の安政2年(1855)寛政期の内裏に従って再建されたものである。

 今私たちが見る御所は、南北450メートル、東西250メートルの11万平方メートルの方形の敷地にそれほど高くない築地塀を巡らすことで区切られている。この塀には6つの門が設けられている。南から時計回りに見ていくと、南面には建礼門、西面に宣秋門 清所門 皇后門の3つの門、北面は朔平門、そして東面には建春門があり、この他にも穴門と呼ばれる小さな入口が12箇所あけられている。
 この築地塀の中に建てられている殿舎は、宮廷で行われる儀式や当時の生活様式が分からないと、なかなか理解することが難しい。その中でも主要な建物は、紫宸殿、清涼殿と小御所、御学問所、常御所となる。

画像
京都御所 建礼門

 建物の平面構成は、中央部に正面9間、側面3間の身舎(もや)があり、これを取り巻くように廂と呼ばれる庇が付け加えられている。そのため建物外観は東西に11間、南北に5間に見える。さらにその外部に簀子縁が巡らされているため、平屋ではあるが巨大な建築物に見える。西和夫氏の書かれた「京都で「建築」に出会う 見るおもしろさ、知る楽しみ」の紫宸殿の項(P154)によると、上記寛政年間に行われた平安古制に従った復元は、建物の平面構成と障壁画や建具等については行われたが、建築の構造や外観デザインについては、

     「平安時代とまったく異なった、江戸時代の技術による江戸時代のデザインである」

としている。確かに平安京の大内裏の正庁である朝堂院の大極殿を模したといわれる平安神宮の社殿とは異なる印象を得る。建物規模は無視をして、この2つを比較すると紫宸殿の方が、屋根、階高、1階床レベルのいずれも高さ方向に引き伸ばされている。屋根が大きく勾配が急になっていること、建物高さがすべてにわたって高すぎること、高くするために禅宗建築様式の斗栱や尾垂木を入れてしまい寝殿造にない建築様式になっていること、そして床にも禅宗建築様式の礎盤を入れて高くしていることを西氏は指摘し、建築史の研究が今ほど進んでいなかった江戸時代に行われた復元の限界を説明している。
 確かに私たちが持つ平安時代の建物のイメージは、白砂の南庭の越しに見る紫宸殿のどっしりとしたシルエットである。なかなかこのイメージの修正は難しいものである。

 紫宸殿の前には回廊で区切られた南庭が広がる。南庭へは紫宸殿の正面に作られた18段の階段で降りることとなる。階段の下りた箇所には東に桜、西に橘が植えられている。左近の桜、右近の橘である。これは紫宸殿から見た左右で名づけられている。天子が南面して東が左、西が右ということは、地図上では奇異に感じる右京区、左京区の関係にもつながる。現在の左近の桜は昭和5年(1930)に旧桂宮邸から移植されたものであるが、平安京創建時は梅が植えられていた。康保2年(965)より桜に変わったのは、平安時代の人々の好みが桜に変わっていったのを受けてのことと考えられている。日本人の桜好きはこのころから続いているのかもしれない。右近の橘の方は、安政2年(1855)の改修の4年後に左近の桜とともに植えられている。この時の桜は前述の通り寿命尽きて昭和5年(1930)に植え替えられている。
 紫宸殿と南庭を囲む回廊には3つの門がある。南に承明門、そして東西に日華門と月華門。紫宸殿から承明門を通る軸は建礼門に至る。そのため建礼門は天皇と外国からの国賓が御所に入る際に使用される。葵祭は建礼門から始まると言われるが、実際は宣秋門から出た行列は御所の南西角を回り建礼門の前に出てくる訳で、門を潜ることはない。

 紫宸殿の内部の床は拭板敷きとよばれる釘頭が見えない仕上げとなっている。また天井は張られず、そのまま垂木を見せている。構造体は素地のまま使われ、壁は土壁に漆喰塗りということで、抑制された簡素な印象を与える空間に仕上がっている。柱は全て丸柱が使用され、外部の建具には板扉と蔀戸が使われている。蔀戸は建物内側に引き上げられる。
 紫宸殿に昇殿すると正面に32人の人物を描いた画が見える。身舎と北廂の間に入れられた建具には夏から唐の時代の歴史上の賢者たちが一間に4人、その説明が付けられ描かれている。中央の1間は扉となっており、左に獅子、右に狛犬が対面する形で描かれている。これらは賢聖障子と呼ばれ、弘仁年間(810~824)あるいは寛平年間(889~898)に大和絵を確立させた巨勢金岡が描き、説明書きである賛を執筆したのは小野道風と伝わる。寛政2年(1790)の再建時に、幕府は図の冠服考を儒学者 柴野邦彦に命じて考証させ描き直させている。取り外すことも可能な構造となっているため、嘉永7年(1854)の火災の際にも焼失を免れた賢聖障子は、安政2年(1855)には修復されている。

画像
京都御所 清涼殿 柱と軒と壁の関係を見ても独自な構造であることが分かる

 紫宸殿の身舎が東西方向に9間であったのに対して清涼殿は南北方向に9間となっている。南面する紫宸殿とは異なり、清涼殿は東面している。また清涼殿の東の庭には漢竹と呉竹が植えられているが、寛政度の改修の際に年中行事絵巻など参考にして復元されたものである。
 清涼殿の内部構成は、紫宸殿の単一な空間と異なり、いくつかの小さな部屋に区切られている。まず身舎は南側の5間と北側の4間に違う役割が与えられている。
 南側5間は昼御座と呼ばれ、天皇の日中の座として使われた。主に叙位を初めとする重要な行事がこの場所で行われた。天皇の休息用の御帳台が置かれ、その東側手前に繧繝縁の二枚重ねの畳の上に茵の敷かれた天皇の座がある。また身舎の東南隅には床を石灰で築き固めた石灰壇と呼ばれる箇所がある。ここは天皇が神々への遥拝を行う場所とされている。そのため板敷きではなく、地面の延長である石灰を固めた床となっている。
 昼御座の南、南廂の部分に殿上間がある。名前のとおり、昇殿が許された殿上人が拝謁する順番を待っていた控えの間である。殿上間の昼御座側の壁には日給簡と呼ばれる将棋の駒のような板が掛けられていた。これには殿上人の名前が三段に書き記され、出勤日時の書かれた「放ち紙」が張られていた。いわゆる勤務予定表のようなものであった。殿上人は日給簡で定められた日には殿上間に詰める義務があり、病でもない限りたとえ太政官でも各自の省庁に出仕せず、殿上間に詰めている事になっている。そのため出仕しなければ不参として記録される。殿上間から内側は覗けない構造となっているが、内側からは殿上間の様子が分かるようになっている。

画像
京都御所 清涼殿前の東庭 右手の建物は紫宸殿の北面
画像
京都御所 清涼殿前の東庭

 北側4間は夜御殿と呼ばれ、寝室として使われていた。繧繝縁の厚畳二枚を敷き、その上にさらに一枚置いて、その周囲を四隻の大宋屏風を立て並べ、御帳台の略式である帳代を形成した。寛政2年(1790)の復古の際に、毬杖を持った中国風の人物が描かれている。
 この他にもそれぞれの役割を持った多くの諸室が清涼殿にはある。建物平面構成を含めて、「mineo」さんのHP雄峯閣 ―書と装飾彫刻のみかた―に詳細に説明(紫宸殿清涼殿)されているので、そちらを参照するとさらに平安時代に行われていた儀式や生活が身近なものになると思われる。

画像
京都御所 小御所 南面の屋根
画像
京都御所 小御所 蹴鞠の庭側から眺める
画像
京都御所 御学問所 手前が蹴鞠の庭
画像
京都御所 小御所 御池庭
画像
京都御所 御常御殿 東面の屋根
画像
京都御所 御常御殿 御内庭

 この建物の北側には迎春、御涼所、聴雪、御花御殿などの奥向きの建物がある。さらに北にある皇后御常御殿、若宮御殿、姫宮御殿、大黒戸そして飛香舎などの建物群へは朔平門からの入場となるが、通常の参観時には公開されない。

画像
京都御所 小御所 御池庭

「京都御所」 の地図


大きな地図



京都御所 のMarker List

No. 名称 緯度 経度
01  京都御所 紫宸殿 35.0241 135.7621
02  京都御所 清涼殿 35.0244 135.7617
03  京都御所 承明門 35.0235 135.7621
04  京都御所 月華門 35.0239 135.7617
05   京都御所 日華門 35.0239 135.7625
06  京都御所 小御所 35.0246 135.7625
07  京都御所 御学問所 35.0249 135.7625
08   京都御所 蹴鞠の庭 35.0248 135.7626
09  京都御所 御池庭 35.0247 135.7631
10  京都御所 御常御殿 35.0253 135.7628
11  京都御所 御内庭 35.0253 135.7631
12  京都御所 建礼門 35.0233 135.7621
13  京都御所 宣秋門 35.0247 135.7611
14  京都御所 清所門 35.0258 135.761
15  京都御所 皇后門 35.0271 135.761
16  京都御所 朔平門 35.0272 135.7624
17  京都御所 猿ヶ辻 35.0273 135.7637
18  京都御所 建春門 35.0236 135.7636

「京都御所」 の記事

「京都御所」 に関連する記事

「京都御所」 周辺のスポット

    

コメント

  1. 初めまして!
    遊びに来ました!
    これからヨロシクお願いしま~す

    • Vinfo
    • 2009年 6月 28日

    ややちゃん さん
    初めまして。
    興味の合うテーマがありましたら、どうぞコメントお願いします。
    もう1年以上前のことを思い出して書いています。まだまだストックがありますが、なかなか筆が進まなくて困っています。少し記憶が不鮮明になりつつところもありますが。。。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

サイト ナビゲーション

投稿カレンダー

2009年6月
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
2930  

過去の記事

カテゴリー

最近の投稿