貴船神社 つつみが岩
つつみが岩(つつみがいわ) 2010年9月18日訪問
相生の大杉、その傍らのその傍らの貴船神社末社の林田社と私市社からさらに奥宮に向かって進むと、左側につつみが岩と呼ばれる巨石が現れる。
貴船石特有の紫色で、古代の火山灰堆積の模様を表している。重さは約43t、高さ4.5m、周囲9mの巨石である。いわゆる貴船石とは、賀茂川の上流貴船付近で採れる川石の総称である。石種は輝緑凝灰岩ともいわれるが、さらに上流から流れてきたものもあるため1種に限定されるものでは無いようだ。従って貴船石と呼ばれる石には黒紫色、柴色、緑色などがある。
「加茂七石」という言葉がある。賀茂川に産し「水石」として珍重される石の総称で、一般には、鴨川上流の紅加茂石(チャート)、雲ヶ畑石(チャート)、鞍馬川の鞍馬石(石英閃緑岩/花崗閃緑岩)、静原川の賎機石(珪石)、高野川の八瀬真黒石(泥質岩の接触変成岩・ホルンヘルス)に貴船川の貴船石(緑色岩類)と畚下石(チャート)を加えたものを七石と呼ぶようだ。水石は室内で石を鑑賞する日本の文化、趣味とされている。自然石を台座、または水盤に砂を敷き配置して鑑賞するものである。元は中国から渡来し、日本では南北朝時代頃より始まったと考えられている。そして能や茶事や東山文化の発展に従い、水石は日本独自の文化を反映するものと変わっていった。つまり発祥の地である中国の愛石趣味がそのまま日本に根付いたのではなく、日本人の好みに変容していったということらしい。日本水石協会の公式HPには以下のような記述が見られる。
この日本独自という点についての実証として、現在までに続く日本の水石と、中国の鑑賞石とが明確に異なる価値判断により選別されている事があげられます。日本における水石は、その形を重んずるのはもちろん、色合いにおいてはいわゆる「真黒」を以ってよしとする傾向を有しているのに対し、中国の鑑賞石は派手な色彩石のような石を好んで据える事も多く、また日本の水石は、卓上にかならずただ一つの石を置きますが、中国においては必ずしもひとつの石ではない点などが、あげられると思われます。
勿論、加茂七石は水石や盆石だけでなく庭石にも広く用いられてきた。近年の庭としては、二条城内に築かれた清流園の南西隅の一画や、三十三間堂の斜め辻向かい、七条通大和大路の通りに面した加茂七石庭という小さな庭園があげられる。この加茂七石庭は平安建都千二百年記念事業として造られたものである。これ以外にも今日の民家では古くから京都産の石を庭石として用いてきた。小林章・金井格氏の論文「京都における造園用石材の地域性の研究」によれば、調査を行った京の民家52庭の中で24庭に鞍馬石、16庭に貴船石が使われていること、さらに京都産以外の石と比較すれば、鞍馬石、貴船石そして白川砂の使用頻度が極めて高いことが分かる。このように京都では特に北側の鞍馬川(貴船川)、高野川そして白川が産する川石を鞍馬や白川の石商が鴨川を使って運んだことより、他の京都産の石より多く使われてきたのであろう。石の風合い愛でて加茂七石は選ばれたものであるが、供給する量とその方法に依存するところも鍵になっていたはずである。
戦後に入ると鞍馬石も貴船石もかつてのように採掘することができなくなり、これらの庭石の市場価値が急騰している。今江秀史氏の論文「文化財に指定等された庭の修理に伴う加茂七石の補填の検討」によれば、加茂七石の採取方法が以下のように変わってきたことが分かる。
造園会社に石材を卸す北山都乾園(北区)の5代目,北山利通社長は,なじみの不動産業者から「京町家が壊されそうだ」という情報を聞くと,すぐに駆けつける。鴨川水系で採取された「加茂七石」は,京の庭園に欠かせない名石だ。しかし,戦後の規制強化で府内の河川敷では採取が原則禁止された。北山さんは,府外まで足を伸ばして加茂七石に似た石を探してきたが,全国的にも規制が厳しくなった。そこで目を向けたのが,老朽化で解体が進む町家だった。
最後に、竹村俊則の「昭和京都名所圖會 3洛北」 (1982年刊 駸々堂出版)には下記のような記述が見られる。
[鼓々淵]は結社付近の貴船川の淵瀬をいう。この淵におちる水音があたかも鼓の音に似ていることから呼ばれるに至った。
この岩がつづみが岩と呼ばれるのは鼓々淵によるものかもしれない。
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