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鞍馬寺 その5



鞍馬弘教総本山 鞍馬山鞍馬寺(くらまでら)その5 2010年9月18日訪問

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鞍馬寺 冬柏亭

由岐神社の拝殿を潜り、鬼一法眼社、魔王の滝、吉鞍稲荷社、そして放生池を過ぎると再び普明院に戻る。ここから再びケーブルを使い本殿金堂を目指す。そこから今度は奥の院参道に入って行く。

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鞍馬寺 奥の院入口

本殿左側の参道を進むと霊宝殿の手前に與謝野晶子・寛歌碑と冬柏亭がある。先代管長の信楽香雲が與謝野晶子・寛に師事したことからこの鞍馬寺に造られた。香雲管長の前半生の自叙伝「独り居るを慎む」(鞍馬弘教総本山鞍馬寺 2004年刊行)の略年譜によれば明治28年(1895)に岐阜県郡上郡八幡町の服部真静・かつの三男・誠三として生まれている。八幡尋常高等学校卒業後の14歳で明治41年(1908)岐阜県揖斐郡の谷汲山華厳寺の高橋恵覚師の徒弟となり得度し法名を真純とする。大正元年(1912)に鞍馬寺貫主の信楽真晁師の養嗣子となり鞍馬寺に入山し真純となった。香雲と名乗るのは戦後、鞍馬弘教を開宗し初代管長に就任してからのことである。翌2年(1913)に比叡山中学校に入学、同7年(1918)天台宗西部大学に入学している。香雲が与謝野鉄幹・晶子の直門に入ったのはこの頃である。
与謝野鉄幹は明治6年(1873)京都府岡崎町の西本願寺派の寺院・願成寺の僧侶の四男として生まれている。明治16年(1883)に大阪府住吉郡の安養寺の養子となり、 明治22年(1889)には西本願寺で得度の式をあげている。その後、現在の山口県周南市の兄の寺に赴き、寺の経営する徳山女学校の教員となっている。この徳山女学校で女子生徒と問題を起こし、明治25年(1892)退職し一度京都に戻った後、上京している。明治29年(1896)出版社明治書院の編集長となる一方、跡見女学校で教鞭を執っている。そして明治33年(1900)「明星」を創刊し。ロマン主義運動の中心的な役割を果たすに至った。この頃、鉄幹は晶子と出会い、明治34年(1901)には結婚している。鉄幹にとって晶子は3番目の妻となった。

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鞍馬寺 与謝野寛・晶子歌碑

与謝野晶子は、明治11年〈1878〉現在の大阪府堺市の老舗和菓子屋「駿河屋」の三女として生まれている。堺市立堺女学校に入学すると、「源氏物語」などの古典から紅葉、露伴、一葉などの小説に接するようになり、明治34年(1901)には処女歌集「みだれ髪」を世に出し、浪漫派女流歌人としてのスタイルを確立した。明治37年(1904)には「明星」に「君死にたまふことなかれ」を発表している。そして明治44年(1911)に初の女性文芸誌「青鞜」創刊号に「山の動く日きたる」で始まる詩を寄稿している。明治45年(1912)晶子はフランスのパリに行くことになった。明治41年(1908)に「明星」を廃刊にした鉄幹は極度の不振に陥り、晶子の計らいで明治44年(1911)にパリへ行っていた。つまり晶子は鉄幹の後を追っての渡欧であった。晶子は同年10月に単身帰国、鉄幹も翌46年(1913)1月に帰国している。ますます創作活動が盛んになっていく晶子とは対照的に鉄幹の不振は続き、再起を賭けた訳詞集「リラの花」も失敗、第12回衆議院選挙に立候補するも落選している。大正8年(1919)慶應義塾大学文学部教授に就任、昭和7年(1932)まで在任している。大正10年(1921)には建築家・西村伊作、画家・石井柏亭等とともにお茶の水駿河台に文化学院を創設している。日本で初めての男女平等教育を実施し共学を実現した学校でもある。与謝野晶子は大正10年1月の「太陽」で以下のように記している。

私たちの学校の教育目的は、画一的に他から強要されることなしに、個人個人の創造能力を、本人の長所と希望とに従って、個別的に、みずから自由に発揮せしめる所にあります。これまでの教育は功利生活に偏していましたが、私たちは、功利生活以上の標準に由って教育したいと思います。即ち貨幣や職業の奴隷とならずに、自己が自己の主人となり、自己に適した活動に由って、少しでも新しい文化生活を人類の間に創造し寄与することの忍苦と享楽とに生きる人間を作りたいと思います。
言い換れば、完全な個人を作ることが唯一の目的です。「完全な個人」とは平凡に平均した人間という意味でもなければ、万能に秀でたという伝説的な天才の意味でもありません。人間は何事にせよ、自己に適した一能一芸に深く達してさえいれば宜しい。それで十分に意義ある人間の生活を建てることが出来ます。また一能一芸以上に適した素質の人が多方面に創造能力を示すことも勿論結構ですが、両者の間に人格者として優劣の差別があると思うのは俗解であって、各その可能を尽した以上、かれもこれも「完全な個人」として互に自ら安住することが出来るようでなければならないと思います。

「小さくても善いものを」「感性豊かな人間を育てる」などを目標とし、日本を代表する著名人、文化人、芸術家、西洋人たちによって自由教育が行われてきたが、平成30年(2018)に閉校している。
文化学院の教育は、都市部の新中間層が求めた、所謂大正新教育のひとつであった。そして教育者として全くの素人である著名な文学者や芸術家が児童教育に参画するという大規模な社会実験でもあった。久々に録画していた「英雄たちの選択『100年前の教育改革~大正新教育の挑戦と挫折~』」(NHK 2019/08/21)を見直したら、作家の高橋源一郎氏がいくつかヒントとなる発言をしていた。先ずこの実験に参加した人々にとっては、大逆事件以降の新しい形の社会運動であったという側面。つまり参加者の全てが児童教育の改革だけを目指していたかは検証する余地がありそうだ。さらに本来教えることのできない創作課程を学校教育の主体に据えていることの矛盾点について。結局、文化学院は与謝野晶子達を中心とした「サロン」であったのではないかという見方が提示されている。そして新しい教育活動を護るために作ってきた聖域(アジール)が、却って社会との隔絶を生み出したという推測に至った。確かに政府からの弾圧や学歴偏重社会の影響もあったものの、芸術や文化に触れることで児童の個性が確立できるとする教育方針が正しいかったかについては今後も深く考えていく必要はあるだろう。

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鞍馬寺 冬柏亭

「独り居るを慎む」の年譜によれば、鞍馬寺初代管長の信楽香雲が与謝野晶子の門人になったのは、この文化学院を創設する直前だったと考えられる。霊宝殿の近くに設けられた晶子と寛の歌碑の右は晶子の「みだれ髪」所収の歌「何となく君にまたるるここちして いでし花野の夕月夜かな」。そして左は寛の「遮那王が背比べ石を山に見て わがこころなほ明日を待つかな」。
与謝野晶子の書斎・冬柏亭は晶子五十のお祝いに門人から贈られたもので昭和5年(1930)3月に東京都外荻窪村に建てられた。与謝野家は昭和2年(1927)に現在の杉並区荻窪に居を移している。采花荘と名付けられた日本家屋と遥青書屋という大きな洋館があった。冬柏亭はこの2つの建物の間に建設された。鉄幹が昭和10年(1935)にそして晶子が昭和17年(1942)に亡くなっている。冬柏亭は昭和18年(1943)10月に門人の岩野喜久代が大磯の住居へ移している。その後、昭和51年(1976)4月に鞍馬山へと移築されている。ちなみに荻窪の与謝野寛・晶子旧居跡は南荻窪中央公園から与謝野公園に名称変更している。

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鞍馬寺 冬柏亭

「鞍馬寺 その5」 の地図





鞍馬寺 その5 のMarker List

No.名称緯度経度
赤●  鞍馬寺 金堂 35.1181135.7708
01   鞍馬寺 歓喜院・修養道場 35.1139135.7728
02  鞍馬寺 仁王門 35.1143135.7729
03   鞍馬寺 普明殿(ケーブル山門駅) 35.1147135.7726
04  鞍馬寺 多宝塔駅(ケーブル山上駅) 35.1164135.7727
05  鞍馬寺 多宝塔 35.1167135.7728
06  鞍馬寺 寝殿 35.1176135.7708
07  鞍馬寺 金剛床 35.1179135.7709
08  鞍馬寺 閼伽井護法善神社 35.1183135.7711
09  鞍馬寺 光明心殿 35.1181135.7705
10  鞍馬寺 金剛寿命院 35.1179135.7702
11  鞍馬寺 翔雲臺 35.1179135.771
12  鞍馬寺 與謝野晶子・寛歌碑 35.1181135.7696
13  鞍馬寺 冬柏亭 35.118135.7694

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