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市原の町並み



市原の町並み(いちはらのまちなみ) 2010年9月18日訪問

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市原の町並み

また同書の市原野の条には、「幡枝村から市原村中心部に至る鞍馬街道沿いの細長い山間」を市原野と呼ぶと記されている。この地は弘仁4年(813)10月7日に嵯峨天皇が遊猟したことからも分かるように平安時代には遊猟地として知られていた。次いで鞍馬寺への参詣や大原へ行くための街道として利用されてきた。「山槐記」治承3年(1179)5月25日の条には「巳終刻参鞍馬寺云々、於櫟原野河辺避暑」とある。この参拝客を狙った盗賊も出没していたようだ。鎌倉時代の説話集「古今著聞集」には、市原野で源頼光を待ち伏せた鬼童丸が逆に一刀のもとに斬り捨てられたという話がある。酒呑童子の子であり、親の仇である頼光を狙った鬼童丸が返り討ちにあったということだが、この地に名も知れない盗賊等が屯していたことを示す説話と考えてよいだろう。

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市原の町並み

「史料京都の歴史 第8巻 左京区」(平凡社 1985年刊)の「静市野村」に「中世には、市原は主殿寮領・岩倉大雲寺領・上賀茂社領、野中は主殿寮領と種々の領地が混在した。」とある。主殿寮とは律令制において宮内省に属し天皇の乗り物や帷帳に関する事、および清掃・湯浴み・灯火・薪炭などの事を司さどった役所のことである。主殿寮の長官は小槻氏が相続・世襲していったため、室町時代以降の主殿寮領は小槻氏を祖とする壬生家が領有するところになったのであろう。
岩倉の大雲寺については既に岩倉の町並みでも触れたように、天禄2年(971)日野中納言藤原文範が沙門真覚を開山として創建した寺院である。 「小右記目録」によれば天元3年(980)には円融天皇の勅願所となっている。さらに永観3年(985)冷泉天皇の中宮昌子内親王が観音院を建立し金色の6観音を安置している。その後、園城寺長吏、法性寺座主を務めた余慶が住するようになると寺運も興隆し、四十九の堂塔伽藍と千人に及ぶ僧を擁した大寺院となっている。

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市原の町並み 現在の大雲寺
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市原の町並み 大雲寺旧境内の説明板

明治の廃仏毀釈で大雲寺と実相院門跡が分離、その後も金銭トラブルに巻き込まれた上、昭和60年(1985)5月20日の火災で本堂を焼失している。現在の大雲寺はかなり規模を小さくしているものの実在している。公式HPでも、「どっこい!生きてます!! 大雲寺」と記している。

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市原の町並み 上賀茂神社
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市原の町並み 上賀茂神社

また上賀茂社については、貴船神社 本宮 その3を参照していただければ分かるように平安時代に入り、その勢力が拡大しついに賀茂川の上流にある貴布禰社を支配下に治めている。その過程で鞍馬川の流域にあたる市原にも大きな影響を与えていたことは疑いのない事実であろう。
このように市原は3つの所領が入り組み複雑な様相を呈し、早くも応永16年(1409)にはその帰属をめぐり上賀茂社と大雲寺が争論を起こしている。「実相院文書」応永16年6月に下記のような記述が残されている。

大雲寺衆徒等謹みて言上す。寺領峯越山の内堂山の子細の事。右市原野と云う。此の堂山に於ては寺家より終興知行する者なり。其の謂は賀茂人沽却するの状に見る由と云々。(中略)
一原野堂山の在所八谷の内貇尾谷と号すの廟所山なり。此の山を以て賀茂人私領と号し沽却せしむるの間、賀茂領と云々。然らば何ぞ一原野より根本預状寺家に出すべき哉、寺領御息の由請文を蒙り、今に之あり。寺領の条勿論なり。其の上私曲の状を以て寺家に対すべし、公験等の条雲泥の沙汰なり。(中略)
  応永十六年六月 日

大雲寺側は一原野の堂山は証文にも明らかなように大雲寺が取得したものであると訴えている。一方上賀茂社側は、市原野の内とは謂え神事が執り行われる場所は賀茂神領であると主張している。

これ以外にもこの地域では戦国時代に入りいくつかの争論が起きている。上記のように上賀茂社と大雲寺、および当地の百姓との争論は長く続いた。「賀茂別雷神社文書」元亀2年(1571)7月26日には貴船谷山をめぐり市原野と賀茂社との間に争論が起こり、羽柴秀吉の朱印状が下されている。
また市原野には壬生家の管領する主殿寮寮も含まれていたため、算用状・年貢注文などが多く残されているため、当地の状況が比較的詳しく伝わっている。
「壬生家文書」天文14年(1545)8月3日の条には官務家が市原・野原等の私領の一部を黒瀬秀清に売却したこと、同じく永禄4年(1561)4月5日の条には官務家領市原野における公事物の内容を記す文書が残されている。この市原及び野中の主殿寮領については、天文年間(1532~56)頃より黒瀬浄雲との間に売却・所有をめぐる争論が生じ、永禄年間(1558~70)に再び繰り返されている。

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市原の町並み 鎌倉街道沿いの町並み
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市原の町並み 観音道是より三町の道標

叡山電鉄鞍馬線の市原駅から補陀洛寺に向かう途中、鞍馬街道(京都府道40号下鴨静原大原線)沿いの民家の隅に観音道是より三町という道標がある。大正10年(1921)3月に京都仏心会が建立していることが分かる。距離の単位1町は現在の109mとされているので、この道標から300m強離れた場所を指し示しているようだ。鞍馬街道から西に入った先、静市市原町小字堂山に帰源寺という寺院がある。無法山帰源庵とも称し宝永年間(1704~11)徹源性通が幡枝の円通寺の隠居寺として再建した伝えられている。徹源性通は江戸時代中期の僧で性通禅人ともいう。第112代霊元天皇の乳母である文英尼の付託により円通寺創建の相談を受けた。尼没後、円通寺の住持になり潮音堂を建て、三十三所観音像を安置している。円通寺門前の鞍馬街道が拡張された際、「切通碑銘」を撰文している。正徳5年(1715)12月17日に没。生年不詳。
帰源寺の堂内に安置する本尊十一面観音立像(重要文化財)が鞍馬街道の道標の目標となっている。寄木造り、等身大の像で頭部の化仏の多くは失われているが、右手を垂れ左手に宝瓶を持った端正な容姿は藤原時代の趣きを良く表している。堂内には江戸時代前期に明国から渡来した臨済宗黄檗派の僧・独湛性瑩の記した「慈眼堂」の扁額がある。

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市原の町並み 幡枝の円通寺
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市原の町並み 幡枝の円通寺 比叡山の眺め

独湛は承応3年(1654)6月、隠元に従って来日し長崎・興福寺から摂津国・普門寺、山城国・萬福寺と師の隠元に随従した。天和元年(1681)10月には黄檗山の第4代住持となる。 なお本堂傍には徹源性通の墓、笠塔婆・徹源塔が建つ。

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市原の町並み 京都市東北部クリーンセンターという名の清掃工場

「市原の町並み」 の地図





市原の町並み のMarker List

No.名称緯度経度
赤●  市原の町並み 35.0879135.7613
01  観音道是より三町【道標】 35.0872135.7615
02   帰源寺 35.0873135.7553

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