文書と写真・地図による「記憶」の再現

賀茂別雷神社(上賀茂神社)



賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ) その1 2008年05月19日訪問

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賀茂別雷神社 一の鳥居と二の鳥居

 社家町の西村家別邸の公開は9時30分から、まだ1時間近くあるので先に上賀茂神社に向かう。藤木通を西に進むと明神川に橋が架かる。府道に架かるコンクリート橋の北側に、小さな石の反り橋があり、その先は朱塗りの玉垣で神域が区切られている。この小さな石橋が酒殿橋で、この先の流れは楢の小川と呼ばれる。さらに玉垣に沿って西に進むと巨大な上賀茂神社の一の鳥居が現れる。

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賀茂別雷神社 芝生の中に白い参道が二の鳥居へ延びる
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賀茂別雷神社
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賀茂別雷神社

 上賀茂神社の正式な名称は賀茂別雷神社、祭神は賀茂別雷神。延喜式内社で山城国一宮、二十二社註式でも賀茂御祖神社(下鴨神社)とともに賀茂社は上七社に記載されている。近代社格制度の社格では官幣大社、現在は京都に19ある別表神社の一つ。そして平成6年(1994)に「古都京都の文化財」としてユネスコの世界遺産に指定されている。

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賀茂別雷神社 御所舎
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賀茂別雷神社 神馬舎

 創建については諸説あるが、社伝では神代の頃に北北西にある神山に御降臨になったことより始まっている。
賀茂氏の始祖・賀茂建角身命は神武天皇東遷の際、烏に化身し天皇を熊野から大和へ道案内している。大和を平定した後に、神武天皇はその功に対して厚く報償したと考えられ、賀茂建角身命は八咫烏と称するようになった。「山城国風土記」では、大和の葛木山から山代の岡田の賀茂に至り、葛野河と賀茂河が合流する地点に鎮まったと記している。この2つの河は高野川と賀茂川であり、その合流する地は下鴨神社のある場所である。「日本書紀」では、八咫烏の子孫が山城国の葛野に住む賀茂県主であるとしている。
 「山城国風土記」逸文では、玉依日売が加茂川の川上から流れてきた丹塗矢を床に置いたところ懐妊し、それで生まれたのが賀茂別雷命としている。そして玉依日売の兄である玉依日古の子孫が賀茂県主となり、一族が賀茂社を奉斎したと伝えている。丹塗矢は乙訓神社の火雷神とも大山咋神とも言われている。なお賀茂建角身命と兄の玉依日売は下鴨神社に祀られ、玉依日売の子である賀茂別雷命は上賀茂神社に祀られている。
 賀茂社の創建や賀茂氏の始祖・賀茂建角身命については、賀茂御祖神社の項でも触れているのでご参照下さい。

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賀茂別雷神社 細殿と立砂
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賀茂別雷神社 立砂
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賀茂別雷神社 細殿
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賀茂別雷神社 細殿

 天武天皇の御代である天武40年(678)に社殿の基が造営されている。この賀茂社が天平の頃(729~749)あるいは奈良時代後期に、朝廷の後押しにより上賀茂神社と下鴨神社に分置されたと考えられている。長岡遷都に際し従二位を授けられ、延暦13年(794)の桓武天皇による平安遷都以降、皇城鎮護の神、鬼門の守り神、総地主の神として崇められ、広く庶民の信仰を集めてきた。また皇室の御崇敬も歴代に渡り、多くの行幸に留まらず国家の重大時には奉幣、御祈願が行われてきた。「日本後記」には、遷都間もない大同2年(807)賀茂御祖神別雷神並奉授正一位とある。

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賀茂別雷神社 土舎
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賀茂別雷神社 土舎 柱と砂紋
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賀茂別雷神社 土舎

 嵯峨天皇と対立した平城上皇が、平安京から平城京へ都を戻そうとした際、嵯峨天皇は王城鎮守の神・賀茂大神に対し、皇女を阿礼少女として捧げると祈願をかける。そして弘仁元年(810)薬子の変で勝利すると、嵯峨天皇は誓いどおりに有智子内親王を斎王、すなわち巫女として賀茂大神に奉仕させる。これが賀茂斎院の始まりとされている。この制度は建暦2年(1212)後鳥羽天皇皇女・礼子内親王(嘉陽門院)までの約400年間続く。

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賀茂別雷神社 手水

 葵祭と呼ばれる賀茂祭は、この祭儀に関わる全ての人達から社殿の御簾や牛車に至るまで、二葉葵を桂の小枝に挿し飾ることから来ている。その起源は、上賀茂神社の公式HP(http://www.kamigamojinja.jp/matsuri/index.html : リンク先が無くなりました )では、以下のことが祭祀の始めとしている。
     「賀茂別雷神が現社殿北北西にある神山に御降臨された際、御神託により奥山の賢木を取り阿礼に立て、種々の綵色を飾り、走馬を行い、葵楓の蔓を装って祭を行った」

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賀茂別雷神社 橋殿と禰宜橋
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賀茂別雷神社 橋殿 内部

 欽明天皇の御代(539~571年)は、風水害に見舞われ民の生活は困窮を極めた。勅命により卜部伊吉若日子に占わせると、賀茂大神の祟りであることが分かる。天皇は4月の吉日に馬に鈴を懸け、人は猪頭を被る祭りを執り行わせたのが賀茂祭の起こりであると「賀茂縁起」には記されている。

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賀茂別雷神社 祝橋と御手洗川

 和銅4年(711)4月、元明天皇は国司に賀茂祭が無事執り行われているか確認するように指示している。さらに平安京遷都が行われた後の大同2年(807)勅祭として賀茂祭が始められている。弘仁10年(819)には、賀茂祭を践祚大嘗祭などの大祀に次ぐ中祀に準じ斎行するように勅が下されている。伊勢神宮と賀茂社以外に中祀が行われていなかったことからも、賀茂菜は勅祭となってからわずかな時期に、神社の行う祭事としては破格の取り扱いであったことからも、その崇拝の深さが分かる。前述のように弘仁元年(810)嵯峨天皇によって賀茂斎院が始まる。そして貞観年代(859~876)には賀茂祭の儀式次第が定められ、壮麗なる祭儀の完成を向かえる。
 その後の葵祭の変遷は葵祭の項をご参照下さい。

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賀茂別雷神社

「賀茂別雷神社(上賀茂神社)」 の地図


大きな地図



賀茂別雷神社(上賀茂神社) のMarker List

No. 名称 緯度 経度
01  賀茂別雷神社 一の鳥居 35.0581 135.7524
02  賀茂別雷神社 御所舎 35.0591 135.7527
03  賀茂別雷神社 神場舎 35.0594 135.7523
04   賀茂別雷神社 二の鳥居 35.0595 135.7524
05  賀茂別雷神社 細殿 35.0598 135.7526
06  賀茂別雷神社 橋殿 35.0598 135.7527
07  賀茂別雷神社 土舎 35.0597 135.7528
08   賀茂別雷神社 御手洗川 35.06 135.7525
09   賀茂別雷神社 御物忌川 35.0602 135.7531
10  賀茂別雷神社 玉橋 35.06 135.7528
11  賀茂別雷神社 片岡橋 35.0601 135.7529
12  賀茂別雷神社 楼門 35.0601 135.7528
13  賀茂別雷神社 中門 35.0603 135.7527
14   賀茂別雷神社 本殿 35.0605 135.7526
15   賀茂別雷神社 権殿 35.0604 135.7526
16   賀茂別雷神社 夜具橋 35.0591 135.753
17   賀茂別雷神社 奈良橋 35.059 135.7529
18   賀茂別雷神社 酒殿橋 35.058 135.7531

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