妙満寺
妙満寺(みょうまんじ) 2010年9月18日訪問
叡山電鉄鞍馬線の木野駅で下車して妙満寺に向かう。修学院離宮や円通寺を訪問した際にも立ち寄る機会があったものの、なぜか予定には入れてこなかった。今回は鞍馬から岩倉を廻る中でこの寺院の訪問を決めた。もし京の訪問から外したら、別の日にここだけを訪れるような予定を組まなければならなくなると思いがしたためである。
正式には顕本法華宗総本山 妙塔山 妙満寺という名称になる。公式HPの宗名由来を見ると、明治9年(1876)に「日蓮宗妙満寺派」を公称するとあるので、もともとは日蓮宗であったことが分かる。明治31年(1898)には顕本法華宗と改めるが、昭和16年(1941)の宗教団体法により、顕本法華宗と本門宗と日蓮宗が「三派合同」し、日蓮宗と公称することとなる。その際、顕本法華宗からは、妙満寺が大本山に、会津妙法寺、会津妙国寺、品川妙国寺、品川本光寺、飯田本興寺、見付玄妙寺、吉美妙立寺、京都寂光寺が本山に列せられている。戦後となった昭和22年(1947)再び妙満寺は日蓮宗から離脱し単立となり、昭和25年(1950)に日什門流の約380ヶ寺のうち、妙満寺をはじめとする約200ヶ寺が顕本法華宗と公称することとなった。
顕本法華宗は日蓮を宗祖とし、日什を開祖としている。日什とは南北朝時代の法華宗の僧、陸奥国の出身で号は玄妙阿闍梨、幼名は玉千代丸、後に権太夫国重と名乗る。正和3年(1314)陸奥国会津黒川で、鎌倉出身の石堂覚知と蘆名盛宗の娘との間に武士の子として誕生する。日什が15歳の時に両親が相次いで亡くなり、正慶2年(1333)の19歳で比叡山に登り天台宗の慈遍を師として出家、名を玄妙とする。慈遍とは卜部兼顕の子で「徒然草」の著者吉田兼好の兄とされている。文和元年(1352)には延暦寺3000人の学僧の学頭となり玄妙能化と称されるようになる。会津領主の蘆名直盛の招きにより応安5年(1372)羽黒山湯上神社の別当寺・羽黒山東光寺の住職となる。66際になった康暦2年(1380)日蓮聖人の「開目抄」「如説修行鈔」などに触れ、日蓮聖人を師と仰ぎ日蓮宗への改宗を思い立ってる。羽黒山を下り下総真間の弘法寺を訪ねて改宗の旨を告げている。
永徳元年(1381)日什は公家への奏聞を積極的に行い、関白・二条良基と対面を果たしている。日什は関白に対して諌暁、つまり相手の誤りを指摘して諭し日蓮宗への改宗を求めた。日什の願いは叶わなかったものの、関白の計らいにより洛中弘法の綸旨を賜り二位僧都に任じられている。その後も関東管領・足利氏満などの権力者に対しても諌暁を繰す一方で、各地に諸寺を建立し多くの子弟を教化育成を行ってきた。そして宗旨と修行の方軌を示す「諷誦章」を認め、と日什門流の独立を宣言している。
康応元年(1389)天王寺屋通妙の外護により室町六条坊門(現在の烏丸五条)の草庵を妙塔山妙満寺として根本道場としている。これが現在の妙満寺の始まりとされている。公式HPでも「康応元年(1389)六条坊門室町(現在の烏丸五条あたり)に妙塔山妙満寺を建立しました。」と記している。明徳2年(1391)には足利義満へ諌暁、翌3年(1392)入滅。
康応元年(1389)六条坊門室町に成立した妙満寺は、すぐ後の応永2年(1395)には焼失し綾小路東洞院北東に、さらに応仁・文明の乱(1467~77)でも焼亡し四条綾小路に移転している。四条綾小路は現在の四条堀川の南西角にあたりで、現在も下京区妙満寺町が地名として残っている。妙満寺は天文元年(1532)第105代後奈良天皇の勅願所になる。そしてこの時期、すなわち天文元年から同5年(1537)にかけて法華一揆が発生する。法華一揆とは京の町衆を中心とする日蓮宗徒が、他宗徒との抗争を繰り返した一揆を説明する言葉である。これを法華宗側から謂わせると天文法難の始まりということになる。既に妙顯寺や本阿弥光悦京屋敷跡 その2で説明しているように、延暦寺の衆徒により、天文5 年(1536)7月に京の法華宗徒は洛外へ追放されている。応仁の乱で衰退した京の都を復興させたのは町衆たちであり、それによって経済的に台頭してきた。自らが住む町は自らの手で守り治めるという意識が急激に高まって行った。町衆といっても商人、手工業者、農民などであったが、既に応仁の乱で武家に被官した者もあり、また乱後の土一揆の略奪から町を守るために武器をとった町衆も酒屋や土倉に多かった。また半済と呼ばれる地子銭や年貢の減免あるいは免除を支配者や領主に求めることが発生してきている。例えば永正元年(1503)下京衆は細川政元の軍勢と共に淀に出陣しているが、この時の動員の条件として地子銭半済を申し出ている。このように既に自衛自治の準備は14世紀の初め頃には出来上がっていたと考えられる。
町衆の自衛自治に対する意識の高まりとともに、彼等の大部分が帰依していた法華宗が影響力を持つようになってくる。応仁の乱以降洛中において法華信徒が溢れ、洛内には二十一ヵ本山(本満寺、妙顕寺、頂妙寺、妙傳寺、立本寺、本圀寺、本法寺、妙覚寺、妙蓮寺、本隆寺、本禅寺、住本寺、上行院、妙満寺、本能寺、寂光寺、学養寺、大妙寺、弘経寺、宝国寺、本覚寺)が形成されるに至った。「京都の歴史 第3巻」(京都市編さん所 1968年刊)第5章 乱後の復興と町衆には法華宗二十一ヵ本山の位置を示した地図(図162 天文初年の法華宗二十一ヵ本山)が掲載されている。まだ秀吉による御土居の建設前であるため、洛中洛外の区別は明確でないものの北の相国寺、東の建仁寺そして南の東寺を除くと京の中心部(=洛中)には大規模な寺院がなかったことがよく分かる。応仁の乱によって焼き払われた空白地帯を埋めるように法華宗寺院が短期間に建設されたということが分かる。これらの寺院の周囲には、防御のために堀が巡らされ土塀が建てられていたと考えられている。発掘調査報告書「妙覚寺城跡 一 平安京左京三条三坊七町・鳥丸御池遺跡―」(古代文化調査会 2013年刊)によれば、周囲に巡らされた堀は幅2~3m深さ1m程度のものだったようだ。山下正男は「京都市内およびその近辺の中世城郭」(京都大学人文科学研究所 1986年刊)で「一般民衆のつくった構なるものは、群盗ぐらいに対しては防衛できたであろうが、プロの軍団に対しては全くお手あげである。こうした構え、例えば松ヶ崎の構え、上賀茂の構え、吉田の構え等はどうみても本格的な戦闘設備とはいえない。(中略)京の町衆の自衛能力を高く評価しすぎることには賛成できない。」と記している。妙満寺も四条烏丸の南西角に妙満寺構を拵えた。そして西側から本隆寺構、立本寺構、妙蓮寺構、妙満寺構、本禅寺構の6つの本山が四条通に面して築かれた。これらは京都府・市町村共同統合型地理情報システム(GIS)の遺跡マップでも確認することができる。これらの法華宗本山は妙満寺にとっての天王寺屋通妙のように、一部の洛内の富商や堺町衆の外護によって成長していったのは確かである。しかしそれ以外にも中小の商工人や一紙半銭という零細な供養しか捧げざるをえないような人々を巻き込み巨大な門徒団が形成されていった。これが天文法華の乱の戦闘力となった。
争乱の始まりは天文5年(1536)2月の法華衆から比叡山延暦寺に対して行われた宗教問答の呼びかけであった。同年3月3日、上総茂原妙光寺の信徒が延暦寺西塔の僧侶を論破するという松本問答が起きる。面目を失った延暦寺側は、日蓮宗が「法華宗」を名乗るのを止めるよう、室町幕府に裁定を求めた。しかし建武元年(1334)に下された後醍醐天皇の勅許を証拠に幕府は差し止めに応じなかった。これにより延暦寺は京都法華衆の撃滅を決議、法華宗二十一本山が上納金の支払いを拒絶したことを口実に、朝廷や幕府に対しては法華衆討伐の許可、朝倉孝景や六角定頼などの大名を始め敵対関係にあった他宗派の本願寺・興福寺・園城寺・東寺などには協力を求めた。
このような入念な下準備に次いで、同年7月22日早朝の松ヶ崎城攻略から始まった。松ヶ崎集落が全焼した後、現在の田中神社の地にあった田中構も陥落し、主戦場は三条口と四条口に移った。法華宗が優勢に展開しているようにも見えたが、27日近江六角衆が四条口の攻撃に加わったことで形勢が一変する。四条口に次いで三条口も破られ、延暦寺・六角勢は洛中に乱入、略奪と放火が町々を包んだ。本圀寺を除く二十の本山はこの日に陥落炎上している。このことは上記の山下の構えに対する説明が正しかったことを現わしている。もともと宗派間の争議に、プロの戦闘集団を持ち込んできた延暦寺が圧勝することはある意味明らかであった。妙覚寺住持日兆は乱戦の中で切腹して果て、僧侶にも多くの戦死者が出た。残った本圀寺も翌28日に陥落し、開戦から1週間満たずに洛内諸本山は本尊と聖教をもって都落ちしている。多くは堺に落ちたとしているが上記のように法華宗にとっての外護者であり、洛内諸山の末寺も多く、さらに瀬戸内、西国への布教の拠点でもあったからと考えられる。これ以後6年間、京都においては法華宗は禁教となった。
天文11年(1542)に六角定頼の斡旋で朝廷から京都帰還を許す勅許が再び下り、天文16年(1547)定頼の仲介で延暦寺と日蓮宗との間に和議が成立している。二十一本山のうちの15ヶ寺が再建された。妙満寺も天文11年(1542)には旧地に再建したと考えられている。その後、天正11年(1583)には豊臣秀吉の命により寺町二条下ルに移転している。江戸時代に入っても隆盛を極めたが、宝永5年(1708)宝永の大火と天明8年(1788)の天明の大火(団栗焼け)の類焼を受け都度再建してきた。安永9年(1780)秋里籬島が著した「都名所図会」には妙満寺の図会が残されている。恐らく宝永の大火後の姿だと思われる。図絵の南側に描かれてるのが寺町通なので境内を西から眺めた絵になっている。寺町通に面して橋が架けられその先に門が配されていることが分かる。寺町通の東側の小川は中川であろう。かつての京極川は一条大路から九条大路まで南流し、二条大路以北を中川と称したとされている。この川については京都御苑 出水の小川 その2でも少し触れているので興味のある方はご参照ください。さてかつての妙満寺の寺域はどの範囲であったのだろうか?今の河原町通の西側に御土居が南北に築かれていた。妙満寺が寺町に引っ越してきたのは御土居が完成してからなので蘆山寺史跡・御土居と同じく、西限は御土居で東限も寺町通であった。その後御土居が壊され河原町通が開通すると蘆山寺と同じく東側は民家に変わっていった。妙満寺の北限は二条通で南は押小路通を挟んで本能寺に隣接していた。境内は北に本堂、南に祖師堂が並び2つの堂舎は渡り廊下で繋がれていた。境内西北には番神社、本堂の南には中川井と鐘楼が描かれている。塔頭は境内の北(二条通)、東(御土居)、南(押小路通)に配されていたようだ。元治元年(1864)の甲子戦争(禁門の変)で諸堂を焼亡している。その後明治14年(1881)に再建したものの、「京都坊目誌」(新修 京都叢書 第十五巻「京都坊目誌 上京 坤」(光彩社 1968年刊))によれば明治維新の上知令で境内4099坪3合8勺が1830坪5合に減じられ、本覚院、延壽院、大乗院、中正院、法性院、覚恩院、遠妙院、量長院、常性院などの塔頭が廃されている。残ったのは本堂北側の正行院と祖師堂南側の大慈院、法光院、成就院の4塔頭であった。
s_minagaさんの「日蓮上人の正系」の什門流総本山妙満寺には妙満寺境内外区別取調1と妙満寺境内外区別取調2が掲載されている。これを見ると明治の上知令後の姿が想像できる。また京都市明細図に加筆した寺町二条妙満寺からは、明治初年に本堂北にあった正行寺が、昭和初年には祖師堂南側の大慈院の西側に移動していたことが分かる。そしてこれら4つの塔頭に×印が書かれているのは建物疎開という名目で取り壊されたことを示している。s_minagaさんは「御池通りからは少し離れているも、市役所裏手に当るため、強制疎開となったのであろうか。」と推測しているが恐らくそのような理由によったものと思われる。
そして昭和43年(1968)の「昭和の大遷堂」で400年間続いた「寺町二条の妙満寺」は岩倉幡枝の地に移動した。跡地は長く市役所駐車場として使われてきたが、2019年に京都市役所分庁舎が竣工している。Google Mapのストリートビューで確認したところ、今まで柵越しに見てきた間部詮勝寓居跡の石碑が寺町通に面するようになっていた。
「妙満寺」 の地図
妙満寺 のMarker List
No. | 名称 | 緯度 | 経度 |
---|---|---|---|
赤●01 | 妙満寺 1 六条坊門室町 | 34.9962 | 135.7597 |
02 | 妙満寺 2 綾小路東洞院 | 35.0025 | 135.7612 |
03 | 妙満寺 3 四条綾小路 妙満寺構え | 35.0033 | 135.7515 |
04 | 妙満寺 4 寺町二条 | 35.0127 | 135.7676 |
05 | 妙満寺 5 岩倉幡枝 | 35.0674 | 135.7742 |
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