塔の島と橘島
塔の島と橘島(とうのしま と たちばなじま) 2008/05/11訪問
縣神社を出て、あがた通を大津方面に左折し道なりに進む。平等院の裏側を過ぎると宇治川と2つの島が現れる。下流側の大きな島は橘島、上流側の小さな島は塔の島あるいは浮島と呼ばれている。この2つの島を含めた中洲地域を塔の島地区あるいは中の島と表わすこともあるからややこしい。この2つの島と岸を結ぶため、4つの橋、喜撰橋・中の橋・朝霧橋・橘橋が架けられている。
まず朱の高欄に擬宝殊のある喜撰橋を渡り塔の島に入る。平等院側の岸には鵜飼舟の船着場があり、川には船が浮かべられている。塔の島には十三重の塔がある。高さ15.2mで国内最大の古石塔である。既に放生院で説明したように弘安9年(1286)に大和西大寺の叡尊が宇治橋の架け替えを行い、工事の犠牲者を供養することと宇治川の殺生禁断のために十三重の塔を建立した。魚霊を供養し水流の安泰を仏に祈願するため、塔の下には漁具や漁舟などを埋めて法要を営んだという。
以後、洪水や地震で倒壊を繰り返す度に再建されてきたが、ついに宝暦6年(1756)の洪水による破損は復旧困難と判断され、それ以降約150年もの間、川中に埋没していた。その後、明治41年(1908)に九重目の笠石と相輪を補い再興され、昭和28年(1953)には国の重要文化財に指定された。
ちなみに宝暦6年は、平田靱負が指揮した木曽三川の分流工事いわゆる宝暦治水事件の翌年にあたる。江戸時代に入ると大規模な治水工事が各地で行われるようになった。これらの治水事業は、洪水が多発する河川の流路を安定化し、水害の危険を軽減するとともに、流域における耕地開発を促進することが目的であった。世の中が安定し治水工事に従事できるようになったし、食糧生産も増加しなければならない事情もあったが、現在から想像することができないほど洪水による被害が大きかったということは事実であろう。
塔の島の約3キロメートル先には淀川本流唯一のダム、天ヶ瀬ダムが昭和39年(1964)に竣工している。昭和28年(1953)の台風13号で、宇治川の堤防が決壊し宇治市等流域市町村に多大な損害を与えたことが建設の契機となっている。わずか50年くらい昔のことである。
塔の島から中の橋を渡り橘島に入る。喜撰橋と同様に朱の高欄に擬宝殊のある橋であり、4つの橋の中で一番短い。
橘島には宇治川先陣の碑がある。源義仲討伐のため源義経配下の佐々木四郎高綱と梶原源太景季が源義仲討伐の先陣を争った故事にちなんで昭和6年(1931)に建てられたものである。
寿永2年(1183)10月に朝廷から源頼朝に下された寿永二年十月宣旨により、源頼朝は宣旨施行のためと称し、源義経・源範頼ら率いる軍を京方面へ派遣した。軍は11月中旬までに伊勢へ到達した。翌3年1月に頼朝は、すでに近江にまで進出していた範頼、義経に源義仲追討を命じた。一方義仲は水島の戦いで平家に敗れ、軍勢も1千騎まで激減していた。その中で瀬田と宇治と後白河法皇院御所の三箇所に軍を展開し頼朝軍の来襲に備えた。これに対して瀬田には範頼軍の3万騎、宇治には義経軍の2万5千騎で攻撃をかけた。
宇治橋は義仲軍によって既に焼き落されたため、義経軍は騎馬で宇治川を渡ることとなる。梶原景季は摺墨(するすみ)に、佐々木高綱は生妾(いけづき)に騎乗し先陣の栄誉を得ようと競い合った。先行する梶原に、佐々木は「馬の腹帯が緩んでいる」と声をかけ、梶原が腹帯を引締めている間に高綱は対岸に駆け上がり名乗りを挙げてしまった。
この舞台となった「橘の小島」は現在の「橘島」ではなく、宇治橋のさらに下流にあった中洲の一つで今は存在していないらしい。
興聖寺に向うため、橘島から朝霧橋で東岸に渡る。橋の東詰には宇治十帖モニュメントが建っている。
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