佳水園 その2
ウェスティン都ホテル京都 佳水園(かすいえん) 2008/05/12訪問
佳水園 その1で触れたように、佳水園には2つの庭がある。ひとつは小川白楊が作庭した岩肌を利用した庭。そしてもう一つは村野藤吾が佳水園を設計した際に作庭した白砂の庭。この2つの庭がどのようにして作られたかについては、ウェスティン都ホテル京都の公式HPより、京都市都市緑化協会のまとめた 京の庭 庭園紹介の方が詳しい。
小川保太郎 白楊は7代目の小川治兵衛の長男である。父である7代目小川治兵衛が73歳と比較的長寿だったのに対して、石造品や石の扱いについては父を凌ぐほどの技量をもっていたと言われた白楊は44歳でこの佳水園の庭を遺作として亡くなっている。 大正15年(1926)に清浦奎吾の京都での別荘として作られた喜寿庵の庭として造られている。清浦奎吾は嘉永3年(1850)肥後に生まれる。司法官僚を経験後、貴族院議員となり司法大臣、農商務大臣、枢密院議長などを歴任。大正13年(1924)に内閣総理大臣となるも、5ヶ月後に総辞職に追い込まれる。その後も重臣として政治活動を続け、昭和16年(1941)の重臣会議まで出席している。この地に別荘を勧めたのは逓信大臣を務め、後に都ホテルの社長に就任した藤村義朗であったとされる。
急な斜面はただの一枚の岩肌に思えたが、よく見ると人の手によって再現されたものであることが分かる。清浦の大掛かりな工事にしないで欲しいという意向を受けて、白楊はこの岩山の凸凹を利用して新たに2筋の水を流し、岩盤に生えていたマツなどもあえてそのままにして、山中の急峻な滝流れを表現している。わずかな人の手を入れることによって自然が自然らしく見えるようになっている。その加減の難しさがこの庭にはあるように思える。
庭はこの後、現在佳水園が建つ場所まで続いていたように思われる。しかし清浦奎吾の没後都ホテルに寄贈されたため、佳水園の建設時に改修されている。この時に斜面の終わりに一筋の流れを設けることで白楊の庭を完了させ、新たに平坦部に白砂の苔による瓢箪の庭を造っている。村野藤吾は、白楊の作り上げた庭を絵のように切り取り、自らの作り上げた床(庭)の先の壁に飾ったようにも見える。(若干の嫌味も含めて)実に見事な解決方法であると思う。
さて村野の新たに造った庭には瓢箪と円が描かれている。明らかに醍醐寺三宝院の庭園を模したことが分かる。クライアントからの要望か、設計者の提案かはよく分からないが、設計者としてこの部分にあまりにも有名なデザインを入れることに戸惑いが有ったのではないだろうか?
白砂は建物内部の床とほぼ同じ高さに築かれている。そのため瓢箪は歩く面に描かれている。三宝院の瓢箪はかなり高い位置から見下すため、形状もはっきりしたサインのように見え、モダンなイメージが鑑賞者に残る。こちらの瓢箪は歩く位置でかなり形が変化する面白さがある。
今回は見逃してしまったが、都ホテルにはもうひとつ葵殿庭園がある。こちらは7代目小川治兵衛の手による。そもそも小川治兵衛と都ホテルとの関係は、開業(明治33年(1900))まもない明治37年(1904)頃から始まっている。最初は華頂山の斜面を植栽し、建物からの眺めを整える程度のものだったと言われている。その後、葵殿が建てられた大正4年(1915)にも造作が行われたが、現在の形になったのは昭和8年(1933)に茶室の可楽庵が造営された時である。翌9年にかけて工事が行われ完成するが、治兵衛は昭和8年の末に亡くなっているので、完成を見ることはなかった。白楊にとって清浦奎吾の喜寿庵の庭が遺作となったように、治兵衛も葵殿庭園が遺作となった。
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