耳塚
耳塚(みみづか) 2008年05月16日訪問
豊国神社の鳥居を潜り石段を下ると、目の前に正面通と呼ばれる広い道が現れる。この大和大路通から本町通の間は中央分離帯もあり、立派な通りとなっている。しかし道幅のある部分はあまりにも短いため、豊国神社前の広場という風情である。ちなみに本町通は五条通から始まり伏見区内で直違橋通となり、国道24号につながる、かつての伏見街道でもある。
豊国神社から左手角、すなわち正面通の南に耳塚公園が見える。この公園の西側に耳塚がある。寄進者と思われる名前の入った石柵で囲まれたおよそ25メートル四方の敷地には、円墳のように盛土がなされ、その頂部には五輪塔が建てられている。ここは豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、討ち取った朝鮮及び明国兵の耳や鼻を削いで持ち帰ったものを葬った塚と言われている。
1590年代までに日本統一果たした豊臣秀吉も、応仁の乱以降、長く続いた戦乱の時代に武士や足軽の人数が過剰となり、内乱や反乱を誘発する可能性を憂慮していたと思われる。また急成長を遂げた豊臣家自体も、家臣の家禄を増やし忠誠心を維持する必要が生じている。そのため新たな戦場を日本国外に求めなければならなくなった。
秀吉は文禄元年(1592)征明嚮導の意思のない李氏朝鮮の制圧を決め、16万人の大軍を朝鮮半島に送る。4月12日釜山に上陸した日本軍は翌13日より攻撃を開始した。一番隊・小西行長、二番隊・加藤清正、三番隊・黒田長政を先鋒に三路に分かれて急進した。すでに5月1日一番隊は、宣祖王が平壌へ逃れた後の漢城に到着している。その後も日本軍は北進を続け、7月24日に放棄されていた平壌に入城している。その後、明軍の本格的な参戦により、日本軍は進撃を平壌までで停止し、漢城の防備を固めることとした。しかし翌文禄2年(1593)1月明軍に平壌を奪還され、日本軍は漢城を固める一方、和平交渉が始められた。
和平交渉は日本・明双方の講和担当者が、穏便に講和を纏めるためにそれぞれの国に偽りの報告を行っていたと考えられている。文禄5年(1596)9月秀吉は来朝した明使節を追い返し朝鮮への再度の出兵、すなわち慶長の役が決定することとなった。
慶長2年(1597)2月22日動員計画が発表され、進攻作戦が開始する。日本軍は全羅道・忠清道の占領を達成し、京畿道まで進出後は進撃を停止し、慶尚道から全羅道の沿岸部へ撤収、文禄の役の際に築いた城郭群域の外縁部に新たな城郭群を築いて恒久陣地化を目指した。そして城郭群の完成後は、翌慶長3年(1598)は攻勢を行わず、在番軍以外は帰国する方針を立てていた。
慶長3年(1598)1月の蔚山城の戦いを経て、喜多秀家などから蔚山・順天・梁山の三城を放棄する案が秀吉に上申される。秀吉はこの案を却下、上申者を叱責した上で、慶長4年(1599)に大軍を再派遣して攻勢を行う計画を発表する。しかし慶長4年(1599)8月18日秀吉が死去すると戦役を続ける意義は失われ、五大老や五奉行を中心に密かに朝鮮からの撤収準備が開始される。そして10月15日秀吉の死は秘匿されたまま五大老による帰国命令が発令される。
耳塚は慶長2年(1597)に築造され、同年9月28日に施餓鬼供養が行われている。この施餓鬼供養は秀吉の意向に沿ったもので、京都五山の僧を集め相国寺住持西笑承兌によって盛大に行われたと伝わる。
都名所図会では、以下のようにある。
耳塚は二王門の前にあり、文禄元年朝鮮征伐の時、小西摂津守 加藤肥後守を大将として数万の軍兵を討取、首を日本へわたさん事益なければみゝきりはなきりして送り、此所に埋、耳塚といふ。
ここでは文禄の役で持ち帰った耳を供養したように表現されている。これ以外の都林泉名勝図会や花洛名勝図会では、文禄と慶長の区別が為されていない。慶長の役が始まって半年ほど経った時期に供養が行われているので、どちらの役のものとは特定できないのであろう。
古来日本では戦功の証として、敵の将校の首をとって検分してきた。だから首を取る事は、兵が生活を行う上で重要な課題であった。しかし首は全てに等しく価値が在るわけではない。兜を被っている首、すなわち兜首は身分の高い者の標識であり、兜を着けた状態で持ち帰らねば評価が下がる。一方、雑兵の首などは平首・数首と呼ばれ価値はない。価値のない首は重たくかさばるため捨てなければ、自分の身も危険になる。それは敵方からだけでなく、兜首を狙う見方にも注意しなければならないためである。このような破棄された哀れな首を捨首と呼ばれた。
また夜襲や撤退戦など特殊な状況下の戦いでは、首を打ち捨てていく命令も出ていたようだ。指揮官にとって戦の目的は首取りではないためである。
上記のような理由より、一揆や足軽など身分の低いものは鼻や耳でその数を証した。腐敗するのを防ぐため、塩漬、酒漬にして持ち帰ったとされる。そして検分が終われれば、その霊の災禍を防ぐ目的で、供養を行うのが古来よりの日本の慣習であったといわれている。ある意味では首級を上げることが戦いの目的でなくなった戊辰戦争の方が、死者に対する敬意が薄くなったようにも思える。
この塚は始め鼻塚と呼ばれていたが、林羅山が「豊臣秀吉譜」の中で鼻そぎでは野蛮だというので耳塚と書いて以降、耳塚という呼称が広まったようである。鼻が野蛮で耳ならばは良いのかとも思うが、羅山の感覚は確かに伝わる。塚の上に巨大な五輪塔が立てられたのは、江戸時代初めのことであった。
明治31年(1898)は豊臣秀吉の三百年忌にあたり、豊公三百年祭が行われた。耳塚とその周囲もこの時期に整備され、耳塚修営供養碑が建てられ、秀吉の顕彰とともに改修事業の経緯が記された。この碑文の大意を読むと、耳塚の地は妙法院に属していたので同寺が法事を執行していたこと、方広寺大仏殿と耳塚は同じ豊公の縁で結ばれていることから、方広寺の泰良権大僧正が豊公三百年祭の事業として塚の修理と法事を望んでいだことが分る。
さらにこの碑には、敵の兵士が国のために戦死したことを憐れみ,京都大仏の前に塚を築き大供養を行った太閤の行為は、敵味方を差別しない慈悲の心から生じていると賞賛している。そして赤十字社の精神を300年前に発現したと記している。その上で以下の文言で締めくくっている。
「この塚はわが国の勢力拡張の象徴であり,豊公の徳の遺物である。朝鮮とわが国とは相助けて発展していくべき立場にあり,他の国に先がけてその独立を助け,日清戦争を戦い,友誼をまっとうした経過がある。昔は豊公がすでに交戦の時でありながら実行していたのである。ここに塚を補修し碑を建てることで,両国の友好と豊公の偉業を記念するものである。」
明治28年(1895)下関で日清講和条約が締結、同じ年に閔妃が武装組織によって景福宮にて暗殺される乙未事変が起きている。この碑は、明治42年(1909)伊藤博文暗殺、翌43年(1910)韓国併合と連なっていく途上に建てられたものであり、豊公三百年祭を祝うものであることを忘れてはいけない。それでも日本赤十字社の総裁を務め、陸軍大将大勲位功二級の小松宮彰仁親王の碑文は、現在の私達の大多数の歴史観から、かなりかけ離れたものであることは確かである。
この平和な時代に、敵兵の耳をそぐという行為に戦慄を覚えない者はいないだろう。しかし、この碑文を受け入れてしまう人は存在するのではないかと思う。そのような人々には、どうしてこの無益な戦いが起きたのかを改めて考え直して欲しい。
耳塚は昭和44年(1969)に「方広寺石塁および石塔」として国指定史跡となっている。
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