豊国神社
豊国神社(とよくにじんじゃ) 2008年05月16日訪問
蓮華王院の境内を出て、京都国立博物館の前を通りながら大和大路通を北へ進む。博物館の北側には、石段の上に豊国神社の大きな石の鳥居が建ち、その正面の道路は広場のように開けている。
慶長4年(1599)豊臣秀吉の死去に伴い、阿弥陀ヶ峰に埋葬される。その麓に方広寺の鎮守社として豊国社と豊国廟が建立され、後陽成天皇から正一位の神階と豊国大明神の神号が贈られ鎮座祭が盛大に行われる。現在の豊国廟の石段の始まる場所に約30万坪の広さの太閤坦を造成し、豊国廟と豊国社が造営された。しかし慶長20年(1615)大阪夏の陣の終結と共に豊臣宗家が滅亡する。徳川幕府により神号が廃され、社領は没収、社殿は釘付けのまま放置され、朽ちるままにされた。そのため神体は新日吉神社にひそかに移され祀られてきた。
このあたりの経緯は、神道家・神龍院梵舜を中心に説明するほうが分かりやすいかもしれない。
梵舜日記の著者として有名な梵舜は天文22年(1553)に吉田兼右の次男として産まれ、吉田家の次男の氏寺である神龍院に入る。
慶長3年(1598)秀吉が逝去すると、梵舜は兄である吉田兼見と共に豊国廟の創立に尽力し、廟の社僧となる。梵舜は豊国神社の別当として、慶長9年(1604)秀吉の七回忌にあたる臨時祭の開催している。また慶長15年(1610)には徳川家康に謁見し、豊国神社の社領安堵を受けている。また慶長18年(1613)には大坂城鎮守豊国社の創建遷宮を行っている。
上記のように慶長20年(1615)豊臣家が滅びると、家康により豊国大明神の神号の停止、豊国神社の破却が決定する。梵舜は豊国神社維持の為に、崇伝や板倉勝重ら幕閣に掛け合うが、梵舜の役宅である神宮寺の寺領は安堵されたものの、豊国神社破却の決定は覆らなかった。社殿は崩れるにままとされながらも、梵舜は秀吉を弔うための祭祀を神宮寺で継続したと考えられている。
梵舜の寺領が安堵されたのは、権力者に信任され、後水尾天皇や公卿たちにも神道を進講していたためである。慶長19年(1614)後陽成上皇に章節を付けた中臣祓詞を献上し、慶長10年(1605)家康の命により徳川氏を新田源氏に繋げる系図捏造にも携わったとも言われている。そして元和2年(1616)徳川家康が逝去すると、その葬儀を任され家康を久能山に埋葬したのは梵舜である。この時期までは、神道家としての権威は梵舜の依然として保たれていた。
家康の一周忌において、家康の遺体を久能山から日光山に改葬する際、当初梵舜は金地院崇伝や本多正純たちと共に吉田神道の形式に則り、秀吉の時と同様に家康を大明神として祀ろうとする。南光坊天海は山王一実神道形式で、家康は東照大権現として祀ることを主張する。最終的に天海に論争で敗れることとなり、吉田神道自体の影響力も後退することとなる。
そして神宮寺を妙法院に引き渡すよう勧告を受け、元和5年(1619)神宮寺を妙法院に引渡し、梵舜は住職を務める神龍院へと退去する。神龍院でも梵舜は密かに秀吉を鎮守大明神として祀り、豊国神社再興を祈願し続けたと言われている。
明治元年(1868)3月14日に「五箇条御誓文」を発した明治天皇は、同月23日より44日間の大阪行幸を行う。鳥羽伏見の戦いで勝利し西国の安定化が進むものの、江戸開城が3月14日に決まるなど、まだ関東での戦いの行方はまだ決していない時期であった。明治天皇は大阪湾で各藩の軍艦を視察する初の観艦式にも臨んでいる。そしてこの大阪の地で天下を統一しながら幕府は作らなかった豊臣秀吉を尊皇の功臣であるとして豊国神社の再興を布告している。当時の社会情勢を考えれば、徳川幕府に対する政治的な発言であることは明らかである。明治6年(1873)別格官幣社に列格し、明治13年(1880)方広寺大仏殿跡地の現在地に社殿が完成し、遷座が行われた。
石段を上り、大きな石の鳥居を潜ると本殿へとつながる参道が始まる。この先に国宝に指定されている唐門が建つ。二条城、西本願寺の唐門と並び、桃山時代の特徴を良く表わす華やかな門である。南禅寺金地院の項で触れたように、寛永4年(1627)から同7年(1630)にかけて崇伝は寺領の寄進を受け、金地院の改築、増築を行っている。この経緯は崇伝の日記・本光国師日記より分かる。崇殿は方丈の改築工事に先ず着手し、狩野探幽に方丈障壁画の発注、茶室や東照宮の普請を小堀遠州に依頼している。そして二条城の唐門を拝領し、金地院への移築も行っている。この唐門は明治13年(1880)に豊国神社へと移されている。門の傍らには千成瓢箪の馬印と五七の桐紋の入った燈篭が掛けられている。
豊国神社本殿南側に、内助の功で支えてきた北政所を祀る摂社・貞照神社が大正14年(1925)に創建されている。また宝物殿の東側には、阿弥陀ヶ峰の豊国廟にあったと言い伝えのある大きな五輪塔が建っている。今回確認することができなかったが、この五輪塔には秀吉の命日と梵字が刻まれているらしい。豊臣宗家滅亡後、幕府により豊国廟は取り壊されたが、太閤の遺功を慕う人々によってこの地に移され、近隣の地名である馬町に因み馬塚と称して祀ったとされている。もちろん幕府に破却されるのを恐れてのことである。
拝観した時は、既に唐門は閉門されており、その奥にある拝殿と本殿の姿を見ることができなかった。
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