渉成園
渉成園(しょうせいえん)その1 2008年05月18日訪問
文子天満宮を拝観しているうちに、渉成園の開園時間となる。この庭園は2回目となる。前回2005年の夏は午後の時間帯の訪問だったが、今度は朝方となるため、多分光の方向が異なるのだろう。冠木門を潜り受付で参観者協力寄付金として500円を払うとパンフレットを頂けた。数種類の中から「名勝 渉成園-枳殻邸-」を選ぶ。前回の訪問の時は自由な志納ということで、このようなしっかりしたパンフレットは用意されていなかったように思う。たとえ東本願寺の所有といえども、この見事な庭園を維持し長く公開していく上では参観者協力寄付金は必要な処置であると思う。受付を済ませ正面の石垣を順路に従い左手に廻る。ここも前回と異なった部分である。
渉成園は東本願寺の飛地別邸である。関ヶ原の戦いの後の慶長7年(1602)後陽成天皇の勅許を背景に、教如は烏丸六条の四町四方の寺領が家康より寄進され、七条堀川の本願寺の一角にある堂舎を移すともに、第12世法主として本願寺を分立している。寛永18年(1641)3代将軍家光より、渉成園の地の寄進を受け、承応2年(1653)第13世法主宣如は、この地に隠居所を造営し周囲を枳殻の生垣で囲んだ。このことから枳殻邸とも称されている。庭園は池泉回遊式ではあるものの東山を借景として西から東側を眺めるように造られている。すなわち東側に全敷地の6分の1を占める広大な印月池、西側に書院造りの建物を配した構成となっている。作庭は洛北・修学院の地に詩仙堂を建立した石川丈山が作庭したと伝えられている。
石川丈山は三河国泉郷(現在の愛知県安城市和泉町)の代々松平家に仕える譜代武士の家に生まれている。慶長3年(1598)徳川家康の近侍となり、大坂夏の陣に参加した際は一番乗りで敵将を討ち取って功をあげる。先陣争いを禁止した軍律違反を問われ、蟄居の身となる。そして武士を止め、妙心寺に入る。
元和3年(1617)の頃、知人である林羅山の勧めに従い藤原惺窩に師事し儒学を学ぶ。各所から仕官の誘いが多く、紀州和歌山の浅野家に数ヶ月、安芸広島藩の浅野家に13年ほど仕えた後、再び京に戻り相国寺の近くに睡竹堂をつくり隠棲し始める。寛永18年(1641)洛北一乗寺村の窪地に凹凸窠(現在の詩仙堂)を建て、終の棲家と定める。高台寺の項でも触れた木下長嘯子の歌仙堂に倣って、中国歴代の詩人を36人選んで三十六詩仙とし、狩野探幽に肖像を描かせ堂内上階の四方の小壁に9面ずつ掲げた。一度は徳川幕府から離れた丈山であったが、鷹が峰の本阿弥光悦、八幡の松花堂昭乗と共に、幕府の意を受けて京中、特に後水尾院の監視をしていたとの説もあるように、その生涯はよく分かっていない。承応2年(1653)に渉成園が造られたということから一乗寺に隠棲した後に、徳川家と関係が深くなった東本願寺の仕事を手がけたとしたら、上記の説もある程度真実味を持ってくる。
文政10年(1827)渉成園を訪れた頼山陽は渉成園記の中で園内の主な建物や景物を下記のような十三景として紹介している。
1 滴翠軒
閬風亭、蘆菴、園林堂と南北に並ぶ書院群の北端に位置し、臨池亭とともに池に面して建てられた明治17年(1884)再建の建物で緩やかな勾配の屋根と池に面して縁を巡らせているため、軒の深い外観となっている。その名は傍らにある小滝(滴翠)から付けられている。
2 傍花閣
園林堂の東、山門として明治25年(1892)に建てられた楼門。階上の四畳半の部屋につながる山廊と呼ばれる階段の入口が左右側面に付けられている。そのため他の建物とは異なる形状となっている。
3 印月池
渉成園の東南を大きく占める池泉。東山から上る月影を水面に映して美しいことから名付けられている。
4 臥龍堂
印月池に浮かぶ南大島を臥龍堂と呼ぶ。もともとこの島には2階建瓦葺の小さな鐘楼堂が建ち、漱枕居に集まった茶会の客を縮遠亭へ船で運ぶ刻限を告げたとされている。安政5年(1858)6月に下京地域で起きた安政の大火により焼失して以来再建されず、その礎石のみを残している。
5 五松塢
縮遠亭の建つ北大島の侵雪橋を渡った北側の地を、五株の松あるいは一幹五枝の松が植えられていたことから名付けられている。五松塢の塢は小さな土手を示す言葉で、五松塢と臥龍堂である南大島は豊臣秀吉が築いた御土居の跡であると考えられている。
6 侵雪橋
印月池に浮かぶ縮遠亭の建つ北大島に西北岸から架かる木造の反橋。頼山陽は雪の積もった橋の有様を玉龍に例えて表現している。
7 縮遠亭
縮遠亭は北大島に建つ明治17年(1884)頃に再建された、くの字型をした茶室。西側の土間から入ると抹茶席と四畳間があり、その先は折れ曲がった三畳間の高台が池に張り出す様に舞台造りとなっている。縮遠亭の名は東山の阿弥陀ヶ峰が縮図のように見えることからつけられたようだが、既に江戸時代の後期頃には樹木が成長し、もとの眺めが得られなくなったようだ。
8 紫藤岸
回棹廊の東岸の野生の藤を紫藤岸と呼んでいた。現在は印月池に迫り出すように藤棚が作られている。
9 偶仙楼
現在の閬風亭の場所にあった高楼で、伏見城から移築されたもので桃山風の大書院に付随していた。安政5年(1858)の安政の大火によって焼失した後に再建されたが、元治元年(1864)の蛤御門の変による類焼で失われ現在に至る。
10 双梅檐
紅梅・白梅が20株植えられた梅林。檐は庇の意味で、蛤御門の変による焼失以前の閬風亭は規模も大きく屋根がこのあたりまで架かっていたことから名付けられている。
11 漱枕居
印月池の南西に池に迫り出すように、慶応元年(1885)頃に建てられた建物。漱流枕石は蜀書にある山水の間にかくれ住んで、自由な生活をすることの例えであり、晋の孫楚が漱石枕流と誤って使った故事に夏目漱石の名が由来していることは有名であろう。漱枕居は、縮遠亭(飯店)と代笠席(茶店)とともに煎茶三店の酒店として使われていたようだ。このような遊び方は煎茶の祖であり、この庭を作庭した石川丈山が始めたと言われている。
12 回棹廊
北大島と丹楓渓を結ぶ木橋で、中央に唐破風屋根、その両脇も檜皮葺屋根が架かる。明治17年(1884)頃に再建されているが、安政の大火によって焼失する以前は朱塗りの欄干を持つ反橋だったと伝わる。橋の中央の天井には掛け釘が施されていることから、夜半には金灯籠が吊るされていた。
13 丹楓渓
回棹廊の北端から印月池の北岸にかけては楓が植えられ、紅葉の美しい渓谷を模している。
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