渉成園 その3
渉成園(しょうせいえん)その3 2008年05月18日訪問
渉成園は、江戸時代の頃より六条河原院の跡地とされていた。安永9年(1780)に刊行された都名所図会では東殿(東本願寺別館)という名称で、下記のようなことが記されている。
東殿〔今いふ百間屋鋪なり〕台命によつて増地を賜り、東本願寺の別館とす。旧此所は河原院の旧蹟にして、池辺の出島に九重塔あり、是則融大臣の古墳なり。〔いにしへ此所に融公の社あり、境内の隣地下寺町万年寺にうつすなりといふ〕池水は東の高瀬川より流れて常に溶々たり、水戸を獅子口といふ。臨池殿の庭は小堀遠州の好なり、風光奇々として真妙なり。
台命とは将軍や三公や皇族などの命令ということであるが、ここでは第3代将軍徳川家光を示している。「池辺の出島に九重塔あり」は、源融ゆかりの塔として残されており、融大臣は、従一位左大臣まで昇進した源融である。
源融は弘仁13年(822)嵯峨天皇の12男として生まれている。嵯峨源氏融流の初代となり、紫式部の源氏物語の主人公光源氏の実在モデルの一人ともいわれている。
貞観14年(872)に左大臣にまで昇るが、貞観18年(876)下位である右大臣の藤原基経が陽成天皇の摂政に任じられたため、上表を出して自宅に引籠もるが、光孝天皇即位後の元慶8年(884)政務に復帰する。世阿弥作の能・融の元となっている。
都名所図会では河原院の旧蹟も下記のように紹介している。
河原院の旧跡は五条橋通万里小路の東八町四方にあり。〔鴨川は此殿舎の庭中を流と見えたり〕此所は融の左大臣の別荘にして、台閣水石風流をつくし、遊蕩の美を擅にし、山を築ては草木繁茂し四時に花絶えず、池を鑿ては水を湛へ魚鳥は波に戯れ、陸奥の松島をうつし、難波津より日毎に潮を汲せ、管絃は仙台に調、文籍は月殿に翫び給ふ。大臣薨じ給ひて後、寛平法皇此う勝地に遊覧し、東六条院と号す。其後仏閣となし、融公第三の御子祇陀林寺の本主仁康上人といふ知識をすゝめて、丈六の釈迦仏を作りて此院に安置し、これを河原の院と号しける。〔今五条橋の南、鴨川高瀬川の間に森あり、これを籬の森といふ。河原院の遺跡なり〕
源融は、六条河原院を陸奥国塩釜の風景を模して作庭している。塩釜を模すための塩は、難波の海の北の汐を汲んで運ばれたと伝えられている。兵庫県尼崎市琴浦町にある琴浦神社の祭神は源融であるが、毎日20石の汐水を汲んで運び、塩を焼かせたという伝承が残されている。上記の寛平法皇とは宇多法皇であり、源融の子である源昇は延喜16年(916)正三位に昇進した際に、河原院を宇多法皇に献上している。翌年の延喜17年(917)には宇多法皇がその河原院で昇の七十の賀宴を催している。その後に融の三男と言われている僧の仁康に与えられ、長保2年(1000)に祗陀林寺を移している。その後、数度の火災で荒廃した。源融は弘仁13年(822)生まれの寛平7年(895)没とされているので、仁康を融の三男とするのは時代的に少し無理があるように思う。
先の都名所図会によると河原院は八町(500メートル)四方の巨大な邸宅となるが、北は六条坊門小路、南は六条大路、西は萬里小路、東は東京極大路に囲まれた4町四方だったと現在では考えられている。そのため渉成園は実際には河原院の跡地ではなかったとされている。木屋町通五条下ルには「此附近 源融河原院址」の石碑が残されている。この碑はフィールド・ミュージアム京都のデータベースに登録されていない上、今回はここは訪問していないので、なぎさんのHP 花橘亭~なぎの旅行記~を参照させて頂きました。石碑の横にある榎は、籬の森(まがきのもり)と呼ばれる森の名残とされている。籬の森は、もと河原院の邸宅内の庭の中の島・籬ノ島が、鴨川の氾濫によって埋没し、森として残ったと伝えられている。碑と榎の傍らには京都市の駒札(http://www.miyakoweb.net/kanko/annai.php?p=shim/ichihime/kawarainato.txt&map=default : リンク先が無くなりました )が立つ。
東本願寺は創建以来、天明8年(1788)の天明の大火、文政6年(1833)の火災、安政5年(1858)の京都大火そして元治元年(1864)の蛤御門の戦いによる兵火と4回の火災の被害を受けている。そのため御影堂も阿弥陀堂も明治28年(1895)に再建されている。これだけ頻繁に火災の被害を受けているため防火意識は高く、明治27年(1894)に琵琶湖疏水の工事が着工するとその開削目的の一つである防火用水として本願寺水道が作られる。蹴上舟溜り横にある本願寺水道水源池の標高を東本願寺の地盤面より48メートル高い位置に設定し、バルブを開けばこの水位差で御影堂の大屋根を越える水が噴出されるように設計されている。これは御影堂や阿弥陀堂が竣工する前から、本願寺水道敷設工事に着手していたことが分かる。
水源は上記のように蹴上舟溜り北の旧疎水事務所跡に作られ、ここから長さ54メートルのトンネルで水源池へ水を引き、ここから口径300mmのフランス製鋳鉄管で配水されている。市街地の配管埋設作業は明治28年(1895)1月から始まり、わずか45日間で竣工していることからも本願寺水道の重要性は認識できる。三条通から粟田神社前を通り、白川の西岸を沿い南下し、小堀通、祇園町を西へ、花見小路を南下して建仁寺を経て、大黒町、音羽町を通り、五条大橋の桁沿いに鴨川を渡り、渉成園の北側を通り東本願寺の境内東北隅の松林に設けた貯水池に達する。この経路については、「本願寺水道を歩こう」に掲載されている大谷派本願寺火防用引水路線略図を参照すると良く分かる。
この市街地埋設工事に引き続き、東本願寺境内の配管工事と渉成園内の水道工事が行われる。こちらは長い年月を要し、明治30年(1897)8月3日に多くの参観者を集めて行われた噴水防火大試験の成功を以って完成している。もともと渉成園には高瀬川から水を引き込んでいたため、夏場の渇水期には水量が乏しくなっていた。これも本願寺水道を使用することで解消できている。滴翠軒横にある滝は庭園の北側を通る本願寺水道からの導水によって造られている。この池から遣水を通り印月池に注ぐため、園の池には琵琶湖で棲息する魚が見られる。
つい最近まで本願寺水道は蹴上から東本願寺へと流れ、外堀の水、門前の蓮の噴水、渉成園の池水に使用されていた。しかし漏水が頻発し十分な水圧が確保できていないため当初のような消火システムではなくなく、不足分の防火用水を補うため地下水をポンプアップし、貯水プールに備えた水を使用するように変更されている。大窪健之氏による「文化遺産を守る歴史的防災水利プロジェクト~百余年前に敷設された本願寺水道を訪ねて」(http://www.bunkaisan.or.jp/PDF/12.pdf : リンク先が無くなりました )によると2006年時点では、まだ水道は通じていたようだが、2008年の前述の「本願寺水道を歩こう」では
現在、本願寺水道は漏水が激しく、水の流れが止められています。
とある。残念なことだがこちらが現状であろう。
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