八木邸
八木邸(やぎてい) 2008年05月18日訪問
京福電鉄嵐山本線の踏み切りを越え、坊城通と綾小路通の角には新選組の屯所として使われた旧前川邸が残されている。その先に京都教育会が昭和6年(1931)に建立した新選組遺蹟が現れる。
八木家の始祖である朝倉氏は但馬国朝倉(兵庫県養父郡朝倉庄)に発している。鎌倉時代初期に朝倉高清の次男・重清が八木庄に入り、八木安高を名乗っている。その後、承久の乱(承久3年(1221))で鎌倉幕府に加勢したことにより一族は興隆する。八木家の宗家となる朝倉高清から7代後の朝倉広景が越前朝倉を興す。八木氏も越前を経て天正年間(1573~1593)頃に洛西壬生村に居を構えている。江戸時代に入り十家程の郷士と共に、壬生村の運営や壬生狂言に携わるようになる。
坊城通に面して御菓子司・京都鶴屋 鶴寿庵が店を開いている。京都鶴屋 鶴寿庵の公式HPでは、明確な創業年が書かれていないが、「茶の湯の楽しみ」の中の紹介記事には、
「昭和40年(1960)創業。「新選組屯所」のあった八木家15代当主八木喜久男が鶴屋八幡で修業したのち新選組屯所跡脇に創業した。」
とある。壬生菜を刻み入れた丹波大納言小豆の粒餡を餅で包んだ屯所餅や卵黄と糖蜜で作った南蛮渡来のお菓子・鶏卵素麺などを製造している。この店舗の場所には八木家の離れがあったようだ。浪士組の入京の際に、八木邸に分宿した場所はこの八木邸の離れだったとされている。その後、旧前川邸に屯所の一部を移している。
この京都鶴屋 鶴寿庵の前を西に進むと文化元年(1804)に建てられた長屋門があり、この門の先に文化6年(1809)竣工の主屋が続く。主屋は南側にある玄関から北側の庭に面した奥の間までが3間構成になっている。八木家の公式HPには八木邸の平面図が掲載されている。この平面図を時計回りに90度回転すると北が上となる。まず南側に本玄関と内玄関が並び、その先の中央部分には中の間(仏間)と階段が続く。さらにその北側にある奥の間が2間北側の庭に面している。文久3年(1863)8月18日の八月十八日の政変に壬生浪士組も出動しその働きが評価される。その後、(異説もあるが)同年9月13日副長新見錦が切腹させられ、同月18日局長芹沢鴨と副長助勤平山五郎が島原角屋での宴会の後、泥酔して就寝中に襲われて絶命している。この時、やはり芹沢派の副長助勤平間重助は脱走している。 この年の12月28日最後の芹沢派と考えられている野口健司が旧前川邸で切腹することで、近藤派による芹沢派の粛清が完了する。
近藤派は浪士組から脱退し壬生浪士組を結成した当初から、異分子の排除を行ってきた。文久3年(1863)3月15日会津藩公用方と面談し会津藩お預かりとなっている。この時の壬生浪士組は次の24名であったとされている。
近藤勇、土方歳三、山南敬介、沖田総司、井上源三郎、永倉新八、斎藤一、原田左之助、藤堂平助、
芹沢鴨、新見錦、平山五郎、平間重助、野口健次、粕谷新五郎、佐伯又三郎
殿内義雄、家里次郎、根岸友山、遠藤丈庵、鈴木長蔵、神代仁之助、阿比留栄三郎
浪士組の取締役である鵜殿鳩翁は京に残留する浪士組の取り纏めを行うため、殿内義雄と家里次郎を残しているが、3月下旬には殿内が暗殺され、家里も4月下旬芹沢に切腹させられている。そして既に3月下旬には根岸友山は遠藤丈庵、鈴木長蔵らとともに壬生浪士組を脱走している。このように壬生浪士組は結成後2ヶ月で近藤派と芹沢派のものとなっている。
八木邸は一般に公開されているが、写真撮影は不可のようだ。
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