曼殊院門跡 その2
天台宗 曼殊院門跡 (まんしゅいんもんぜき) その2 2008年05月20日訪問
北通用門から庫裡を通り、大玄関に入る。勅使門を潜った賓客は大玄関で迎えられ、唐門を通り書院庭園に入って行ったと思われる。現在の拝観順路は、大玄関から大書院に向けて斜めに架けられた廊下を進むこととなるが、このあたりの印象は弱く、なぜか記憶に残っていない。それだけ、この先に待っている大書院、小書院そして庭園の印象が強かったからであろう。
大書院は杮葺寄棟造で、むくりのある屋根を載せた建物。卍崩しの欄間のある十雪の間、法華塔が置かれた滝の間、鞘の間、本尊などが安置されている仏間、良尚法親王の御寝所の御寝の間、控えの間などからなる。
続く小書院には、富士山にかかる雲の七宝焼の釘隠しや菊の欄間のある冨士の間と十種の寄木で作られた曼殊院棚を持つ黄昏の間などがある。そして黄昏の間の西端に二畳敷きの上段の間が設えてある。この上段の間は玉座として良尚親王が座するために作られている。宮元健二氏の「京都名庭を歩く」(光文社 2004年)に掲載されている小書院の平面図を見ると上段の間の東側に付け書院が作られている。ここより外光を取り入れるようになっているが、黄昏の間と名付けられているように過度に明るい空間を求めた訳ではなさそうだ。小書院の東広縁だけに架けられた屋根は繊細すぎるほど薄く、しかも軒の出を深く取っている。そのため部屋に入ってくる外光を制限する役割を果たしている。そして長押の上部に濃い茶色の土壁を用いたことで、長押から天井まで同じ色調となり、深い闇を感じさせる空間を作り出している。また現在の部屋の内部もやや黄色系の仕上げとなっているため、白砂に反射した日差しが障子越しに入ると黄昏時の雰囲気を感じられたのかもしれない。
黄昏の間と富士の間の間には、格子模様の中に表菊と裏菊を配した有名な欄間がある。表菊は浮き彫りで写実的に表現し、裏菊は透かし彫りで格子と同じように透けた感じを出している。格子と裏菊だけで構成された欄間では透けた感じが出すぎて存在感が薄くなるのかもしれない。富士山の釘隠しなどのデザイン性だけでなく、この欄間に見るようなバランス感覚が非常に優れている。
小書院の広縁の欄干は舟を思わせる造りであり、その天井もまた舟底天井とされている。恐らく良尚親王が上段の間に座して、白砂の庭園という水面に浮かべた舟に載っている雰囲気を楽しんだのではないだろうか?父である智仁親王や兄の智忠親王が造営した桂離宮や後水尾上皇が心血を注いだ修学院離宮のように巨費を投じて池泉を築き、舟遊びをすることが出来なかった良尚親王にとっての楽しみであったのではないだろうか。このように見ていくと小書院は寺院建築と言う雰囲気を持っていない。
先の「京都名庭を歩く」の中で、宮元健二氏は小書院の空間構成に等差数列の使用していることに着目している。富士の間が2間、黄昏の間が1.5間そして上段の間が1間と奥に進むほど部屋の奥行きが小さくなる。これらは遠近感を強調するために用いられた西欧手法とし、これが遠州好を作り出していると考えている。さらに梟の手水鉢を境にして奥の欄干の高さを低くし、上段の間を一段高くすることで、上段の間に座る親王がアイストップとなり、パースペクティブが効いてくるとしている。残念ながら実際にその場に立って見ても、それを実感することはできない。欄干の高さを変えたのではなく、形状を変えたため高さが変わったと考えるほうが自然である。このような遠近感を強調する手法は、一点透視の時に効果を発揮するが、欄干の高さの変化は梟の手水鉢から始まっている。この欄干の高さの変化を感じるためには大書院と小書院のつなぎ部分から二点透視で見なければならない。
この建物は、訪れた人がどのように見えるかではなく、親王にとってどのように見えるかを追求したものであったと考える方が自然であると思う。
曼殊院には、無窓の席と、三畳台目の狭い部屋に、障子の付いた8つの窓が開けられている八窓軒がある。無窓の席は富士の間の西隣りに造られており、西和夫氏の「京都で「建築」に出会う」(彰国社 2005年)に掲載されている小書院の平面図を見る限り、恐らく四周ともに外部に面しない茶室となっている。これに対して八窓軒は上段の間の北側に建てられている。今回は見ることがなかったが、かなり以前に一度訪れたような記憶があるが、どうも鮮明ではない。現在、この茶室は特別料金を払うことで入室が出来るようである。
五冨利建築研究所の公式HP たたずむ には詳細な見学記(http://www.geocities.jp/gobken89/t-061015-8mado_05.html : リンク先が無くなりました )が平面図と共に掲載されているので、是非ご参照下さい。この八窓軒は無窓の席とは対極的に窓を多く作り、明るい茶室となっている。富士の間、黄昏の間の広縁は上段の間の付け書院でそれ以上先に進めないようになっている。八窓軒への客の動線は、一度庭園に造られた路地に下りないと入れないようになっている。
曼殊院の庭園は雁行するように配置された大書院から小書院をつなぐように造られている。作庭者は小堀遠州とも言われていたが、遠州の没後(正保4年(1647))に曼殊院が建てられていることから、現在では遠州好とされている。「小堀遠州 気品と静寂が貫く綺麗さびの庭」(京都通信社 2008年)では、曼殊院の建築と作庭について、桂離宮を手がけた職人たちの関わりを推測している。
庭園の東南に築かれた蓬莱山から流れ出でた川が、二つの石橋の下を潜り大海に注ぎ込む。大海には鶴島と亀島が浮かぶ。蓬莱山は山の傾斜を利用して作られたことは、その奥の築地塀の傾斜を見ると分かる。大書院と小書院の南側に広がるこの庭園は、大書院の南広縁からはその全貌を現さない。最初に見えるのは樹齢350年を越える五葉松のある鶴島とその奥に塔燈籠のある蓬莱山。もともと鶴島の五葉松は2本あり、鶴の両翼を現わしていたが、台風によって折れたため今のような形になったとも言われている。この五葉松の根元には曼殊院型のキリシタン燈籠が置かれている。この庭園には5つの燈籠が据えられ、五基八燈の燈籠と呼ばれている。この他に3つの手水鉢が配置されている。大書院の西端に一文字型の手水鉢、小書院の南広縁に梟の手水鉢、そして八窓軒の路地に方形の手水鉢が置かれている。この手水鉢は御香宮神社庭園に置かれた文明9年(1477)の銘がある方形の手水鉢に近いものを感じた。御香宮神社庭園は、小堀遠州が作庭した伏見奉行庭園の遺構を発掘し、中根金作によってこの地に移され新たに作庭したものである。
大書院の東広縁に廻り込むと亀島が現れる。ここで初めて鶴島と亀島が対になる。中央に植えられた背の低い松は亀の甲羅を表現している。そして蓬莱山には三重塔燈籠が置かれている。抽象化された庭の中に具象的な燈籠を持ち込む手法に違和感を感じる。先の「小堀遠州 気品と静寂が貫く綺麗さびの庭」では、蓬莱山山腹に建つ寺院を表現したとしている。
梟の手水鉢は江戸時代の作で、花崗岩の四方に梟の彫刻が施された丸型の蹲で、石組の霊亀の上に乗った形となっている。東に亀頭石を置き、手水鉢は建物側へわずかに傾けられている。部屋内から水に写した月見の趣向があったとも言われている。
「曼殊院門跡 その2」 の地図
曼殊院門跡 その2 のMarker List
No. | 名称 | 緯度 | 経度 |
---|---|---|---|
01 | ▼ 曼殊院門跡 勅使門 | 35.0488 | 135.8025 |
02 | ▼ 曼殊院門跡 庫裡 | 35.049 | 135.8029 |
03 | 曼殊院門跡 大玄関 | 35.0489 | 135.8028 |
04 | ▼ 曼殊院門跡 大書院 | 35.0486 | 135.8031 |
05 | ▼ 曼殊院門跡 小書院 | 35.0487 | 135.8033 |
06 | 曼殊院門跡 八窓軒 | 35.0488 | 135.8033 |
07 | ▼ 曼殊院門跡 鶴島 | 35.0485 | 135.8032 |
08 | ▼ 曼殊院門跡 亀島 | 35.0486 | 135.8033 |
09 | ▼ 曼殊院門跡 蓬莱山 | 35.0485 | 135.8034 |
10 | ▼ 曼殊院門跡 曼殊院天満宮 | 35.0493 | 135.8022 |
11 | ▼ 曼殊院門跡 弁天堂 | 35.0493 | 135.8021 |
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