円通寺
臨済宗妙心寺派大悲山 円通寺 (えんつうじ) 2008年05月20日訪問
八大神社の一の鳥居と一乗寺下り松を見た後、曼殊院道を西に進み白川通に出る。そのまま北大路通の交差点辺りまで白川通を南に下る。昼食を摂った後、タクシーに乗車し幡枝の円通寺を目指す。車は白川通を北上し、白川通北山の交差点で左折し、叡山電鉄と高野川を越えて北山通を西に走る。昨日、深泥池から上賀茂神社へ歩いた道と同じように、北山通から鞍馬街道に入り北上する。深泥池畔からさらに鞍馬街道を進む。道は次第に勾配をきつくしていくと共に、民家の数も少なくなっていく。白川通北大路から、およそ20分弱で円通寺の前に着いたが、歩いて鞍馬街道を登って行くのは、中々大変そうな感じを受けた。距離的には市内から遠くないものの時間的には、案外隔絶した場所であることが分かった。
円通寺は岩倉幡枝町にある臨済宗妙心寺派の仏教寺院で山号は大悲山。円通寺の拝観の栞には「幡枝離宮跡圓通寺」あるいは「大悲山勅願所御幸御殿圓通寺」と記している。寺院としての円通寺は、円光院文英尼が延宝6年(1678)に輪王寺宮守澄法親王の尽力を得て寺を興し、妙心寺龍泉庵の開祖・本如実性禅師(景川宗隆)を開山としたことに始まる。
本如実性は応永32年(1425)伊勢で生まれている。雲谷玄祥、義天玄詔、桃隠玄朔らに師事した後、大徳寺41世で龍安寺の雪江宗深の法を嗣ぐ。大徳寺46世、妙心寺10世、龍安寺の住持を務めている。文明13年(1481)妙心寺龍泉庵を建立、また妙心寺大心院を細川政元の勧請により創建している。この年次には諸説あり、明応元年(1492)、あるいは文明11年(1479)とされている。明応9年(1500)没。
開山については、円通寺の拝観の栞には触れられていないが、京都市の駒札には、本如実性禅師を明記している。もしこれが事実とすると禅師の死後、遺徳を偲んで開山として迎えたこととなる。
円光院文英尼は、慶長14年(1609)後陽成天皇の廷臣・園基任の娘として生まれ、後光明天皇生母の壬生院(園光子)の妹にあたる。始めは後陽成天皇の女御で後水尾天皇の生母となる中和門院に勤仕していたが、出雲松江藩主京極忠高の継室となる。正室の初姫が亡くなったのが寛永7年(1630)とされているので、その後のことと思われる。しかし寛永14年(1637)に今度は忠高が没すると、再び京へ戻り薙髪して円光院と称することとなる。後水尾法皇の信任を得て幼少時の霊元天皇の養育にも当たる。円通寺建立後の延宝8年(1680)72歳で没している。
また円通寺創建時に尽力した輪王寺宮守澄入道親王も、後水尾天皇第6皇子で初代輪王寺宮門跡である。正保元年(1644)親王宣下とすると同時に青蓮院に入室し、得度している。日光山門主の後、寛永寺門主となり、天台座主にも任じられている。明暦元年(1655)後水尾天皇から輪王寺の号をその門室に賜わる。円通寺創建に当たっては、その費用を含めて幕府に働き掛けたことと思われる。その後、延宝8年(1680)47歳で没している。
後水尾上皇は大悲山号円通寺の勅額を賜い、霊元天皇は勅願寺と定め梵鐘を納進し、行幸も行っている。以降、皇室の祈願所になる。
このように後水尾上皇に関係する人々によって円通寺が創建されたことが分かる。そして後水尾上皇が幡枝に辿り着くまでの道程は、修学院離宮造営の道程でもある。ここからはその道程を見ていく。
後水尾天皇が即位した慶長16年(1611)は、徳川幕府にとっても政治基盤の形成という重要な時期にあった。慶長5年(1600)関が原の戦いで勝利し、慶長8年(1603)江戸に幕府を開闢したとしても、まだ大阪では豊臣家が幕府を転覆しえる力を秘めていた。しかし慶長20年(1615)大阪夏の陣で豊臣家が滅亡すると、徳川幕府の幕藩体制は揺るぎないものになった。そして大阪夏の陣の直後に、禁中並公家諸法度を公布し、その5年後には徳川秀忠の娘和子を後水尾天皇の中宮としている。このように幕府による朝廷管理の準備は着々と行われる。そして寛永4年(1627)幕府に諮らずに紫衣着用の勅許を僧侶に与えたことに対し、幕府は勅許を無効とし紫衣の剥奪を行うに至る。これが歴史の教科書で後水尾天皇を覚えることとなる「紫衣事件」である。ついに後水尾天皇は屈辱に耐え切れず退位を決意し、寛永6年(1629)に第二皇女・興子(明正天皇)に譲位してしまう。このあたりの経緯は、仙洞御所 その2の項で詳しく触れたので、興味のある方はそちらをご参照下さい。
こうして30代前半で政治の表舞台から退場したことにより、後水尾院には50年以上の比較的自由な時間が残った。学問はもとより茶道、立花、詩歌など、さまざまな芸能に秀でた後水尾院の興味は、同時代の文化人が集う文化サロンの形成とそのための施設を作ることに向けられる。新たな離宮(山荘)に適した土地を探すことを思い立ったのは、宮元健次氏による「京都名庭を歩く」(光文社新書 2004年)によると正保4年(1647)頃としている。鹿苑寺の住持であり、後に相国寺95世となる鳳林承章などに依頼して、衣笠山麓に適地を探させている。しかし、この地には早くから多くの別業が造られ、それらが既に禅寺となってきたため、後水尾上皇が望むような土地はなかったようだ。そのため衣笠山から北山周辺、高野川や岩倉川上流辺りまで探索している。
後水尾上皇は修学院離宮を造営する以前に、長谷、岩倉そして幡枝に3つの別荘を持っていた。この鳳林承章に山荘探しを依頼した正保4年(1647)に、上皇は東福門院とともに、実弟の聖護院門跡道晃法親王の長谷の別荘を訪れている。御忍びの行幸でもかなりの人数のお供を引き連れ、初冬の一日を松茸狩りで楽しんだとされている。宮元氏の先の著書では、この実弟の長谷の別荘が上皇の山荘と同一のものであるような記述となっている。
聖護院門跡は、寛治4年(1090)岩倉の長谷に創建された常光寺を下賜され、聖体護持の寺と改名したことから始まっている。これは白河上皇の熊野山行幸に際し、増誉は先達の勤めを無事に果たしたことによっての下賜であり、この時に院地を現在地の聖護院中町に移したと言われている。その後、応仁の乱(応仁元年(1467)~文明9年(1477))焼失すると、再び常光寺の旧地へ戻る。豊臣秀吉により烏丸上立売御所八幡町に造営されるが、元和6年(1620)火災に見舞われ焼失する。一度は再建されたが延宝3年(1675)再び火災に類焼する。そして延宝4年(1676)後水尾天皇の皇子・道寛法親王の時に現在地に戻っている。 聖護院長谷御殿は、京都市埋蔵文化財研究所の