嵐山の町並み
嵐山の町並み(あらしやまのまちなみ) 2008年12月21日訪問
京都駅八条口のホテルを6時前にチェックアウトし、京都市営地下鉄烏丸線で京都から四条、そして阪急京都本線で桂に向かう。ここで嵐山線に乗り換えると3駅で嵐山に到着する。まだ日の出前の6時38分である。
地名としての嵐山は桂川の右岸の西京区を指す。すなわち桂川の西岸のことであり、阪急嵐山線の松尾駅から終点の嵐山駅の周辺にかけての地名は全て嵐山が頭に付いている。これに対して桂側の左岸は右京区嵯峨となっている。しかし観光案内等では嵯峨地区を含めた渡月橋周辺全域までを嵐山と称することが多い。今まで嵐山と嵯峨あるいは嵯峨野を混同していたが、現在の行政区的には西京区と右京区の違いが明確にある。渡月橋より下流は桂川と呼び、その上流を大堰川、あるいは保津川下りのように亀岡市保津町から渡月橋間を保津川と呼ぶことがある。
安永9年(1780)に刊行された都名所図会の嵐山の項でも下記のように記している。
「嵐山は大井川を帯て北に向ひたる山なり。 亀山院吉野の桜をうつし給ひし所とぞ」
そして渡月橋を手前にした桂川の右岸地域の図会を掲載している。少なくとも江戸時代中期頃から現在と同じ地理的な認識であったことが分かる。
嵐山あるいは嵯峨の歴史を考える上で、秦氏の存在を外すことはできない。日本書紀によると応神天皇14年(283)に弓月君(融通王)が朝鮮半島の百済から120県の民を率いて帰化したとされている。しかし秦氏の基となった氏族が新羅から日本に渡来したのは、もう少し後の時代の5世紀中頃のことだと考えられている。そして山城国葛野の太秦あたりに定住したと考えられている。林屋辰三郎著「京都」(岩波新書 1962年刊)にも、この時期に日本に渡来した秦氏が湿潤な地域の土地改良のため桂川に大堰を造り、河川の水量を調整することにより、大規模な開拓と耕地への灌漑が可能にしたと考えている。古代日本人にとっては、秦氏の水利技術は驚異的なものに見えたのではないだろうか。秦氏が築いた大堰は残っていないが、一ノ井堰碑のある辺りとするならば、その下流の左岸の嵯峨野や右岸の嵐山は秦氏の開拓地となったと考えられる。これから向かう法輪寺の寺域には三光明星尊を祀った葛野井宮が古墳時代からあり、これが秦氏の入植により氏族守護の祖神となっている。また大宝元年(701)勅命により秦忌寸都理が社殿を造営し、山頂附近の磐座から神霊を移した松尾大社がその下流に建てられている。 松尾大社以外にも、推古天皇11年(603)また同30年(622)頃に秦河勝によると考えられている広隆寺、和銅年間(708〜715)に、秦伊侶巨が勅命を受けて伊奈利山(稲荷山)の三つの峰に神を祀った伏見稲荷大社が創建されている。
嵐山の名は大堰川の南にある標高375mの嵐山に由来している。渡月橋から左側に見え、大悲閣の手前に位置している山である。この嵐山自体の由来は少し古いものになる。
日本書紀によれば、阿閉臣事代が任那に遣わされる途中、壱岐で月讀尊の神託があったのでこれを天皇に奏上したとしている。事代は顕宗天皇3年(487)山城国葛野郡歌荒樔田に神領を賜って壱岐の月読神社の神を勧請し、壱岐県主・押見宿禰に祀らせたという。これは月読神社の創建の歴史であり、上記の大堰の建設と同じ時期のこととも考えられる。
歌荒樔田の歌は宇田とも書き、宇=良いこと、田=土地 を意味している。このことから荒樔という地名の良い土地と解することが出来るようだ。この荒樔、あるいは桂川の中州を意味する荒洲から嵐山に転じたと考えられている。
大堰川沿いに建てられた月読神社は,水害のため斉衡3年(856)に現在の松尾と上桂の間に移されたといわれている。それでは古代の歌荒樔田はどこにあったのか?これには上野村、桂里、有栖川流域など諸説があり特定できていないようだ。
昔より嵐山は春の桜、秋の紅葉が有名である。脇田修・脇田晴子著の「物語 京都の歴史」(中央公論新社 2008年刊)では、先ず平安中期の「拾遺集」から
朝まだき嵐の山のさむければ紅葉のにしききぬ人ぞなき 藤原公任
という歌を取り上げている。藤原公任は平安中期の公卿であり歌人であった。この時代に既に紅葉の名勝であったことが分かる。そして鎌倉時代に後嵯峨上皇が亀山殿に吉野の桜を植えたのが史料的に最も古いものとした上で、鎌倉後期には桜の名勝となったことを記している。
この記事へのコメントはありません。