化野念仏寺
浄土宗 華西山 東漸院・化野念仏寺(あだしのねんぶつじ) 2008年12月21日訪問
愛宕念仏寺の仁王門を出て、再び平野屋、愛宕神社の一の鳥居、そして「つたや」を眺めながら愛宕街道を下る。嵯峨鳥居本の重要伝統的建造物群保存地区の中間地点あたりに化野念仏寺の入口がある。
化野念仏寺は、正式には華西山 東漸院と号する浄土宗の寺院である。伝承によれば、その起源は弘仁2年(811)空海による五智山如来寺建立に遡る。もともと化野は東山の鳥辺野、洛北の蓮台野とともに葬送の地として知られてきた。「あだし」とは儚い、虚しいという意で、化の字は生が化して死となり、この世に再び生まれ化る事や、極楽浄土に往来する願いなどが籠められているとされている。化野以外にも阿太志野,徒野とも書く。初めは風葬が行われていたが、後に土葬となり人々が石仏を奉り別離を悲しんだ地でもある。吉田兼好の徒然草の第七段に
あだし野の露消ゆる時なく、鳥部山の煙立ちさらでのみ住み果つる習ひならば、いかに、物の哀れもなからん。世は定めなきこそいみじけれ。
という記述がある。化野の露が消える時がないように、この世にいつまでも住み通すことが出来るなら、趣などない。人の寿命は定まっていないからこそ、妙味があるという意味らしい。このように化野の露とは人生の無常をあらわす枕詞として使われてきた。
空海はこのような葬送の地に、小倉山側を金剛界、五山送り火の鳥居形のある曼荼羅山側を胎蔵界に見立て、千体の石仏を埋めている。すなわち、金剛界曼荼羅と胎蔵界曼荼羅の2つの曼荼羅を合わせて両界曼荼羅をこの地に再現したこととなる。そして愛宕街道に沿って流れる曼荼羅川の河原に五智如来の石仏を立て一宇を建立し、野ざらしになっていた遺骸を埋葬したとされている。小倉山から発した曼荼羅川は、嵯峨鳥居本の平野屋とつたやの西側から愛宕街道の下を通り、街道の東側から清涼寺の北側に流れて行く。
後に法然が念仏道場を開き、念仏寺となったとされている。空海が開基した真言宗の寺院が、法然によって浄土宗に改められたのであろう。正徳2年(1712)黒田如水の外孫・寂道が再建したといわれている。本堂には、寺伝では湛慶作とされている本尊の阿弥陀如来坐像を安置している。
本堂前には西院の河原を現出した多数の石塔石仏が立ち並んでいる。西院の河原は賽の河原と同義であり、三途川の河原である。先の曼荼羅川を三途川に見立てると西院の河原はその西側にあたる。約8000体という夥しい数の石仏や石塔は明治時代になってから、化野に散在していた多くの無縁仏を集めたものである。
安永9年(1780)に刊行された都名所図会には、以下のような記述が残されている。
化野は小倉山の北の麓なり、念仏寺の本尊は阿弥陀仏にして湛慶の作なり、福田寺は南朝の帝後亀山の院の陵あり。諍息院の本尊は倶王神にして小野篁の作なり、焔魔王の像は弘法大師の作り給ふ、地蔵菩薩は満米上人作なりとぞ
景観工学の樋口忠彦氏の論文「嵯峨野の名所再興にみる景観資産の創造と継承に関する研究」
によると福田寺も諍息院も明治時代以降に廃絶していることが分かる。また天明7年(1787)に刊行された拾遺都名所図会に残されている念仏寺の図会より、江戸時代中期の頃から境内の構成とはあまり変わっていないことが分かる。しかし本堂と庵の前に建てられた鐘楼の周辺は現在のような西院の河原ではなく、庭園として使われていたようにも見える。毎年8月23日と24日には、これらの石塔石仏に灯を供える千灯供養が行われる。無数の灯明が暗闇に浮かび、幻想的な有名な光景となっている。境内には水子地蔵もあり、地蔵菩薩の縁日には水子供養が行われている。
愛宕街道から念仏寺の参道に入り、比較的緩やかな石段を登りきると、左手に西院の河原が現れる。そのまま直進せずに、左に折れると円錐台状の仏舎利塔と石造の門が見える。この異国情緒を感じさせる空間を一周して、再び本堂に向う。特に青空を背景とした西院の河原は、何か日常性を感じさせない光景である。同じ石造でも愛宕念仏寺の羅漢像とは異なった種類の精神的な圧迫感が、この石像群にはある。良くパワースポットとか心霊スポットという言葉で紹介される日の差さないジメジメした空間があるが、ここはそれらとは異なった抜ける空の青さが作り物のように感じられる不安感がある。西院の河原内は撮影禁止とされ石垣の外側からしか許されていないため、内部の石像、石塔が密度高く配列されている光景は写真からは伝わらないかもしれない。
本堂の南側には茅葺屋根を載せた水子地蔵堂があり、その後ろに広がる美しい竹林の先には念仏寺の新たな墓地が広がる。
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