東福寺 海蔵院
東福寺 海蔵院(かいぞういん) 2008年12月22日訪問
東福寺の塔頭・勝林寺の石段へと続く道を過ぎると、すぐ右手に海蔵院の山門が開いている。他の多くの塔頭とは異なり、中に入っていくことをできるように見える。この山門の右に社会福祉法人洛東園の看板がかかり、左にはかすれて読めなくなった表札がかかる。ここを海蔵院と知らなかったら、ただ古びた門のある養護老人ホームとしか見えないかもしれない。実際、山門を潜って境内に入っても、洛東園の生活感の方が圧倒的に強く、宗教施設としての雰囲気は薄い。洛東園の公式HPを見ると、昭和27年(1952)に海蔵院の境内に東福寺が設立されたことが分かる。既に50年以上の歴史を重ねている。またこの間、平成元年(1989)に特別養護老人ホームを新築するなど、増築改築を繰り返して来たようにも見える。そのため、山門の正面に建つ建物の他に海蔵院の本堂の北側に2あるいは3棟の建物が境内を埋め尽くしてしまっている。社会環境の変化か社会的要請の結果と理解するしかないのだろう。現在の海蔵院は、かつての境内の東南角に築かれた庭園を囲むように慎ましく残されている。
海蔵院は虎関師錬の退隠所として有名である。天明7年(1787)に刊行された拾遺都名所には、
東福寺塔頭なり。二老橋の北にあり、虎関師の住し所なり。磧礫集云、海蔵院には虎関自筆の元亨釈書あり。
とし、寛政11年(1799)に刊行された都林泉名所にも、
虎関和尚の住坊なり。和漢禅刹云、虎関和上、諱、師練、東山宝覚嗣ク、洛陽人、貞和二年七月廿四日寂ス、六十九歳。
とあるだけで、誰によって創設されたかについては一切触れていない。
虎関師錬は弘安元年(1278)藤原左金吾校尉の子として京で生まれている。8歳の弘安8年(1285)の時、臨済宗聖一派東山湛照に師事して参禅し、同10年(1287)比叡山にて受戒している。もちろん臨済宗聖一派は、東福寺の開山第1世である聖一国師の流れを汲む派である。正応4年(1291年)師を失った後は南禅寺の規庵祖円や円覚寺の桃渓徳悟らについて修行する。この間、菅原在輔から中国南北朝時代の詩文集である文選を、六条有房から易学を学ぶなど自らの研鑚に努め、広汎な知識を得ていた。その後、円覚寺の無為昭元や建長寺の約翁徳倹の会下に入る一方、仁和寺・醍醐寺で密教を学んでいる。
徳治3年(1307)鎌倉に下向した師錬は、建長寺に一山一寧を訪れている。一山一寧は、元の成宗によって日本に送られた渡来僧である。当時既に二度の日本遠征(元寇)に失敗した元は、交渉によって平和裏に日本を従属国とするべく使者を派遣している。当時の日本は臨済禅の興隆期にあり禅僧を尊ぶ気風があったため、その使者に禅僧が選ばれている。一山一寧もその一人であった。鎌倉幕府は元とは交渉せずと決め、来日した使者を全て斬っていたが、一寧が大師号を持つ高僧であり、滞日経験をもつ子曇を伴っていたことなどから死を免ぜられたと考えられている。北条貞時は一寧を伊豆修善寺で幽閉したが、疑念を解き、永仁元年(1293)火災によって衰退していた建長寺を再建して住職に一寧を迎え、自らも帰依している。その後、円覚寺、浄智寺の住持を経て、正和2年(1313)には後宇多上皇の懇請に応じ、上洛して南禅寺3世となっている。
師錬が一寧に出会ったのは、円覚寺の住持になる前のことであろう。この時、一寧に本朝の名僧の事績について尋ねられたとされている。師錬は満足に応えられなかったことを悔やみ、元亨2年(1322)に日本で最初の仏教史書である元亨釈書を著している。仏教初伝以来、鎌倉後期まで700余年に及ぶ、僧の伝記や仏教史を30巻に記している。師錬の広汎な知識は、この元亨釈書とともに五山文学の発展に大きく寄与した。
延元3年(1338)東福寺住持を退き、翌4年(1339)南禅寺住持となるが、興国2年(1341)これを辞して東福寺海蔵院に退き、海蔵和尚とも呼ばれる。同3年(1342)後村上天皇から国師号を賜る。同7年(1346)近衛基嗣の寄進によって楞伽寺を興したが、海蔵院にて寂す。享年69。
また海蔵院は近衛家の香華院となり、近衛前久(1536~1612)や近衛信尹(1565~1614)の墓もあった。しかし後水尾天皇第二皇女昭子内親王が近衛尚嗣の室となり、薨後海蔵院に葬られたため、墓は宮内庁の管理するところとなり、近衛家一族の墓は大徳寺へ移された。確かに総見院の西側に石積みの壁に門を穿った近衛家廟がある。
さて宮内庁によって管理されることとなったのは、後水尾天皇第二皇女昭子内親王とその子の伏見宮貞致親王妃好君の墓である。陵墓 陵印 掲示板によると、先の洛東園の増築により陵墓が外部から遮断されてしまったことが記されている。現在、GoogleMapによると、京都市洛東地域包括支援センターとその北側に建つ洛東園の建物の間に、2つの陵墓が東西方向に並んでいるのが見える。恐らくこれが昭子内親王と伏見宮貞致親王の墓と思われる。
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