不動堂村屯所跡
不動堂村屯所跡(ふどうどうむらとんしょあと) 2009年1月11日訪問
木津屋橋通を越えて、さらに油小路通を南に下ると塩小路通に出る。京都駅前の広場につながる通りであるため、再開発が進み大規模な建物が並ぶ地域になっている。油小路通も塩小路通に出ると、横断歩道橋越しにリーガロイヤルホテル京都が見えてくる。この車寄せに向かっていくと新選組不動堂村屯所跡の石碑が建つ。霊山歴史館の木村幸比古氏による説明板には「この付近」という文字が書き加えられている。かつての屯所の位置は、正確には特定されていないことが分かる。
現在もこの地には北不動堂町と南不動町の地名が残るが、油小路通に面して不動堂明王院がビルの谷間に建つ。今回は塩小路通から直接堀川通に出てしまったため不動堂明王院を訪問しなかった。寺伝によれば弘仁12年(823)に弘法大師が東寺を賜った時、その鬼門にあたる地に一体の不動尊像を祀ったことを始まりとしている。
西本願寺屯所から不動堂村に移ったのは慶応3年(1867)6月15日のこととされている。そして大正時代に碓井小三郎によって記された京都の地誌・京都坊目誌(大正4年刊(1915))によると、不動堂村屯所は、「堀川の東、木津屋橋の南」とあるだけで正確な場所は不明とされてきた。先の説明板の敷地面積1万平方メートルを信用するならば、およそ100メートル四方になる。もし堀川の東(さらに醒ヶ井通の東)に存在したとすれば、南北方向は木津屋橋通から塩小路通まで、東西方向は現在の資生堂京都ビルから西洞院通まで位になる筈だ。nakaさんのブログ「よっぱ、酔っぱ」で、「又「此付近」か…。」と記しているように、西洞院塩小路の南西角のハトヤ瑞鳳閣に新たな石碑が建てられ、こちらは中村武生氏が下記の様な説明文を記している。
近藤勇の甥で隊士だった宮川信吉の書翰によれば、同年6月15日に入居しています。位置については、同書翰に「七条通り下ル」、幹部永倉新八の手記に「七条堀川下ル」とあり、当地付近に営まれたことは確実です。が、厳密な場所や規模、建物構造などについては信用に足る史料が少なく、不明です。価値の低い記録による復元・叙述は、極力さけなければなりません。
なかなか、日本語は難しいものだということを感じさせる説明である。わざわざ塩小路通下ルにあるハトヤ瑞鳳閣の説明文に「七条通り下ル」や「七条堀川下ル」と記す理由が、「価値の低い記録による復元・叙述は、極力さけなければなりません」の結果ということなのだろうか?
この石碑建立の記事は2009年10月のものであり、これ以前の2005年10月には、「新選組不動堂村屯所跡の新しい表示板建つ」を記している。そこでは、
以前はその名の由来となった「不動堂」が、その遺跡として、書物などにその写真が掲載されていました。しかし一昨年、近くのホテルが石碑を建立してから、そちらにお株を取られていました。もちろん、何ら根拠があっての建碑ではありません。
今回の解説板はそのいずれの場所ともちがうところです。
これで「新選組不動堂村屯所跡」を示すものは3つになりました。なかなかおもしろい現象です。
でもそろそろこの論争に決着をつけなきゃ。
としている。この“近くのホテルが石碑を建立”してからは、先の木村氏による2003年6月に建立されたリーガロイヤルホテル京都の石碑のことである。
これら3箇所の推定地の他に、nakaさんは先のブログで、ちびくまさんの「新選組 京都五年史」の中に掲載されている「不動堂屯所はどこか(http://www.geocities.jp/shirokumajapan1/shinsengumi/fudoudoumura.html : リンク先が無くなりました )」の推定地の可能性を指摘している。本光寺の項でも触れたように、堀川通の拡幅により、本来堀川通と油小路通の間に存在していた醒ヶ井通が失われている。もともと平安京には醒ヶ井通は存在していなかったが、豊臣秀吉による天正の地割で新設されている。また、明治時代以降の交通量の増大による道路拡幅や第二次世界大戦中に行われた建物疎開は町並みを大きく変えている。つまり注意しなければならないことは、平安京造営時代から同じだと信じている道路網が、必ずしも一致しない場所が多くなっているということは事実である。 ちびくまさんは、池田七三郎の談話に出てくる「醒ヶ井通り七条下る三丁目にあった屯営」を下記のように読み解いている。
屯所の位置としては、七条下がる三丁目とは七条通りから南に数えて三丁目という意味で、現在の通りでいうと、七条通りと下魚棚通り間が一丁目、下魚棚通りと木津屋橋通り間が二丁目、木津屋橋通りと塩小路通り間が三丁目、この三丁目の東側が現在の北不動堂町である。
また近藤の妾宅があったとされている七条醒ヶ井は、現在の七条堀川の交差点の近傍であったと思われるが、さらに踏み込んだ記述がなされている。
北不動堂町の六百六十六坪四勺の土地に、明治16年4月安寧小学校が移転、安寧小学校は大正15年12月18日に北西角の百四十二坪六勺を買収、その後堀川通りの拡張で現在の安寧小学校の場所へと移転している。
学校が大正15年に買収した北西角の御方紺屋町の土地百四十二坪六勺は、近藤勇妾宅があったところ(現在の安寧小学校の前の中央分離帯あたり)であり、前所有者が西本願寺執行の小田尊順であった。
以上の点と伊東甲子太郎暗殺時の帰路、待伏せ地点等から不動堂屯所の場所は現在の北不動堂町、田中工務店と資生堂ビルあたりに違いない。
日文研に所蔵されている京都市街全図には、大正2年(1913)当時の安寧小学校が“文”の記号で表記されている。そして、この地図は大正15年(1926)の拡張以前の状況である。やや気になる所は、大正2年の地図と現状を見比べると塩小路通の位置がやや北側に動いたように見える点である。いずれにしてもこの地域に敷地面積1万平方メートルの屯所を1敷地で確保することはかなり困難であることも見えてくる。
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