伏見稲荷大社 その3
伏見稲荷大社 その3(ふしみいなりたいしゃ) 2009年1月11日訪問
伏見稲荷大社 その2で秦大津父について記してきたが、この大津父より凡そ200年後の和同年間(708~715)に秦伊呂巨が稲荷山の三つの峯にそれぞれの神を祀ったのが伏見稲荷大社の始まりとされている。伏見稲荷大社の沿革にも、秦大津父から伊呂巨までの200年たらずの脈絡についてはほとんど不明とした上で。
しかし不明であるから全く関連はないとは言えないでしょう。深草の里が早くから開拓されて、人の住むところであったことは深草弥生遺跡に見ることができます。
としている。いずれにしても大津父と伊呂巨の関係は明らかになっていないようだが、両者ともに深草に居住していた秦氏族の一員であったことは確かなようだ。
秦氏の存在が再び歴史の中に現れてくるのは、皇極天皇2年(643)蘇我入鹿が聖徳太子の御子である山背大兄王を亡きものにしようと斑鳩を攻めた時である。当時、中大兄皇子、古人大兄皇子そして山背大兄王が皇位継承者として並び立っていた。蘇我氏の実権が蝦夷の息子の入鹿に移ると、より蘇我氏の意のままになると見られた古人大兄皇子の擁立を企てるようになる。入鹿は、その中継ぎとして皇極天皇元年(642)に皇極天皇を擁立している。天皇は推古天皇から一代おいて即位した女帝であり、中大兄皇子(第38代天智天皇)・間人皇女(第36代孝徳天皇の皇后)・大海人皇子(第40代天武天皇)の母でもある。そして皇位を譲った孝徳天皇の崩御後に、斉明天皇として重祚している。この譲位と重祚はどちらも史上初めてのことである。
この皇極天皇の即位によって、山背大兄王と蘇我氏の関係が悪化していく。ついに入鹿は王を襲撃する事態に至る。この時、生駒山に逃げ込んだ王の従臣たちは、深草屯倉に逃れ、ここから東国に至り再起を期すことを勧めたとされている。屯倉とは、ヤマト政権の支配制度の一つとして生まれ、朝廷および皇族の直轄領の倉庫を表した語として使われてきた。その運営は、在地の豪族に任され、深草屯倉の場合は秦氏族の勢力が行っていたと考えられている。大津父から伊呂巨に至る中間の時期にも、深草の地に秦氏族の存在が想像されるのは大変興味深い。
結局、山背大兄王は、
われ、兵を起して入鹿を伐たば、その勝たんこと定し。しかあれど一つの身のゆえによりて、百姓を傷りそこなわんことを欲りせじ。このゆえにわが一つの身をば入鹿に賜わん。
とし、生駒山を下り斑鳩寺に入り、妃妾など一族はもろともに自害し、上宮王家はここに絶えることとなる。
既に現存していない山城国風土記の逸文に伊奈利社条がある。ここには秦氏が伏見稲荷大社を祀る経緯が下記のように記されている。
秦中家忌寸達の先祖である伊侶巨秦公は稲を多く持ち富裕であったが、稲を舂いて作った餅を的にすると、その餅が白鳥となって稲荷山に飛翔して子を産み社となった。伊侶巨秦公の子孫は先祖の過ちを認め、その社の木を抜いて家に植え寿命長久を祈った。
ここには、餅を的とし矢で射るという食べ物を粗末にする行為を行う裕福な伊呂巨の姿が描かれている。「餅の的」の説話は山城国風土記の逸文のみではなく、豊後国風土記にも現れる。これは、富み栄えた者が食べ物を遊興に供したことにより家が没落する。そのようなことを教える説話にも見える。しかし白鳥となって飛び去った地が不毛となったが、後段の白鳥が舞い降りた地は豊かな地になったことを考えると、その地域毎の貧富の差を説明する説話となっている。伊呂巨あるいはその末裔達は、餅の的を悔いて稲荷社を建立したことによって没落を逃れ、むしろ繁栄を続けたとも考えられる。すなわち山城国風土記の逸文には、餅の的は決してネガティブな説話としては記されていない。
ところで伊呂巨が稲荷社を創建したとされている和銅4年(711)は、女帝の元明天皇の治世である。この時期の特筆すべき出来事としては、平城京遷都であろう。当時の都である藤原京から平城京への遷都は慶雲4年(707)に審議が始まり、和銅元年(708)には元明天皇により遷都の詔が出された。そして和銅3年(710)に遷都された。この時、左大臣石上麻呂は藤原京の管理者として残されたため、右大臣藤原不比等が事実上の最高権力者になった。これが藤原氏の繁栄の基礎が固めることとなり、最初の藤原氏の黄金時代を作り上げた。
この遷都の背景には疫病の流行による疲弊があったとみられる。和銅5年(712)の詔には、「諸国の役民が郷里に帰る日に食糧が尽き、帰路飢える者が多く、溝や谷に転落して埋もれて亡くなる者が少なくない。国司らは注意して民を慈しみ、適宜物を恵み与えるよう」指示している。
また慶雲5年(708)に武蔵国秩父郡から日本で初めて高純度の自然銅が産出し、郡司を通じて朝廷に献上された。元明天皇は同日「和銅」と改元し、和同開珎を鋳造させたとされている。
稲荷社神主家大西氏系図には、
秦公、賀茂建角身命二十四世賀茂県主、久治良ノ末子和銅4年2月壬午、稲荷明神鎮座ノ時禰宜トナル、天平神護元年8月8日卒
と記されている。秦伊呂巨が亡くなったとされる天平神護元年は西暦765年に当たる。
天正17年(1589)豊臣秀吉によって造営された楼門を潜ると、明応8年(1499)に再建された本殿が現れる。この本殿の右奥から千本鳥居が始まる。朱色の鳥居が密度高く並ぶ2本の道筋は、日常の空間とは思えない。緩やかに曲がりながら続く道を進むと奥社奉拝所が現れる。ここから三ツ辻までの間に、熊鷹社とその奥に広がる新池がある。今回は熊鷹社からさらに先に進み、三ツ辻から八島ヶ池に戻る。
「伏見稲荷大社 その3」 の地図
伏見稲荷大社 その3 のMarker List
No. | 名称 | 緯度 | 経度 |
---|---|---|---|
01 | ▼ 伏見稲荷大社 楼門 | 34.9671 | 135.7726 |
02 | ▼ 伏見稲荷大社 外拝殿 | 34.9671 | 135.7728 |
03 | ▼ 伏見稲荷大社 本殿 | 34.9671 | 135.7732 |
04 | ▼ 伏見稲荷大社 千本鳥居 | 34.9667 | 135.775 |
05 | 伏見稲荷大社 奥社 | 34.9664 | 135.7755 |
06 | ▼ 伏見稲荷大社 新池 | 34.9681 | 135.7787 |
07 | ▼ 伏見稲荷大社 熊鷹社 | 34.9683 | 135.7786 |
08 | ▼ 伏見稲荷大社 神田 | 34.9684 | 135.7748 |
09 | ▼ 伏見稲荷大社 八島ヶ池 | 34.9682 | 135.7742 |
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