天龍寺 宝厳院 その2
天龍寺 宝厳院(ほうごんいん)その2 2009年11月29日訪問
前回、宝厳院を訪れた時は、冬の夕暮れ時期であったため、光量の少ない写真しか撮影できなかった。特に亀山の東に広がる庭園は、日没も早い上に逆光になってしまう。そういう点でも天龍寺方丈庭園や宝厳院は午前中の早い時間に訪れるべき庭園だと思う。
前回も指摘した通り、宝厳院の変遷には明確でない点がある。Wikipediaに掲載されている宝厳院の記述に従うと、寛正2年(1461)室町幕府の管領細川頼之が夢窓疎石の法孫にあたる聖仲永光を開山に迎え創建する。そして現在の上京区に創建時の宝厳院があったとしている。しかし、細川頼之は元中9年(1392)に既に亡くなっているので、寛正2年(1461)に宝厳院を創建することはできない。
また京都観光Navi(http://everkyoto.web.fc2.com/sitemap2.html : リンク先が無くなりました )に掲載されている宝厳院には、聖仲永光禅師を開山に迎え創建。もとは上京区禅昌院町にあり、細川頼之の昭堂を寺としたとしている。 禅昌院町は裏千家今日庵の北側に接する町であり、本法寺、妙覚寺そして妙顕寺に囲まれた一画のことである。「京都の地名由来辞典」(東京堂出版 2005年刊)には、室町時代の禅僧景徐周麟の漢詩文集「翰林胡蘆集」に、禅昌院は細川政国の別荘を寺にしたものと記されている。細川政国は細川頼之から数えて5代目となる武将であり、細川典厩家の2代当主として、9歳で京兆家を継いだ細川政元の幼少時の後見役であった。なお政国は明応4年(1495)死去している。没後に寺院にあらためて禅昌院と称するようになり、それが現在の町名となっているとされているが、寛正2年(1461)に宝厳院が創建されたとすると、その後のこととなる。
確かに宝厳院の公式HPでは、
大亀山 宝厳院(だいきざん ほうごんいん)は、
臨済宗大本山天龍寺の塔頭寺院のひとつ。
寛正2年(1461年)室町幕府の管領であった
細川頼之公の財をもって、天龍寺開山夢窓国師より
三世の法孫にあたる聖仲永光禅師を開山に迎え
創建されました。
という表現に留まっている。ここには、細川頼之が生前に宝厳院を創建したか、またいずれの場所に建立したかも明記していない。そのため禅昌院と宝厳院の関係にも全く触れていない。
これらをまとめると、細川頼之が残した領地あるいは昭堂をもとにして、誰かが(幕府あるいは細川家か?)聖仲永光を開山に迎え宝厳院のもととなる寺院を創建したということになる。しかしこの時、上京区禅昌院か、あるいは天龍寺の山内に建てられたのか、また創建当時から宝厳院という寺名だったかもよく分からない。さらに付け加えると、細川政国の禅昌院は宝厳院の創建の歴史とは直接的には関係していないのかもしれない。このような多くの疑問が残る。
宝厳院の開創に関わったとされている細川頼之は、細川氏の本家京兆家の当主として、元徳元年(1329)三河額田郡細川郷(現在の岡崎市細川町)に細川頼春の嫡子として生まれる。阿波、讃岐、伊予など四国地方において南朝方と戦い、観応の擾乱では幕府方に属する。そして正平22年(1367)2代将軍足利義詮の死の直前、管領に就任する。就任当時11歳であった3代将軍足利義満を補佐し、官位の昇進、公家教養、将軍新邸である花の御所の造営など将軍権威の確立に関わる。頼之の施政は、政敵である斯波氏や山名氏との派閥抗争、寺院勢力の介入、南朝の反抗などで難航した。元中8年(1391)明徳の乱では幕府方として山名氏清と戦う。翌元中9年(1392)死去。享年64。
寛正2年(1461)の宝厳院創建からしばらくして応仁の乱(1467~77)が始まり、宝厳院も焼失している。天正年間(1573~85)豊臣秀吉により再建され、江戸時代は徳川幕府の外護により幕末まで守られてきたとされている。ただし天龍寺の塔頭の項で紹介したように、小林善仁氏の論文「近代初頭における天龍寺境内地の景観とその変化」には、天龍寺文書の嘉永3年(1850)「絵図目録」より作成した江戸時代末期の天龍寺の塔頭一覧が掲載されている。これによると、天龍寺境内には雲居庵を始めとした20塔頭、それから臨川寺とその8塔頭、鹿王院とその塔頭2。さらには宝篋院や西芳寺、地蔵院など10塔頭を加え42塔頭としている。この後、元治元年(1864)禁門の変が勃発し、天龍寺は薩摩軍の砲火により全山焼失してしまう。その後の復興についても既述の通りだが、いずれにしても明治20年(1887)頃までに行なわれた上地や塔頭の統廃合によって、禁門の変以前の天龍寺とは全く異なった姿になったことは事実である。
宝厳院は嘉永3年(1850)「絵図目録」に掲載されている天龍寺の42塔頭には含まれていない。この時点で天龍寺の山内にはなかったと考えるのが自然であろう。また禁門の変以降の変遷について詳細に触れている同じく小林善仁氏の論文「山城国葛野郡天龍寺の境内地処分と関係資料」にも宝厳院の記述は見られない。宝厳院は昭和47年(1972)より天龍寺塔頭の弘源寺境内にあったとされているため、この時に宝厳院が天龍寺の山内に初めて現れたと考えたほうが良いのかもしれない。 昭和51年(1976)に刊行された「古寺巡礼 京都 天龍寺」(淡交社 1976年刊)P116に掲載している「現在の天龍寺伽藍図」では、総門より西側の山内塔頭は妙智院、寿寧院、等観院、永明院、松巌寺、慈済院、弘源寺、宝厳院、三秀院の9院である。そして平成14年(2002)現在地に移転し再興されている。
宝厳院の現在地は、天龍寺塔頭妙智院の旧地であった。これは「山城国葛野郡天龍寺の境内地処分と関係資料」の12~13頁に掲載されている「図3. 天龍寺境内地の状況(明治8年夏~同9年春)」で確認できる。明治4年(1871)に第1次上地令が太政官布告第4号(太政官達第258号)が出た後、明治8年(1875)に第2次上地令として社寺境内外区画取調規則が発せられている。上記の図はこの第2次上地令の際にまとめられた「葛野郡下嵯峨村天龍寺境内再検査結果伺」を基に作成されている。
この「天龍寺境内地の状況」によると、現在の大堰川から法堂へ続く道の西側には北から松巌院、妙智院、多宝院そして三秀院が並んでいた。松巌院は明治10年(1877)に真乗院と南芳院に合併し、南芳院のあった地、すなわち現在の八幡宮の東側に移っている。元の松巌院の地には禅堂、晴耕館や天龍寺直営の精進料理店「篩月」などが建っている。明治9年(1877)に養清軒と合併した三秀院は、明治21年(1888)に兵庫県に移って行った招慶院の跡である総門の北側に移っている。この妙智院、多宝院そして三秀院のあたりは、宝厳院と小倉百人一首殿堂時雨殿と嵐亭になっている。
寛政11年(1799)に刊行された都林泉名勝図会に掲載されている図会には
妙智院 天龍寺塔頭
天龍寺塔頭 妙智院 林泉 策彦和尚所作
と記されている。画面中央には「しし岩」と記された伏せた獅子を思わせる巨石が置かれている。また、この図会には庭園の他に、遠景の嵐山とともに策彦和尚開山堂も描かれている。この開山堂の手前に広がる庭は、現在宝厳院に入るとすぐに現れる苦海と雲上の三尊石の庭に似ている様にも見える。獅子岩と嵐山との位置関係から境内の西側に開山堂があったと思われる。
寿寧院の住職が記した日短から禁門の変の戦火により、法堂・客殿・大小庫裡・書院・開山堂・侍真寮・土蔵・僧堂(雲居庵)・多宝院(聖廟)、塔頭の松岩院・妙智院・真乗院・永明院・三秀院が焼失し、伽藍の大部分を焼亡したことが分かる。この時に妙智院とその庭園は焼失している。そして「天龍寺境内地の状況」が描かれた後の明治10年(1877)に、妙智院は華蔵院と合併し総門の南側に移っている。小林氏の「近代初頭における天龍寺境内地の景観とその変化」の38頁に掲載されている「図3 天龍寺境内地と旧境内地」より、法堂の南側から大堰川に至る土地の大部分が畑地と藪地になっていたことが分かる。これは「天龍寺境内地の状況」の10年後の明治17年(1884)12月から翌18年10月までの状況を表したものである。
社団法人 全国社寺等屋根工事技術保存会がまとめた「平成19年度 京都市文化財建造物保存活用公開セミナー 報告書(http://shajiyane-japan.org/19seminar.pdf : リンク先が無くなりました )」によると、妙智院の跡地は大正期(1912~26)に日本郵船の専務を務めた林民雄が、別荘として整備している。林民雄は慶応元年(1865)土佐出身で、ペンシルベニア大学に学び、欧州各国を視察した後に帰国し、明治24年(1891)日本郵船に入社している。昭和11年(1936)71歳で死去ということはからも、大正年間に別荘としから昭和の初期までは所有していたのではないかと思われる。その後、所有者が転変し平成14年(2002)に宝厳院が移転してきている。現在に残されている建物は林が建設した別荘であるため、寺院としての印象が薄い。そして平成20年(2008)に新たな本堂が建立されている。
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