表千家と裏千家
表千家と裏千家(おもてせんけとうらせんけ) 2008/05/13訪問
百々橋の礎石が保存されている寺之内通小川の先には、表千家と裏千家が並ぶ。
元亀4年(1573)織田信長によって足利義昭が京都から追放され室町幕府が崩壊する。利休が信長の茶堂となった正確な時期は分からないが、天正元年(1573)頃には信長に仕えていたと考えられている。信長は茶の湯を嗜むだけではなく、茶の湯を政略的に利用した。特に茶器の蒐集に力を入れ、手柄を立てた家臣には恩賞として名物の茶器が与えられた。領国や禄など有限の資産ではなく、信長により無形の価値が茶器に付与された。これにより名器には一国一城と同等の価値付けがなされるようになった。
天正10年(1582)本能寺の変で信長が討たれ、豊臣秀吉の世となると、茶堂としての利休の役割も政治的なことが増える。この頃、利休は大徳寺門前に屋敷を構え、不審菴を設け、茶の湯活動の拠点とした。天正13年(1585)禁裏で行われた秀吉の関白就任記念茶会において、正親町天皇に茶を献上した秀吉の後見役を利休は務めた。この時期には既に利休の茶の湯は大成の域に達していたと考えられており、正親町天皇より利休居士号を下賜されたことと合わせて、天下一の宗匠としての地位を確立した。
天正15年(1586)秀吉の聚楽第が完成すると、葭屋町通り元誓願寺下ル町(現在の晴明神社の近隣)に屋敷をつくる。現在の表千家残月亭は、この聚楽屋敷にあった色付九間書院の茶室を写したものといわれている。天下統一をほぼ完了した秀吉は、その権勢を天下に知らしめるため、天正15年(1586)10月1日北野天満宮の境内で北野大茶湯を催す。利休は津田宗及、今井宗久らとともにこの茶会の茶頭を務めた。定御茶湯之事と題された七か条の触書が五条などに出された。この二条目に「茶湯執心の者は身分を問わない。茶道具を持つものは持参し、無い物は替わりになる物を持参して参加すること」と記したため、当日は京だけではなく大坂、堺、奈良からも大勢の人々が駆けつけ、1000人にも達したと言われている。
天正17年(1589)12月5日利休の寄進による大徳寺山門 金毛閣の修復が完成し、同8日に聚光院で父の50回忌の法要を営む。天正19年(1591)突然秀吉の勘気に触れ、2月13日堺への追放令が出される。堺で蟄居となった利休は、再び京へ呼び戻され切腹を命じられる。2月28日聚楽屋敷で切腹し果てた。死後、首は一条戻橋で梟首された。
利休の死罪の理由は定かではない。金毛閣の2階に自らの木造を設置し、その下を秀吉に通らせたとも言われているが、それだけが理由とは思えない。利休と秀吉の間には、茶の湯に対する考え方の違いが明らかに生じていた。しかしそれ以前に茶の湯を芸術の域に高めようとする者が、茶の湯を権力の象徴として取り扱おうとする者に対して幻滅を感じたのではないかと思う。おそらく天下統一を達成するための道具として茶の湯を利用されることに対しての嫌悪感を利休は抱いていただろう。おそらく利休は、秀吉にこれ以上ついていくことができないと感じていたと思う。
政治的には天下統一した秀吉も、茶の湯においては利休の下に位置することに不満を感じていたはずだ。利休の茶の湯はほぼ完成し、今後どのような関与をしても変わることがないという現実を知った時、どのように秀吉は感じただろう?おそらくこの権威を破壊し再び新しい茶の湯を構築しようと考えるだろう。北野大茶湯の茶頭を務めた津田宗及は同じ天正19年(1591)に亡くなり、今井宗久もこの時期には秀吉に重用されることがなかったことを考えると、秀吉にとって既存の権威を意図的に排除したようにも考えられる。
利休の死後、先妻の子である嫡男千道安と後妻の連れ子で娘婿でもある千少庵が残される。
道安は茶の湯の作為、手法において利休も一目置くほどの茶人であり、秀吉の茶頭八人衆にも数えられていた。秀吉の赦しがでた後、再び堺に戻り千家流の茶の湯をひろめた。慶長12年(1607)道安の死とともに堺千家の血筋は途絶える。
少庵は母が利休の後妻となったのを機に利休の養子となり千家に入り、利休とともに京において茶をひろめてきた。利休の死後、利休の高弟の会津若松の蒲生氏郷のもとに身を寄せることとなった。少庵の子である宗旦はこの時期、大徳寺で修行をしていた。
利休の切腹から3年がたち、豊臣秀吉の勘気も解けた文禄3年(1594)少庵は徳川家康、蒲生氏郷の連署状 少庵召出状を受け取り、京に戻ることを許される。京に戻った少庵は、環俗した宗旦とともに、現在の小川通の東に千家の再興を果す。没収されていた利休の茶器も宗旦の元に返され。宗旦は寛永10年(1633)頃に一畳半の茶室 不審菴を建てる。この床なしの一畳半は極限の空間であり、わび茶の到達した究極の姿でもあった。一畳半の茶室は既に利休も試みている。しかし秀吉に嫌われたため二畳敷に改めている。宗旦はそのような茶室を徳川の時代に改めて建て、不審菴と称し千家の茶の象徴としたのであろう。正保3年(1646)に隠居し、家督を三男の江岑に譲り不審菴を継がせた。江岑は宗旦と諮り、新たに三畳台目の不審菴を建てた。以後不審菴は表千家で受け継がれていくが、天明8年(1788)の大火と明治38年の火災で焼失している。現在の不審菴は大正2年(1913)に以前の姿に従い忠実に再建されたものである。
隠居した宗旦は屋敷の北に一畳台目の今日庵を建て四男の仙叟宗室を連れて移り住む。宗旦は承応2年(1653)に四畳半の茶室を新築し、再び隠居する。この茶室は又隠れるということから又隠となづけられる。後に屋敷を宗室に譲り、宗室が裏千家を興した。又隠もまた天明の大火で焼失する。現在の又隠は焼失後に再建されたものである。又隠は利休の聚楽屋敷に作られた四畳半の写しだとも言われている。宗旦は不審菴とともに又隠を作ることで利休の足跡を後世に残そうとしたのかもしれない。なお裏千家とは表千家との位置的な関係で名付けられている。
宗旦の次男 宗守は、はじめ塗師を志し吉文字屋に養子に入るが、のちに家業を女婿の中村八兵衛(初代宗哲)に譲り、武者小路小川の地に武者小路千家を興す。宗守は四国高松の松平家に茶堂として出仕した。茶室 官休庵は父宗旦と相談した際に名付けられたと伝わる。宗守の百年忌の時、大徳寺第390世眞巌宗乗和尚により書かれた頌から官休庵の名のいわれが伝わる。
「古人云官因老病休 翁者蓋因茶休也歟」
茶に専念するために官を辞めたのであろうと解釈されている。
こうして利休の死後、宗旦の元から3つの千家が生まれた。
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