桂の町並み
桂の町並み(かつらのまちなみ) 2009年12月20日訪問
地蔵寺・下桂から、京都府道142号沓掛西大路五条線を阪急嵐山線の桂駅を目指して進む。
右京区から分区して西京区が発足したのは、昭和51年(1976)10月のことだった。これは昭和44年(1969)より計画され、昭和51年(1976)入居が始まった洛西ニュータウンの誕生により右京区西側の地域の人口が急増したためである。この時、桂川以西の地区を西京区としたので、旧葛野郡の桂村、川岡村、松尾村と旧乙訓郡の大枝村、大原野村が区域に含まれることとなった。
葛野郡は、明治12年(1879)4月10日、郡区町村編制法に基づき太秦村に葛野郡役所を設置し誕生している。さらに明治22年(1889)の市町村制施行に伴い、徳大寺村、下桂村、千代原村、上桂村、上野村の5村が桂村となり、川岡村も、川島村、牛ヶ瀬村、下津林町、岡村が統合されて誕生している。
桂村の元の5村の地名は現在でも上桂○○町そして桂上野○○町というように表記されているものと、旧千代原村のように桂千代原町以外は異なった町名(桂乾町、桂艮町、桂坤町、桂南巽町)になった。旧徳大寺村は、桂徳大寺町、桂徳大寺北町、桂徳大寺東町、桂徳大寺南町以外の桂大縄町、桂後水町、桂清水町、桂畑ヶ田町そして右京区西京極徳大寺団子田町、西京極西団子田町等が元の村の範囲であった。すなわち桂川の対岸、現在の右京区の一部も含んだ村であったことが分かる。下桂村は下の字を取り、桂○○町となっている。このように旧桂村に限っても現在ではそれ以前の旧村の境が分かりづらい表記になっている。大まかには、北西に上桂村と北東に上野村があり、上桂村の南に千代原村そして上野村の南に徳大寺村があった。下桂村は北に徳大寺村、西に千代原村、南に牛ヶ瀬村に接していた。今回、阪急電鉄桂駅から桂離宮を一周して戻ったが、ほぼ下桂村に含まれていた地域でもある。
「日本歴史地名大系第27巻 京都市の地名」(平凡社 初版第4刷1993年刊)によると、桂の名は古地名の「葛野(かつらの)」からくると言われ、平安時代初期に成立した「上宮聖徳太子伝補闕記」には「山代楓野村」と記され、桂には公家の別荘が営まれるようになる。また、歌枕として詠まれる桂里は近世の下桂村の地にあったと考えられている。平安時代中期以降に現れてくる荘名の上桂、桂東、桂西、桂南は、後の下桂に対する位置関係を示しているしている。
「京羽二重織留大全」(新修 京都叢書 第6巻 京羽二重 京羽二重織留大全(光彩社 1968年刊))に、以下のように江戸初期の下桂村と上桂村の規模が記されている。
下桂村 東の入口迄一里十四町
東西六町二十間外にかつら川あり 南北十二町半
家敷百二軒
石高千百三十一石余 堂上方御領
上桂村 一里二十二町五十五間
桂川迄一里十三町四十間あり
かつら川の幅一町十間あり
東西七町四十間 南北九町八間
家敷五十八間(軒)外に四ヶ寺 寺有
石高八百四十四石二斗六升余
内九十四石余
同七百五十石余 堂上方領
「京羽二重」は、水雲堂狐松子によって貞享2年(1685)に刊行された地誌であるが、これに漏れた伏見大津等を加えて元禄2年(1689)に発行した書が「京羽二重織留」となる。さらに宝暦4年(1754)に「京羽二重織留大全」と題し、諸役人諸職業者を改訂して出版している。
下桂村の堂上方御領とは全て京極家すなわち桂宮家領であったことを意味している。八条宮智仁親王から桂宮淑子内親王までの八条宮・常盤井宮・京極宮・桂宮の歴史については、八条ヶ池 その2で書いたので、そちらをご参照下さい。
桂には朝廷に鮎等の川魚を貢進した御厨、すなわち桂御厨が存在していたが、特定の領地と云うよりは供御人のような人身的な支配があったようだ。供御人とは朝廷に属し天皇や皇族などに山海の特産物などの食料や各種手工芸品などを貢納した集団のことである。桂川では平安前期より鵜飼漁法が行われ、桂御厨は山城の河川の全てと丹波や近江に渡る範囲を飼場とし自由な通行が許されていたようだ。そのため桂川の渡船業一般にも従事していたとも考えられている。
この桂御厨以外にも桂殿、上桂庄、桂東庄、桂西庄、下桂庄、桂新免、桂南庄と呼ばれた荘園が多数存在したようだ。
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