徘徊の旅の中で巡り合った名所や史跡などの「場所」を文書と写真と地図を使って保存するブログ

梅宮大社



梅宮大社(うめみやたいしゃ) 2009年12月20日訪問

画像
梅宮大社 楼門

 梅宮大社は西梅津村が東梅津村に接する辺りにある。「延喜式」神名帳の葛野郡二十座の内、「梅宮坐神 並名大。月次 新嘗」とあり、酒解神、大若子神、小若子神、酒解子神の四神を祀る。相殿の祭神は橘諸兄の孫の橘清友、その子の嘉智子すなわち嵯峨天皇皇后の檀林皇后、嵯峨天皇、その子の仁明天皇の四柱。旧官幣中社。

画像
梅宮大社 一之鳥居
画像
梅宮大社 二ノ鳥居

 平安時代末期に成立した古辞書「伊呂波字類抄」によると、梅宮大社は檀林皇后が橘氏の氏神を円堤寺に祀ったことを起源としている。初代橘氏長者である橘諸兄を始めとするならば、橘氏の家系図は諸兄、奈良麻呂、清友そして嘉智子と連なる。嘉智子は世に類の無いほどの麗人であり、橘氏の中で唯一皇后まで上り詰めた女性である。もともと嵯峨天皇の数多い夫人の中の一人であったが、桓武天皇皇女の高津内親王が嵯峨天皇の妃を廃された後、姻戚関係にある藤原冬嗣らの後押しで立后している。姻戚関係と言っても藤原冬嗣夫人の藤原美都子の弟の藤原三守が檀林皇后の姉にあたる橘安子と結婚をしている、つまり妻の弟の結婚相手の家筋というかなり遠いものではあった。
 京都府井手町に円堤寺が創建されたのは、天平12年(740)5月10日聖武天皇が橘諸兄の相楽別業に臨み、二泊三日の宴を開いたという「続日本紀」の記事が基となっている。諸兄は母の一周忌に因み円堤寺創建に着手し、落慶供養を行ったと考えられている。「伊呂波字類抄」(風間書房 1965年刊)には、譜牒男巻下に云うとして、上記の檀林皇后が氏神を円堤寺に祀った後に、以下のように付されている。

此神始犬養大夫人所祭神也 大夫人子藤原太后及乙牟漏女王祭於洛隅内頭
其後遷祭於相楽郡堤山

画像
梅宮大社 拝殿
画像
梅宮大社 本殿と拝殿

 檀林皇后の祀った神とは、始めに橘諸兄の母の県犬養宿禰三千代が祀り、次いでその子の光明皇后、そして乙牟漏女王が「洛隅内頭」に祀った神である。その後に「相楽郡堤山」に遷祭したとされている。「京都府埋蔵文化財情報 第116号」(京都府埋蔵文化財調査研究センター 2011年刊)に掲載されている伊野近富氏の「恭仁京造営史(下)」によれば、乙牟漏女王が亡くなった天平18年(746)正月から恭仁京の隅の内のほとり、具体的には右京東南隅の馬場南遺跡、すなわち現在の京都府木津川市木津天神山のあたりと推定されている。上記の文の最後にある相楽郡堤山へ移したとは、諸兄の創建した円堤寺の近辺に遷座したことである。 この円堤寺が梅宮社の神宮寺になったようだが、江戸時代には円堤寺も梅宮社も既に衰退したようで「山城名跡巡行志」(新修 京都叢書 第10巻 山城名跡巡行志 京町鑑(光彩社 1968年刊))にも以下のように記されている。

円堤寺 跡有当村谷口

 また「都名所図絵拾遺」(新修 京都叢書 第12巻 都名所図絵拾遺(光彩社 1968年刊))にも井堤寺旧跡として扱われている。

画像
梅宮大社 本殿
画像
梅宮大社
画像
梅宮大社

 「伊呂波字類抄」の梅宮には以下のような記述が続く。

此神為仁明天皇成祟出御卜 復託宣宮人云
我今天子外家神也 我不得国家大弊是何縁哉云云
天皇畏之欲盛立神社准諸大社 毎年令祟壮
太后不肯曰 神道遠而人道近 吾豈得与先帝外家齊乎
天皇固請之 太后曰 但恐為国家成祟 仍近移祭於葛野川頭
太后自幸拝祭焉 今梅宮祭是也

 仁明天皇は嵯峨天皇の第二皇子で母は檀林皇后である。その在位は天長10年(833)から嘉祥3年(850)までであるので、「伊呂波字類抄」に従うならば、この間に梅津に梅宮大社が移されたこととなる。なお梅宮大社の公式HPに掲載されている御由緒では、犬養大夫人が最初に氏神を祀ったのは山城国相楽郡井出庄であり、天平宝字年間(757~765)に乙牟漏女王が奈良の都すなわち恭仁京の東南隅に移したとしている。再び木津川の上流の鹿背山に移した後、檀林皇后によって梅津に祀られている。確かに「伊呂波字類抄」には、犬養大夫人が祭祀した場所を書いていない。そのため乙牟漏女王が祀ったのと同じ場所であったようにも読める。しかし犬養大夫人の過した時代だけでも、近江宮、飛鳥浄御原宮、藤原京そして平城京と都は移っている点を考慮しなければならないだろう。むしろ井手には犬養大夫人によって梅宮社が造られ、その子の諸兄が神宮寺として円堤寺を建立したと考えるほうが自然かもしれない。

画像
梅宮大社 百度石
画像
梅宮大社
画像
梅宮大社

 社紀によれば、檀林皇后には皇子がなかったので皇后は酒解二神に祈ったところ、感応が現れた。梅宮社の清砂を御座の下に敷きその上に皇子が生まれた。天皇は神恵を追い嘉祥年間(848~51)に橘清友を以って酒解社に檀林皇后を酒解子社に祀っている。又、瓊々杵命と火々出見命を若子二社に配され、四坐とし橘氏の祖廟としている。上記のような由来より子授け・安産の神として信仰されるようになる。神域の奥、本殿の横に、またぐと子宝に恵まれるといわれる2個の丸い「またげ石」がある。不妊の婦人がまたぐと懐胎するといわれている。
 祭神の酒解神は、日本全国の山を管理する大山祇神である。酒解子神は酒解神の御子神で、木花咲耶姫命。大若子神は木花咲耶姫命の夫となる瓊々杵命であり、小若子神は木花咲耶姫命と瓊々杵命の間に生まれた火々出見命である。これは若宮大社の公式HPに掲載されている御祭神を見ると明らかなように、橘清友と檀林皇后そして嵯峨天皇と仁明天皇の関係と一致することが分かる。また瓊々杵命は天孫降臨の神でもあるので天津神の系譜であり、国津神である木花咲耶姫命を檀林皇后に見立てているのは橘氏の正統性を示すものとも思える。

画像
梅宮大社橋本経亮宅址

「梅宮大社」 の地図





梅宮大社 のMarker List

No.名称緯度経度
 梅宮大社 本殿 35.0041135.6948
01  梅宮大社 一之鳥居 35.0028135.6948
02  梅宮大社 二之鳥居 35.0034135.6948
03  梅宮大社 橋本経亮宅址 35.0028135.6948
04  梅宮大社 楼門 35.0037135.6948
05  梅宮大社 拝殿 35.0039135.6948
06   梅宮大社 若宮社 35.0041135.695
07  梅宮大社 東神苑 35.0038135.6957
08   梅宮大社 北神苑 35.0044135.6952
09  梅宮大社 西神苑 35.0046135.6946

「梅宮大社」 の記事

「梅宮大社」 に関連する記事

「梅宮大社」 周辺のスポット

    

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

 

サイト ナビゲーション

過去の記事

投稿カレンダー

2014年3月
 12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
31  

カテゴリー