徘徊の旅の中で巡り合った名所や史跡などの「場所」を文書と写真と地図を使って保存するブログ

慶光天皇廬山寺陵 その5



慶光天皇廬山寺陵(けいこうてんのう ろざんじりょう)その5 2010年1月17日訪問

画像
慶光天皇廬山寺陵

 慶光天皇廬山寺陵 その4では、尊号一件の目的とするところとその始まり、そして松平定信の老中筆頭への昇格と関白鷹司輔平との交渉の経緯を書いてきた。ここでは朝廷側から申し入れられた“小一条院に準じる待遇”に対する幕府の拒絶から結末までの交渉を見て行く。
 寛政3年(1791)4月22日、京の鷹司輔平より再度の照会依頼が定信に送られてきた。長和6年(1017)に藤原道長の圧力によって自ら皇太子の身位を辞退した第67代三条天皇の第一皇子の敦明親王に小一条院の尊号を前例とし、閑院宮典仁親王への尊号贈与の正当性を訴える内容であった。幕府は6月3日、関白宛へ「小一条院之御儀、古典などにあらくうかゞひ候のみにて、如何の御模様と申候儀も、恐察候様仕候」と返答し、尊号の贈与を拒絶した。ただし、事態の収束を図るため、閑院宮家に一代に限り千石の更なる加増を行い都合三千石とした。
 これまでの朝幕間の交渉に於いて、松平定信は一存で決することなく同僚と評議を重ね、更に尾張・水戸の両家にも関白との往復書簡を示し意見を求めるという細心の手筈で対応しきた。定信は当初より、この事案が大御所問題に密接に繋がって行くことを確信し、尊号一件に関しては幕府の総意を以って応えたという結果を残そうとしていたのである。

 当時、関白にあった鷹司輔平は鷹司家の嫡子ではなく、閑院宮直仁親王の第四皇子であった。つまり第三皇子であった典仁親王の異母弟、光格天皇の叔父にあたる人物であった。藤田覚氏は「天皇の歴史06巻 江戸時代の天皇」(講談社 2011年刊)の中で、輔平と直仁親王との関係を説明した上で、「その鷹司輔平が、尊号宣下に反対した真意はよくわからない。」としている。また徳富蘇峰は近世日本国民史 第24 松平定信時代(民友社 1940年刊)で以下のように記している。

鷹司輔平の此の事件に対する態度が、自から自余の公卿と異なるものがあり、その事なる所以は、定信より吹き込まれた為めであらうと、想像せらるゝからである。

 つまり輔平は幕府との交渉において、この様な申し出が承認される可能性が全くないことを知っていたからとしている。
 鷹司輔平は寛政3年(1791)8月20日に関白職を辞している。同日に関白に就任したのは一条輝良であった。既に輔平は同年正月、そして2月にも辞職を申し出ていたので、この8月に関白辞任がやっと認められたこととなる。輔平は天明7年(1787)3月1日に九条尚実より関白を引継いだため、その任期は4年余に及んでいた。当時の平均的な関白の在任期間が凡そ8年とされているので、それに比べれば短命であった。この関白の交代を徳富蘇峰は、「輔平の辞職は、未だ必ずしも、尊号問題の為めではなかつたであらう。されど尊号問題が、彼の進退に関係あるは、云ふ迄もない。」と表現している。尊号贈与を得られなかったための更迭ではなかったものの、輔平にとって関白に留まることが困難な立場となったことは確かであろう。ともかく鷹司輔平の辞職により、重石が外れたかの如く尊号一件は急速に展開して行く。

画像
京都御苑 閑院宮邸
画像
京都御苑 閑院宮邸

 先ず、久我信通が寛政3年(1791)11月23日に武家伝奏を辞している。その後任として正親町公明が同年12月25日に武家伝奏に就いている。信通は、12月に光格天皇が41名の公卿に下した「太宰帥親王尊王宣下あるべき哉」との勅問に賛否を表明しなかった人物である。それだけに消極的な対幕府交渉者と目されていたのであろう。なおこの勅問に信通と同じく保留したのは冷泉為章中納言と庭田重嗣中納言の2名、そして不可を婉曲に表明したのは前関白鷹司輔平と左大臣鷹司政煕父子の2名であった。京にあっては光格天皇が推進する尊号宣下が圧倒的な勢いを持っていたことが分かる。

画像
廬山寺墓地 雲水ノ井跡 2014年10月8日撮影

 定信は、武家伝奏・議奏衆を相招き尋問黜陟し不忠の者を退けるという尊号一件に関する処分案を9月28日付で再び将軍に伺いとして上げている。そして10月朔日付で正親町前大納言、中山前大納言、広橋前大納言の召喚を伝えた。10月2日、これに前後するように京都側では所司代に10月上旬には閑院宮に宣下の内意を伝え、11月上旬には宣下を実行する旨を伝えている。堀田相模守は江戸よりの返答がないので受け取れないと上記の申し出を返上している。その上で、所司代は京の逼迫した状況を江戸に告げている。これは4日後の10月6日には松平定信を筆頭とする老中連に伝わっている。
 幕府による三卿召喚の申入れは10月4日に京に届くと、同日朝廷の評議が行われ、尊号宣下の御取り止め、新嘗祭御親祭の御中止、三卿下向の不認可が決する。この後、朝廷と幕府間の交渉が続き、中山前大納言と正親町前大納言の下向出立は寛政5年(1793)正月26日となった。その後の江戸での詰問と両卿及びその他の堂上に対する最終的な処分、そして明治17年(1884)に行われた尊号贈与については、再び慶光天皇廬山寺陵を訪れた時に記すこととする。

画像
慶光天皇廬山寺陵 2014年10月8日撮影

「慶光天皇廬山寺陵 その5」 の地図





慶光天皇廬山寺陵 その5 のMarker List

No.名称緯度経度
01 ▼ 廬山寺墓地 35.0245135.7687
02 ▼ 廬山寺墓地 鎔宮墓 ・寿萬宮墓 35.0245135.7687
03 ▼ 廬山寺 御土居 35.0244135.7689
04 ▼ 廬山寺 薬医門 35.0244135.7677
049 ▼ 廬山寺 廬山寺陵 35.0247135.7687
05 ▼ 廬山寺 山門 35.0245135.7676
06 ▼ 廬山寺 大師堂 35.0245135.768
07 ▼ 廬山寺 本堂 35.0245135.7683
08 ▼ 廬山寺 源氏庭 35.0244135.7683

「慶光天皇廬山寺陵 その5」 の記事

「慶光天皇廬山寺陵 その5」 に関連する記事

「慶光天皇廬山寺陵 その5」 周辺のスポット

    

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

 

サイト ナビゲーション

過去の記事

投稿カレンダー

2016年11月
月 火 水 木 金 土 日
 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
282930  

カテゴリー