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療病院碑



療病院碑(りょうびょういんひ) 2009年12月10日訪問

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療病院碑

 鴨川の西岸にあるみそそぎ川の取水口と思われる場所を確認した後、鴨川公園から京都府立医科大学付属病院の敷地を横断して河原町通に出る。その途中の旧附属図書館棟の前に療病院碑が建つ。
 療病院については石田孝喜氏の「続・京都史跡辞典」(新人物往来社 2006年刊)に詳細な記述があるので、これを参考にまとめてみる。幕末維新時には200年間に及んだ和蘭医学が未だ主流であった。佐賀藩出身、佐倉順天堂で佐藤泰然、そして長崎精得館でオランダ人医師ボードインにより医学を学んだ相良知安は、文部省医務局長など歴任し、明治初期の医療行政において強引にドイツ医学の採用を推し進めた。また越前藩出身で坪井信良、坪井芳州、佐藤泰然の養子尚中等に医学を学び長崎でポンペに師事し、後にボードインより医学を伝習された岩佐純も明治2年(1869)医学校創立取調御用掛となり、相良と共に医学教育制度の範をドイツにとることを力説し、明治3年(1870)2月15日、外務卿澤宣嘉とドイツ公使フォン・ブラントとの間で医学者招聘の交渉を成立させる。これにより日本医学はドイツに範を求めることとなる。カルテをドイツ語で記述するのは、この明治初年の医療行政の変更に依っている。

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療病院碑

 東京奠都により沈滞した京都に再び繁栄を取り戻すため、参事槇村正直は京都府顧問の山本覚馬と府少属の明石博高とで、多くの新規事業を立ち上げた。その中で、聖徳太子が悲田院、施薬院、療病院を創立した故事に倣い、欧風設備を完備した大病院設立構想があった。
 明治4年(1871)10月府令を以って療病院の設立を公示し、翌月10日に明石を療病院掛に任命している。そして創立事務所を河原町二条上ルの高田派別院に置き、建設基金は民間からの浄財に求めることとした。外国教師をドイツから招聘することとし、12月に大阪のドイツ人商会カール・レーマンに依頼した。この時交渉に当ったのは種痘館医員総長で京都府出仕の前田利匡であった。
 レーマンが選んだドイツ人医師は、ドイツ生まれで英国籍となり海軍軍医あがりのヨンケル(Junker von Langegg)であった。明治5年(1872)9月8日に入京し、木屋町二条下ル19番路地行当たりを公舎とする。この木屋町二条下ル19番路地とは現在の御池通の位置にあたる。第二次世界大戦時の防火帯を作るために行った建物疎開によって、現在のような道幅になった。つまり戦前は左右8車線のような大通りでなかった。行当りとは、路地の先に広がる鴨川沿いの敷地という意味であろう。石田氏の「続・京都史跡辞典」には、明治初年以来の上樵木町付近変遷図と昭和十九年疎開後の上樵木町付近見取図が所収されている。ヨンケル公舎木屋町療病院は、かがえ楼を経て水明楼になっている。また疎開後の図には、「木屋町療病院址碑(将来の都市計画を慮り碑は南西す)」と記されている。鴨川に掛る御池大橋が計画されていたためである。
この地には現在、昭和29年(1954)に建立された療病院址 の碑がある。 明治5年(1872)9月15日からヨンケルの公舎あるいはその近くで開業した療病院は、翌日より日本人医師24名が交代で世話を行っている。これが療病院の始まりとなる。ヨンケルの診療は、日曜日休館で毎10時より開始。診察料は金一円では、診察3度を以って限りとしていた。また金二円では往診を行っていたようだ。木屋町仮療病院の期間短く、明治5年(1872)10月24日に終了している。同年11月より粟田口の青蓮院に仮療病院を移している。青蓮院での開業は11月1日で、当日に開業式が執り行われている。この粟田口の仮療病院は明治13年(1880)7月17日まで続き、病人の入院治療から人体解剖まで、そして医学生の育成までを行っている。

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療病院碑

 2代目のオランダ人医師マンスヘルト(C.G van Mansvelt)は医学教育の系統化に努力し、又、療病院長設置の必要性を勧告した。初代病院長には半井澄が就任する。3代目はドイツ人医師ショイベ(Heinrich Botho Scheube)で、診療研究に熱心、脚気病、寄生虫学に大きな業績を残した。この3人の外国人医師は、療病院に近代医学を導入し、病院の発展と医学教育に多大の貢献を果たした。明治12年(1879)4月16日には医学校も併設され、初代校長に萩原三圭が就任し、以後半井澄、猪子止戈之助、加門桂太郎、島村俊一と続く。療病院碑の建つ地、すなわち元日光宮里坊と二条、正親町の旧邸を合わせた土地(療病院敷地8451坪、医学校敷地693坪、合わせて9144坪)に、6年に及ぶ工事で新築された講堂を中心とした平屋建西洋館に移転したのは明治13年(1880)7月18日のことであった。
 明治32年(1899)京都帝国医科大学が設立されるや優秀な人材が転出し、一時存亡の危機に陥ったが、第5代島村俊一校長は医学校部の改築改良を竣功し、京都府立医科大学に昇格する基礎を固めた。

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療病院碑

「療病院碑」 の地図


大きな地図



療病院碑 のMarker List

No. 名称 緯度 経度
 療病院碑 35.0232 135.7696
01   療病院碑 木屋町 35.0111 135.771
02   療病院碑 青蓮院 35.0073 135.7832

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