師範桜碑
師範桜碑(しはんさくらひ) 2010年1月17日訪問
出雲路橋の西詰北側の公園の一角に出雲路鞍馬口の石碑が建つ。この地はかつて、出雲より都に来た人々が多く住む集落があったため出雲郷と呼ばれていた。賀茂川の西岸に現在でも出雲路を冠する町名が残る。出雲路は洛北にあって鞍馬に至る鞍馬街道の出発点でもあり、出雲路橋を東に渡り下鴨村の集落から北に進む。さらに上賀茂、深泥池、幡枝、市原、二瀬を経由して鞍馬に至る道が鞍馬街道とされていた。すなわち出雲路は平安京の東北に位置したため、鞍馬方面からの物資の入口でもあった。時代が下り豊臣秀吉によって都市再整備の一環として御土居が建設される。出雲路には鞍馬口が設けられたと推測される。このようにして出雲郷の中でも鞍馬口が交通の要所となったことで、出雲路鞍馬口の碑がこの地に建てられるに至った。
この項では出雲路鞍馬口の碑の表側に建てられた師範桜碑のことにつて書いてみる。やや茶色をした自然石の道路側には、草仮名で志波無桜碑とある。現地では師範桜碑と読めなかったので、写真撮影を行って通り過ぎ去ってしまった。この碑は明治38年(1905)に京都府師範学校教職員生徒が建立している。賀茂川側には以下のような碑文が刻まれている。
甲辰之歳征露役起戦連両
年我武維揚因植桜楓数千
株於鳧堤以為記念亦以寓
育英之意焉耳
明治卅八年乙巳冬十一
京都府師範黌職生員建
京都府師範学校とは京都府に設置された教員を養成するための学校である。この学校については既に明治天皇行幸所京都府尋常中学校阯 その2で、京都府高等女学校と京都府立尋常中学校と共に既に書いている。ここでは繰り返しになってしまうが創設から小山町への移転までの略歴を再び記す。
明治 7年(1874) 6月 下立売釜座の小学校取締所内に小学校教員講習所を設置
明治 8年(1875) 2月 下立売釜座の京都府中学校内に教員仮講習所を設置
明治10年(1877) 6月 京都府師範学校が京都御苑石薬師御門内、准后里御殿を
仮校舎として開校
明治13年(1880)12月 下立売釜座の新校舎に移転
明治16年(1883) 2月 附属小学校を開設
明治20年(1887) 1月 京都府女学校師範科を移管、京都府師範学校女子部とする
校舎は上京区土手町丸太町下ル駒之町の九条邸跡
明治21年(1888) 4月 師範学校令に準拠し京都府尋常師範学校と改称
本科は修業年限4年、入学資格16歳以上
明治21年(1888) 7月 女子部が上京区寺町荒神口上ルの旧知事邸に移転
明治22年(1889) 4月 男子部が上京区第二二番組荒神口松蔭町の旧尋常中学校
校舎に移転
明治24年(1891) 9月 男子部校地に女子部も移転
明治32年(1899) 4月 師範教育令に準拠し京都府師範学校と改称
本科は修業年限4年、入学資格男子16歳以上・女子15歳以上
明治33年(1900) 4月 愛宕郡上賀茂村字小山(現・京都市北区小山南大野町)に
新築移転
京都府立尋常中学校にあった小学校取締所内に、明治7年(1874)学校教員講習所が設置された。これが京都府師範学校の始まりとされている。最初は二条城北側の旧京都所司代屋敷にあったが、明治10年(1877)6月、京都府師範学校として京都御苑石薬師御門内の准后里御殿を仮校舎として開校している。明治13年(1880)12月には下立売釜座、すなわち京都守護職屋敷に建てられた新校舎に移転している。
明治20年(1887)1月、京都府女学校師範科を移管、京都府師範学校女子部としている。この時の校舎は上京区土手町丸太町下ル駒之町の九条邸跡とあるので、新英学級及女紅場として始まった京都府高等女学校と同居している。翌21年(1888)7月には、女子部が上京区寺町荒神口上ルの旧知事邸に移転する。これは現在の鴨沂高等学校のグランドかその北側あたりになる。さらに明治22年(1889)4月、男子部も上京区第二二番組荒神口松蔭町の旧尋常中学校校舎に移転してきている。尋常中学校は既に明治21年(1888)4月に上京区新町通出水上ルに移転している。そして明治24年(1891) 9月には女子部も男子部の校地に移っている。明治32年(1899)4月に京都府師範学校に改称し、翌33年(1900)4月に愛宕郡上賀茂村字小山(現・京都市北区小山南大野町)へ転出している。
京都府高等女学校と京都府立尋常中学校と同じく創設期のこれらの学校は実に多くの移転を繰り返している。その上転出後に新たな学校が転入してくることも多く、時代を追って調べていかないとその時代にどの学校がその地に存在したかを明らかにすることができない。学校建築は事務所建築など異なり、教室として多くの個室を用意しなければならない。そのため他の用途の建物の中に入居することが困難である。こういう理由からも学校の後に学校が入ってきたのであろう。
師範桜碑に話を戻す。この石碑が建てられた明治38年(1905)の8月10日には日露講和会議が開催されている。前年の2月8日から始まった戦争が終結した年である。碑文中の「辰之歳」とは明治37年(1904)の開戦の年で、「征露役」は日露戦争のことである。以下の碑文には、「日本軍は連戦連勝した。そこで桜や楓数千株を賀茂川の堤に植えてその記念とする。あわせて優秀な生徒を育てる教育者を生み出すという本学の熱意もこめるものである。」ということらしい。上記のように明治33年(1900)に新町通紫明上ルの京都市北区小山南大野町に移転してきている。それから5年後に紫明通の東端の賀茂川の堤防に桜を植えたこととなる。
フィールド・ミュージアム京都の記述によると、「京都教育大学教育学部附属京都小学校百周年記念誌」にはこの明治38年の植樹についての記述があるようだ。明治38(1905)6月に日露戦勝を記念し賀茂川葵橋より御園橋に至る両岸の堤防に桜楓を植えることが職員会議で発議されている。この年の5月27日から29日にかけて行われた日本海海戦において日本は勝利を収めている。6月9日にセオドア・ルーズベルト大統領が日露両国へ講和の勧告を行い。12日にはロシアが講和勧告を正式に受諾している。恐らくこのあたりの交渉のニュースを確かめながら職員会議が行われたのであろう。そして教職員、生徒、児童などの醵金と作業の実施により,同年11月22日に桜樹2279本と楓樹735本の植付けを完了している。12月2日に桜楓樹植栽植付完了記念式が挙行された。師範桜碑はその植樹事業を記念するものである。
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