光照院門跡
光照院門跡(こうしょういんもんぜき)2010年1月17日訪問
高松伸設計の織陣Ⅲの斜め前に持明院仙洞御所跡の石碑が建つ。1998年と比較的新しい碑の建立者は光照院門跡 田中澄俊と恵聖院門主 中島真栄となっている。持明院仙洞御所については後ほど記すとし、先ずは現在存在している光照院門跡の歴史について書いてみる。
光照院門跡は浄土宗知恩院派の門跡寺院で常盤御所と称する。開山は後伏見天皇の皇女進子内親王で、光厳天皇・光明天皇の妹宮にあたる。寺伝によれば、宮は建武2年(1335)に生まれたとされている。父である後伏見上皇が崩御されたのが建武3年(1336)とされているので、その前年にあたる。
伏見天皇に替わり後伏見天皇が即位したのは永仁6年(1298)で11歳の時である。この譲位によって持明院統が2代続けることとなり、勢力を巻き返しつつあった大覚寺統や鎌倉幕府の圧力を受けることとなった。そこで正安3年(1301)大覚寺統の後宇多上皇の第一皇子の後二条天皇への譲位を行っている。新たに上皇となった後伏見院は、未だ14歳で自らの皇子はなかった。そのため次の皇太子には異母弟の富仁親王がなった。しかし徳治3年(1308)後二条天皇が急死し、花園天皇が即位することになる。父である伏見上皇が出家して院政を停止したのが正和2年(1313)であったため、後伏見上皇の院政はこの時から始まった。
文保2年(1318)在位10年で花園天皇は大覚寺統の後醍醐天皇に譲位した。その皇太子には、やはり大覚寺統で後二条天皇の皇子である邦良親王がなり、後伏見上皇の皇子・量仁親王はその次の皇太子となることが決められた。しかし嘉暦元年(1326)に邦良親王が病死し、鎌倉幕府の裁定で量仁親王が皇太子に立った。後醍醐天皇は譲位に応じず元弘元年(1331)幕府に反旗を翻し笠置山(現京都府相楽郡笠置町内)に籠城するが捕らえられ隠岐島に流されている。所謂、元弘の乱である。幕府は後醍醐天皇が京から出た時点で後醍醐天皇を廃位し、同年9月20日に皇太子・量仁親王を即位させ光厳天皇とした。これにより後伏見上皇は再び院政を行うこととなる。
元弘3年(1333)足利尊氏が後醍醐天皇に呼応して京都の六波羅探題を襲撃すると、光厳天皇・花園上皇とともに鎌倉幕府を頼り東国に逃れようとした。しかし後伏見、花園の両上皇と光厳天皇は捕らえられ、京都に連れ戻されている。光厳天皇は廃位され、後伏見上皇は出家剃髪となり、3年後の延元元年(1336)4月6日に崩御されている。
このように進子内親王が誕生した頃、後醍醐天皇による建武の新政が始まり、持明院統は一時的に政権から排除された。しかし建武新政の破綻は思った以上に早く巡ってきた。鎌倉幕府を倒幕した足利尊氏と新田義貞の確執が深まり、互いに相手の誅伐を求めて天皇に奏上する事態が生じる。建武3年(1336)2月、尊氏は義貞に敗れて九州に落ち延びたが、光厳院から義貞追討の院宣を獲得して盛り返し、同年5月に湊川の戦いにおいて楠木正成ら宮方を撃破し、再度の入京を果たす。延元元年(1336)8月15日、尊氏は光厳上皇の弟光明天皇を即位させ北朝が成立する。後伏見上皇が崩御してから4ヵ月後のことである。
再び話を進子内親王に戻す。親王は幼少より仏門に入ることを決意し、10歳になるまでの数年を播磨路の各地の仏刹で修行を続けられていた。そして22歳の時に泉涌寺の無人如導によって落飾され、名前も自本覚公と改めている。延文元年(1356)室町一条北に一宇を興したのが光照院の起りと伝えられている。その後、33歳の時には天台、禅、律、浄土の四宗の奥義を究め、光照院を四宗兼学の寺としている。自本覚公尼は応永30年(1423)に入寂している。
自本覚公尼の後、足利将軍家や近衛家の息女たちが入寺してきたが、17世紀初期に後陽成天皇の皇女が入寺してからは、皇女が住持となる比丘尼御所となった。
寺は応仁の乱で焼失し文明9年(1477)頃に後土御門天皇から安楽小路に寺地を賜わっている。つまり現在の光照院の地は、北朝の拠点となった持明院殿の跡地でもある。そのため一時安楽光院と称した事もあった。寛永14年(1637)に成立した洛中洛外図屏風にも光明院御所と記されている。
江戸時代前期から中期にかけて仏教復興の兆しが現れ、尼門跡の住持たちは自らの寺院の歴史を編纂し開山の事跡を発掘するという作業に情熱を注いでいた。後西天皇の皇女、大規尊杲尼もその一人で、開基自本覚公尼の伝記を著わし、彫像を造立している。このような業績により大規尼は光照院の中興とされている。当時、大規尼が臨済宗に熱意を注いでいたことから、禅的な流儀で儀式は行われていた。
大規尼が入寂したのは享保4年(1719)の事であったが、その10年後の享保15年(1730)西陣で大火が発生し、光照院も被害を受けている。宝暦2年(1752)中御門天皇の皇女・大猷尊乗尼の時に、桜町天皇の御殿の建材を使用して大規模な修復がなされている。また天明8年(1788)の天明の大火で再び焼失した際にも、翌年光格天皇より再建の下賜金を賜っている。この時、光格天皇より常盤御所の御所号を授かっている。
寛政元年(1789)に尊乗尼が入寂した後は、皇女の入寺が絶え、光照院は無住のまま明治時代を迎えることとなった。さらに皇女の入寺が廃され、明治6年(1873)に浄土宗知恩院派に改められ、それまで留守居職を務めていた万里小路皎堂が住職に任ぜられた。明治の初めに府立病院を新設するための寄付で、宸殿と書院を失っている。そのため、大正8年(1919)京都御苑内の旧桂宮御殿の一部が移築され、宸殿や住居の中心部が再建され、さらに昭和天皇の即位大典のために建てられた建物も移築され、現在の常盤会館となった。本堂である宸殿は、昭和43年(1968)山中次郎が寄進したもので、禅堂風の入母屋造り、本瓦葺、軒唐破風を付け、内部は折上格天井とし、装飾模様が配された優美な仏堂。本尊釈迦如来立像は鎌倉時代作で、中尊として左右脇壇に阿弥陀如来像と開山自本覚公を安置する。書院前庭には見事な五葉の松を配した枯山水の庭園がある。
開山の宮が花の道に堪能であったので、代々の宮も花の道に通じ、ついに光照院を家元とする華道常磐未生流が大正12年(1923)に成立している。
寺宝も数多く有し、宮中から賜わった人形や調度品など優れたものが多い。中でもお誕生人形は、第十世亀宮の生誕されたときの産室の飾り付けを、人形を配して再現しているもので他に類例を見ないものでもある。
なお恵聖院は浄土宗の寺院で、宝鏡寺門跡が兼務する大慈院の付属寺院であったがが、現在は光照院門跡内にある。一院両号で瑞華院ともよばれるが、住職が広橋家の時は恵聖院と称し、日野家の時は瑞華院と称したという。
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