泉妙院 その2
泉妙院(せんみょういん)その2 2010年1月17日訪問
2019年最初のエントリーは、正月に相応しい国宝「紅白梅図屏風」の作者・尾形光琳になりました。
泉妙院では、尾形家の来歴から光琳が画家への道を歩み始める契機について、さらに門前に建立された 尾形光琳 尾形家一族 乾山菩提所の石碑を手掛かりに、建立者の三越が明治後期から行ってきた尾形光琳に対する顕彰活動について見て来た。この項では白崎秀雄の「尾形光琳取材ノート」を元にして、光琳が生存していた頃の三越との関係を調べてみる。
雑誌「日本美術工芸」に「尾形光琳取材ノートより」と題された一連の掲載が始まったのは、1973年8月のことであった。毎月、尾形光琳に関する事柄をほぼ時系列に沿って一つ一つ取り上げる形式で連載が続いた。「光琳「中町薮内町」屋敷」から始まり1974年12月号の「光琳の末裔」で終わっている。計17回の連載が終了してから4年後の1978年に「稀世の天才尾形光琳」(講談社 1978年刊)を出版しているので、副題の通り同書を執筆するための調査であったのであろう。この「尾形光琳取材ノートより」には第1回の「光琳「中町薮内町」屋敷」の他にも第7回で「光琳新町二条下ル町屋敷」を取り上げ、光琳の作品とそれを制作したアトリエの環境についての関係性についても述べている。興味深いテーマであるが、このことに関しては上御霊神社近くにある尾形光琳宅蹟を訪問した時に残しておく。
一方、白崎は後編の第16回で生前の尾形光琳と三井家の関係について記している。昭和40年(1965)に日本経済新聞社が出版した「光琳」(日本経済新聞社 1965年刊)に所収されている千沢楨治の「光琳の人と芸術」より下記の一文を引用している。
『三井八郎右衛門と光琳が同伴して、賀茂の葵祭の見物に出かけた際に夕立にあった。八郎右衛門は急いで茶屋にかけこんで雨宿りをしたが、光琳は老の身をいたわって、金紗の羽織をはおったまま、平然とその後をゆったり追った』という話も、この新旧商人の生活感情を物語っていよう。
上記は三越呉服店と光琳の関わりを表す唯一の挿話と白崎が述べているように、他に光琳と三越の接点を記した史料は見つからないようだ。さらに千沢に典拠を請うたが、三井文庫所蔵の文献という答え以上のものを得られなかった。ちなみに1978年に発刊された「稀世の天才尾形光琳」の最終章「光琳をめぐる逸話」で、再びこの挿話を用いているがやはり明確な典拠を示していないことからも、この時点でも見つかっていなかったのであろう。
その典拠は別として、白崎は挿話に現れる“三井八郎右衛門”を特定しようとしている。八郎右衛門は三井一門の統轄者の職名であったため、一個人の実名ではない。開祖である三井高利は元和8年(1622)に生まれ、元禄7年(1694)に73歳で没している。高利は光琳より36歳も年長であるため挿話の年齢関係にはそぐわないし、その生涯で八郎右衛門を名乗る事も無かった。光琳と年代的に近いのは高利の息子達である。承応2年(1653)生まれの長男の高平が高利の跡を継いだ後、やはり承応3年(1654)生まれの二男・高富が二代、そして明暦3年(1657)生まれの三男・高治が三代目の八郎右衛門を襲名している。万治元年(1658)生まれの光琳と比較して、三人いずれも年齢は近いものの年長となる。白崎は上記三名のなかで一番年少の三井高治を挿話の三代八郎右衛門と見做している。寛文12年(1672)16歳になった高治は生まれ育った伊勢松阪より江戸に出て商売の修業を始めている。父高利と兄達が江戸本町で三井越後屋を開業するのが延宝元年(1673)であったのでその前年にあたる。そして翌延宝2年(1674)には高治も事業に加わっている。しばらく江戸本店で呉服の商売を行い、天和期(1681~84)以降京に自らの仕事の場を移している。室町通蛸薬師町に居住した高治は、この後呉服生地の買い付けや両替業、幕府御用筋の業務などに携わっていった。
宝永4年(1707)、高治に幕府の御為替御用を務めることが許可されている。そして宝永6年(1709)の兄高富の死去により、三井八郎右衞門の名前を引き継いで三井家の家長となった。その後、享保元年(1716)に宗印と号し享保6年(1721)には隠居している。白崎が高治を挿話の八郎右衛門と見做す根拠は、この宝永6年から享保元年までの7年余の期間が光琳の晩年と一致しているためである。
京都における三井家の最初の拠点を築いたのは高治達の父・高利である。室町通蛸薬師東側北寄りの地に、高利自身が京都に上った際に使用した最初の店が存在した。経営が軌道に乗ると共に、この借家だけでは手狭となり、延宝4年(1676)に南寄りに仕入れ店を移している。貞亨3年(1686)には新町六角下ルに京都両替店を設けたが、元禄4年(1691)再び室町通蛸薬師西側に家屋を買い、南寄りと西側の両店を京本店と総称している。それでも手狭になり、宝永元年(1704)に室町通二条上ル冷泉町西側に家屋敷を購入し移転している。以来江戸期はこの冷泉町において三井家の京本店が存続し、明治以降も三越京都支店として使われてきた。昭和58年(1983)に閉店すると、三井不動産によって三井越後屋京本店記念庭園に改められ、三井京都創業の地として保存伝承されることとなった。
再び話を生前の光琳と三越の関係に戻す。「尾形光琳取材ノート」の著者・白崎秀雄は晩年の尾形光琳と葵祭を見物した三井八郎右衛門を開祖・三井高利の三男にあたる高治であると推測し、さらに当時の越後屋と光琳との関係について考えている。光琳の実家は前述のように、後水尾天皇の妃である東福門院和子より注文受ける呉服商の雁金屋であった。しかし東福門院に依存し過ぎたため、延宝6年(1678)の東福門院崩御後、その屋台は次第に傾いていく。光琳の父である宗謙は蓄えた富を元手に金融業にも手を伸ばしたが、家業の好転には繋がらなかった。むしろ後の光琳・乾山が困窮する基を作ることとなった。貞享4年(1687)に宗謙が没すると、呉服商の家業は長男の藤三郎が継承し、金融業で得た手形は光琳と弟の乾山に与えられた。家業を守るために長男に一家の財を集中させる当時の慣習からすれば、かなり異例な財産分与であった。宗謙の財産を分与されたのは光琳30歳の時であった。それ以降派手な生活をしてきた上、大名家の経済状態の悪化により貸金からの利子を得ることも出来なくなったことも、確実に光琳の家計を逼迫させていった。相続した財産が回収不能の空手形と化していく中、手元にあったものを売り払いまがら生活してきた光琳であったが、元禄6年(1693)頃には既にかなり悪化し、画業によって生活せざるを得ない状況に陥っていたようだ。
そのような状況にあった光琳が絵師として法橋に叙せられたのは元禄14年(1701)のことであった。宝永元年(1704)に江戸に下った光琳は、以後5年間、京に一時的に戻ることはあっても、主として江戸で暮らしている。この行動は全く経済的に行き詰まり江戸に新天地を求めたのかも知れない。深川の豪商・冬木喜平治の居に身を寄せ妻女のための衣裳の絵を描いたりしている。そして宝永4年(1707)には大名の酒井家より十人扶持を与えられるなど、生活のための金を得る目的で制作活動を行ってきた。宝永6年(1709)頃、52歳となった光琳は再び京に戻り、正徳元年(1711)には新町通二条下ルに屋敷を設けて制作に励むようになる。恐らく光琳が三井八郎右衛門と葵祭見物に出掛けたのは、この頃から没年となった享保元年(1716)までの間であっただろう。
家業であった雁金屋は父・宗謙の没後に長男に渡ったため、光琳自らが呉服商として絵を描くことはなかった。しかし白崎秀雄は「稀世の天才尾形光琳」の中で、若き日の光琳が東福門院の衣裳の文様を描いていたと断定している。東福門院が崩御した年に既に21歳となっていた光琳が、その才能を知る宗謙から任されていても確かに不自然ではない。ただし同氏の推測の根拠となっているものは、東福門院に対する光琳が抱いた恩顧や後水尾院への崇敬でしかないため、新たな発見がない以上は実証することはできないだろう。
光琳にとって自らの生活の糧を得る手段が画業に定まったのは、相続をした数年後の30代前半であったとされている。そして44歳となった元禄14年(1701)の法橋に叙せられている。現存する光琳の完成画の多くがこの後に制作されている。画業専念の決意からの10年間が光琳にとっての絵師光琳の準備期間であったことが分る。
根津美術館に収蔵されている国宝「燕子花図屏風」は40代前半の作品と目されている。伊勢物語の第九段「八橋」の場面を金地に群青と緑青の燕子花の群生が律動的に配することで表現している。ここでは主題でもある橋を描かずに、燕子花だけの構成に纏めたことがより印象を高めている。対してメトロポリタン美術館の「八ツ橋図屏風」は50代前半の作品と考えられている。「燕子花図屏風」と同じく「八橋」の場面を描いたものであるが、燕子花の群生の中に橋を配している。燕子花の表現もより自然な曲線を用いていることから橋の直線性がより引き立っている。
東京国立博物館の重要文化財「風神雷神図屏風」は、俵屋宗達の国宝「風神雷神図屏風」を忠実に模して描いた作品である。単なる模写に終わらせなかったのには、光琳が導きいれた独自性にある。先ず本来実在しないモノの描写をより装飾的にすることによって、風神と雷神の擬人化を図っている。光琳の絵に何故か優しく温和な雰囲気を感じるのは、この違いによっている。また、この2神を左上と右下の対極に配するのは同じだが、視線を交合わせることによってより二極化を強調させている。光琳の「風神雷神図屏風」の制作時期は明らかになっていないが、下記の国宝「紅白梅図屏風」よりは先行する作品と考えられている。
光琳が晩年に手がけた代表作・国宝「紅白梅図屏風」は琳派芸術の到達点でもある。左右に配された二本の梅樹の間を画面上部から下部へと末広がりに広がる水流は、上記の「風神雷神図屏風」の対極性をさらに深めた構成となっている。輪郭と花弁のみの単純化された梅花の表現、樹幹の写実性も対極化を深める表現手法になっているように思われる。渦巻を図案化したS字に屈曲した水流は光琳波と呼ばれる。近年の研究では型紙を使用して描かれたとされている。
光琳の画業は上記のような芸術作品のみに収まらず、香包、扇面、団扇、小袖、蒔絵から水墨画までに及んでいる。そして、これ等が全て光琳の作品であることを感じさせる統一性を保持していることが特筆に価する。例えば島原の遊女や豪商の妻子の求めに応じ、白地の小袖に絵を描いた図案が光琳文様として後世に継承されている。屏風絵の中の装飾文様の一つが独立したデザインとして光琳の名を冠して残ったということである。
白崎秀雄は、三井高治と光琳を一般的謂われるパトロンと芸術家の関係ではなかったと考えている。むしろ上流階級の美術工芸品を制作していた光琳の意匠=デザインを大衆路線に展開するために関係を持とうしていたと推測している。光琳文様の普及には光琳の没後に完成した友禅染によるところが大きかった。高治は光琳を高級志向の呉服商としてではなく、優れた意匠家として認めた上で光琳文様を江戸という大きな消費地で販売できるような商品に仕上げることを考えていたのであろう。秀でたデザインとその工業製品による商品化は1900年代頃のアールヌーボーやアールデコで脚光を浴びるが、光琳文様の小袖に注目した三井高治はそれより100年近く早くに大衆普及の方法に気が付いていたのであろう。
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