白峯神宮 その6
白峯神宮(しらみねじんぐう)その6 2010年1月17日訪問
白峯神宮 その5では、崇徳天皇の怨霊伝説の始まりから鎮魂のための崇徳廟の造営について見て来た。この項では、応仁の乱で失われた崇徳院廟がどこに所在していたかについて考えてみる。
元暦元年(1184)4月15日に遷宮、鴨川の氾濫によって嘉禎3年(1237)に遷座した崇徳院廟はどこに所在していたか?崇徳院廟が創建された確かな場所は未だ特定出来ていないようだ。碓井小三郎は「京都坊目誌 上京 坤」(「新修 京都叢書 第15巻 京都坊目誌 上京 坤」(光彩社 1968年刊))で崇徳院粟田宮ノ址について以下のように記述している。
〇崇徳院粟田宮ノ址 本町の中央。丸太町通を挟んで北。聖護院町字中河原に至り其址也。古へ白河南殿より四丈の道路を隔て東にあり。方四十丈の地也。史に春日の末とある是也。元暦元年四月十五日。寿永三年四月十四日改元。元暦元年となる後白河上皇。先皇讃岐院崇徳天皇の為に社殿を造営し。神霊を鎮祭し、藤原頼長源為義を配祀せらる。建久四年八月十五日祭祀を始む。初め白河北殿の地にして。保元戦場の所也。嘉禎三年四月二十七日。鴨川の水害を避けて。其当方の地に遷宮する。承元々年正月十七日ノ夜社殿炎上す。翌十八日火消滅し。尋て造営ありしが。建武元年七月七日兵火に罹り。文和三年再造営の事あり。其後坊舎荒廃す。応永八年僧良観之を再興し。幕府より所領地を附す。其後沿革を詳にせず。社務始め卜部氏にして僧官は天台に属し青蓮院の支配也。今粟田口町。粟田神社末社天満宮。相殿に崇徳天皇を祭るは此縁由なり。后ち年月不詳真言に属し。光明院安井別当と為る。宮荒廃の末。安井に移す。或云元禄八年なりと。下巻廿二参看
碓井は崇徳院粟田宮を東丸太町の中央で丸太町通の北、「聖護院町字中河原に至り其址也」と記している。因みに白河北殿を「本町(東丸太町)西南方の地に方る」とし、崇徳院御影堂ノ址を下記のように記している。
○崇徳院御影堂ノ址 今詳ならず。古へ粟田宮敷地にあり。今字西畑にある。帝国大学医院内に崇徳帝宝物塚と称するものあり。粟田宮に縁由あらん。猶後勘すべし。
崇徳院御影堂の位置は分らなくなっているが、かつては粟田宮内にあったとしている。その上で明治から大正にかけては京都大学医学部病院内に崇徳帝宝物塚と呼ばれるものが存在していたことを記している。なお碓井は字西畑の条で「明治三十二年京都帝国大学医科教室及付属病院の敷地となる。中に崇徳天皇装束塚と呼べる。一堆の小丘あり。元金戒光明寺所有地中にあり。上に小祠ありて稲荷を祭る。今大学より保存せらる。」とも記している。つまり宝物塚の他にも装束塚が御影堂址に存在し、粟田宮に縁由があると思われるもののはっきりしたことは分らないということであろう。
昭和の時代に新たな地誌を纏めた竹村俊則は、その著書「昭和京都名所圖會 2洛東 下」(駸々堂出版 1981年刊)で崇徳院粟田宮址を「丸太町通より北、現在京都大学医学部付属病院の敷地になっている聖護院川原町とつたえる。」と記している。先人である碓井小三郎の説を踏襲していると見てよいだろう。ただしこの場所は嘉禎3年(1237)に「東方の地(聖護院川原町)」に移した後のものであり、創建時は白河北殿の旧地にあったとしている。竹村は白河北殿址を「熊野神社より西、川端通(鴨川畔)に至る丸太町通を挟んだ南北一帯の地」で方四町の地を占めていたと考えている。この記述に従えば、嘉禎3年は旧地の東方ではなく北方への移設になるように思える。
なお竹村は、この旧址に人喰い地蔵と呼ばれる石仏があったが明治32年(1899)の京都大学医学部付属病院の建設によって聖護院の積善院に移され現在に至ったと同書で述べている。この人喰い地蔵は碓井の「京都坊目誌」に見られないが、花洛名所図会の粟田社旧址に見ることができる。図会には「今その旧地の字をヒトクヰといふ 土人崇徳院をあやまり唱ふるや 石の地蔵ありて俗に人喰地蔵といふ」と記されているので、江戸時代末期よりこの地蔵は存在し、なおかつ崇徳院と結び付けられていたことが分る。
碓井小三郎や竹村俊則より前の地誌でも粟田宮あるいは崇徳院廟に関連する記述を多く見ることができる。その中でも北村季吟の著わした「菟芸泥赴」(新修 京都叢書 第5巻 菟芸泥赴 京城勝覧 洛陽十二社霊験記(光彩社 1968年刊))の聖護院森の条に下記のように記されている。
○聖護院森 岡崎の戌亥新黒谷の西四町有聖護院の宮の御領地なれば此名あるなるべし寛文の頃其在所の北に宮の御殿も出来たり 森中社 熊野権現
一此森の邊地 熊野社より十間ばかり西をほりて河の彦四郎土をあきなへりた土中九尺ばかり下に石廓有其門に太刀の形の一物と八角の鏡あり寛文年中の事とて愚案盛衰土記にいはく崇徳院の御社は春日の末白河の東にあり遷宮は後鳥羽院の元暦元年四月十五日権大納言兼雅奉行す御廓の御正体は兵衛の局のもたる御遺物の八角鏡なりと云々中畧注此春日といふは今の丸太町の通なればニ條より三町北の方彼森のほど也是彼崇徳院の御社絶て程ふる御あとをほりゐてし其御正体なりけらし
「菟芸泥赴」の云うことでは、江戸時代初期の寛文年間(1661~73)に熊野神社の十間(約18メートル)ばかり西側を掘っていたら九尺(約2.7メートル)下から石廓が出て、中から太刀の形をした物と八角形の鏡が見つかった。これを元暦元年(1184)4月15日に遷宮した崇徳院廟の遺構であったと考えている。現在の熊野神社の境内はかなり狭小であるが、当時の熊野神社のすぐ隣に崇徳院廟址が存在していたことになる。ただし掘り当てたものが崇徳院廟の遺構であったならば、元暦元年のもではなく嘉禎3年(1237)に移設した後のものであろう。
その他にも「近畿歴覧記」(「新修 京都叢書 第3巻 近畿歴覧記 雍州府志」(光彩社 1968年刊))には崇徳院廟が、
森ノ内ニ両社アリ、一社ハ熊野権現ナリ、聖護院ノ領所ナレハ、理リ也、今一社ハ、崇徳院ノ廟ト云ヘリ、古ヘ大炊ノ御門ノ東ニ、天皇ノ廟ヲ建テ尊二崇スト之ヲ一聞ユ、然ルトキハ此所符合セリ
「山城名勝志」(「新修 京都叢書 第8巻 山城名勝志 坤」(光彩社 1968年刊))には粟田宮、崇徳院御影堂が、
○粟田宮 與二崇徳院御影堂一同所也委見二千下一
○崇徳院御影堂 旧地在二鴨川東聖護院森西北車道南一也土人ヒトクイト云崇徳院ヲ唱ヘ誤ニヤ歴代編年集成云新院白河御所今崇徳院也云云
「山城名跡巡行志」(新修 京都叢書 第10巻 山城名跡巡行志 京町鑑)(光彩社 1968年刊))には崇徳院ノ社が、
●崇徳院ノ社 盛衰記ニ云元暦元年四月十五日子ノ時 崇徳院ノ遷宮アリ春日末ノ北河原ノ東也此所大炊殿ノ跡畧出旧跡在二森ノ西北一町余ニ一土人云二崇徳田ヒトクヒダト一
● 宇治左府ノ廟 同記ニ同キ東ノ方ニ在ト 又古記此社地ヲ云二上粟田ト一
「山州名跡志」(「新修 京都叢書 第18巻 山州名跡志 乾」(光彩社 1967年刊))には崇徳院社が、
●崇徳院ノ社 ●宇治左府廟左大臣頼長 古ヘ有リ二此両社一、其ノ地社ノ西北一町余ノ所ナリ。今云フ崇徳田ト一此ノ地洛陽春日通今丸太町東北ニ中ル治承二年ノ正月。建礼門院懐胎ノ御悩ニ。悪霊出ル其ノ中讃岐院ノ御霊ヲ神子明王ノ縛ニ懸テ顕ス。是ノ故ニ崇徳天皇ト追号ヲ授ケ玉ヘリ平家物語巻三
「雍州府志」(「新修 京都叢書 第3巻 近畿歴覧記 雍州府志」(光彩社 1968年刊))には崇徳田、崇徳天皇廟が、
●崇徳田 在二近衛河原東北一古大炊通東建二 崇徳天皇社一祭レ之云按大炊通今椹木町乎此田称二崇徳一昔社之所レ有乎惜哉
●崇徳天皇ノ社 旧記建二崇徳天皇社於大炊通東一慰二尊霊一云今大炊通東聖護院杜西北田畝民間有下称二崇徳一之処上古在二斯地一也必矣嗚呼惜哉
「名所都鳥」(「新修 京都叢書 第9巻 名所都鳥 堀川の水 都名所車 京内まいり」(光彩社 1968年刊))にも崇徳田が、
○崇徳田 愛宕郡
近衛河原の東北に有。いにしへ大炊通の東に崇徳天皇の社をたてたる跡也。
「扶桑京華志」(「新修 京都叢書 第2巻 扶桑京華志 日次紀事 山城名所寺社物語 都花月名所」(光彩社 1967年刊))には崇徳帝社が、
崇徳帝社 建社大炊東今聖護院西北有下称二崇徳一処上乃斯地歟
これら地誌に残された粟田宮址や崇徳廟址、それにまつわると考えられている塚や地蔵などが白河北殿からその北方にかけて存在してきた。これに対して建築史家の福山敏男は「日本の美術 129 中世の神社建築」(至文堂 1977年刊)で、碓井小三郎の「京都坊目誌」を始めとする過去の地誌に捕らわれずに粟田宮の推測している。福山は熊野神社の西、東丸太町と東竹屋町の中部あたりを嘉禎3年以降の粟田宮の地と推定している。具体的には「旧市電丸太町新道停留所の南側付近」と記している。丸太町新道停留所は市電丸太町線の熊野神社前停留所と川端丸太町停留所の中間にあったのだから、現在の京都大学熊野寮の西で、丸太町通の南側ということになるだろう。さらに福山は創建当時の粟田宮を春日河原とも大炊御門河原ともいわれる位置で春日末の南、大炊御門末の北、「嘉禎移転地の西一町ないし二町ほどの所に当たったはずである」としている。1町109メートルなので、福山考える旧地は、現在の京都丸太町川端郵便局あたりと、かなり鴨川あるいは川端通に近接していたこととなる。また、現在考えられている白河北殿の範囲(京都市遺跡地図提供システム)外でもある。 建築史家の浜崎一志氏は日本建築学会論文「粟田宮の旧地について」(日本建築学会大会学術講演梗概集 1987年)で、竹村俊則を含めた近世地誌に見られる記述と福山敏男の上記の説を地図上にプロットして確認している。この両者の比定地には南北で350メートル程度の相違が現れている。その上で浜崎氏はこの2つの中間に位置する現在の天理教河原町大教会辺りを粟田宮の旧地としている。「嘉禎の遷座は粟田宮の敷地内を移動して程度」であり、「創建当初も嘉禎の遷座後も、春日末の北、中御門末の南で、鴨川の堤防と、本来の河岸であった高岸のあいだの後背低地」にあったと考えている。崇徳院廟と人喰地蔵の旧地比定については、洛中洛外 虫の眼 探訪さんの洛中探索 人喰い地蔵に詳しく記述されているので是非ご参照下さい。
最後に頼長廟について触れておく。崇徳廟の東側には頼長廟も造営されている。鳥居は無く外部は築地塀を巡らせ門が作られていた。竹村俊則は「昭和京都名所圖會」で左府(左大臣)藤原頼長の塚は熊野神社の西南、東竹屋町東部にあったと記している。現在で云うならば京都大学熊野寮の東南隅あたりに位置するようだ。この熊野寮の北西隅には京都市教育会の建立した白河北殿址の碑が残されている。頼長の塚が桜塚と呼ばれるのは左府の塚が訛ったものと云われる。塚の上には小さい五輪石塔と桜の木、そして稲荷神を祀った小祠があった。しかし明治20年(1887)に絹糸紡績会社の敷地拡張に伴い、石塔は相国寺の総墓地に移され、藤原頼長墓副碑が絹絲紡績株式会社によって建てられた。副碑では以下の様に述べている。
頃会社有増築之事以故準允発掘地中無一物乃卜此攸運搬其土新築墳塋安塔完修更行法儀以慰其霊因建石誌其事冀永以無毀損
「会社を増築することになり、塚を発掘したが何も出なかった。掘った土と塔を相国寺に運び新たに塚と塔を安置する場所を確保し,法事を行った次第である。永く破損されずに残されることを願うのみである」という意味らしいが、碓井小三郎の「京都坊目誌」には全く異なったことが記されていた。
○桜塚ノ址 東竹屋町の東。畑地五十八番地にあり。伝て左大臣頼長の墓と云ふ。元暦造立の廟壇の跡歟世誤て左府塚を桜塚と呼ぶ。往時塚上に桜樹あり。下に稲荷の小祠あり。根廻り凡六間高さ五尺の封土也。明治二十年絹糸紡績会社。創設に際し社地に入る。其後社業発展の結果。敷地狭隘の名を籍り。無情にも之を発き。地を夷ぐ。塚の下に石棺の如きものを発見す。会社は之を相国寺境内に移す。古蹟保存は終に金力の為に犯さる。事業の発達は慶すへきも。史蹟を失ふは亦歎ずへき也。
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