文書と写真・地図による「記憶」の再現

大村益次郎卿遭難碑



大村益次郎卿遭難碑(おおむらますじろうきょうそうなんひ) 2008/05/15訪問

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大村益次郎卿遭難碑

 三条小橋の東橋詰の「佐久間象山・大村益次郎遭難碑北へ約一町」の道標に従い、木屋町通を進むと象山先生遭難碑の左脇に大村益次郎卿遭難碑が建つ。木屋町通から高瀬川を隔てた対岸、すなわち高瀬川の西岸の高台にある。高瀬川沿いには桜の木が植えられているので、桜の開花時期から新緑の季節に訪れると碑が隠れていて見えないかもしれない。前から象山先生遭難碑も含めて碑の近くに出る経路がないか対岸から探してみているが、どうも通行の許されるものは、無いらいしい。そのためこの2つの碑は木屋町通の歩道から眺めるものであるらしい。

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大村益次郎卿遭難碑 三条小橋東詰に建つ道標

 広瀬は儒学者であり、教育者、そして漢詩人でもあった。文化2年(1805年)豊後国日田郡堀田村に全寮制の私塾・咸宜園を創設している。「咸宜」とは「みなよろし」の意味で、武士だけに限定せず、男女を問わず受け入れていた。そのため咸宜園の入門者は約4900人に及び、江戸時代において日本最大級の私塾であった。咸宜園では四書五経のほかにも、数学や天文学・医学のような様々な学問分野にわたる講義が行われた。
 益次郎は弘化3年(1846)大坂に出て、緒方洪庵の適塾で入る。長崎での1年間遊学後には適塾の塾頭まで進む。嘉永3年(1850)父・孝益に請われて帰郷し、村医となる。この頃より村田良庵と名乗る。司馬遼太郎の花神でも、益次郎の村医時代は散々であったように書かれている。技術はともかく患者とのコミュニケーションが不得手な医者であったようだ。

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大村益次郎卿遭難碑 左に大村益次郎卿遭難碑 右に象山先生遭難碑

 嘉永6年(1853)浦賀にペリー艦隊が来航すると共に、蘭学者の知識が求められる時代が始まる。益次郎も伊予宇和島藩の要請を受け故郷を後にする。村田蔵六と改め、宇和島藩で西洋兵学・蘭学の講義と翻訳を手掛ける。さらに軍艦製造の依頼を受け、安政元年(1854)から2年間に長崎で軍艦製造の研究を行う。宇和島藩に戻り安政2年(1855)蒸気機関を持つ軍艦を建造し、宇和島九島において進水式を行う。伊達宗城という賢候が推進したと謂えども宇和島藩のような小藩が薩摩藩とともに自前の技術力で蒸気船を作り上げたのは驚嘆に値するでき事であった。
 安政3年(1856)藩主・宗城の参勤交代と共に、江戸に出る。麹町に私塾鳩居堂を開く一方、幕府蕃書調所教授手伝となる。翌4年(1857)には幕府の講武所の教授となる。万延元年(1860)には長州藩の要請により江戸在住のまま藩士となる。この時期の益次郎は、江戸を中心として宇和島や萩の間を巡っている。

 文久3年(1863)萩へ帰国する。西洋学兵学教授となり、西洋学所・博習堂で講義を行う。長州藩では元治元年(1864)の第一次長州征伐の終戦後、幕府へ恭順し保守派の俗論党が政権を握る。俗論党は功山寺に潜居していた三条実美を始めとする五卿を太宰府に移送し、志士狩りを強化しようとした。これに激した高杉晋作は元治元年12月(1865)伊藤俊輔(後の伊藤博文)と共に功山寺挙兵を行う。この挙兵には井上聞多・品川弥二郎・山田顕義などが呼応し、時局を見ていた奇兵隊の山県狂介や藩の諸隊も立ち上がることとなる。これにより俗論党を打ち破り、長州の藩論は倒幕に統一される。益次郎は明倫館兵学寮総官・教授として、士官教育を行う一方で、藩の軍制改革にも着手する。この時期より村田蔵六を改め、大村益次郎としている。
 倒幕派政権が長州に樹立し、慶応2年1月(1866)に薩長同盟が結ばれると、再び幕府による第二次長州征伐が慶応2年(1866)6月から始まる。大村は石州口方面の実戦指揮を担当し、幕府側を撃破し浜田まで進撃、浜田城を陥落させる。いろいろな分野で素晴らしい成果を上げてきた益次郎であるが、この時代の長州藩にとって最も必要とされる作戦参謀において最大の能力を発揮したこととなる。

 明治元年(1868)2月、明治新政府の軍防事務局判事加勢として朝臣となる。4月に大坂から江戸に進駐する。彰義隊の反乱に対し、東海道先鋒総督参謀である薩摩藩の海江田信義を差し置いて討伐軍を指揮し、1日で鎮圧する。5月には北関東で幕府残党勢力を鎮圧し、新政府軍の総司令官として東北地方、新潟で奥羽越列藩同盟と戦う。そして明治2年(1869)函館五稜郭で榎本軍が降伏し、戊辰戦争は終結する。益次郎は鳥羽伏見の戦いから、江戸への進軍の間、舞台裏で出番を待っていたが、上野戦争で舞台に上がると、その後の東北戦争から函館戦争までの戊辰戦争の終結をほぼ一人で完璧に仕上げている。

 戊辰戦争の終結後の益次郎の仕事は、軍制改革に移る。益次郎は、藩兵に依存しない一般徴兵による政府直属軍隊の創設を図るのに対して、薩摩藩の大久保利通は薩摩・長州・土佐の藩兵を主体にした中央軍隊の編成を主張した。この論争に敗れた益次郎は一旦、辞表を出すが、木戸孝允の取り成しで兵部大輔に就任する。兵部卿は仁和寺宮嘉彰親王であるため、益次郎が日本陸軍の形を創り出していく役割を担っている。
 明治2年(1869)9月4日、益次郎は京都三条木屋町上ルの旅館で刺客に襲われ、一命は取り留めたものの重傷を負う。大村の進めた軍制改革があまりにも急激な開化主義と見られたためです。益次郎は大坂の病院に移送され、蘭医ボードウィンの手術を受けるが、11月5日容態が悪化し死去。享年46。大村益次郎を襲った刺客は下記のとおりである。
     神代直人  長州
     団伸二郎  長州
     太田光太郎 長州
     伊藤源助  白河
     五十嵐伊織 越後
     金輪五郎  秋田
     宮輪田進  三河
     関島金一  信濃

 なお明治2年(1869)6月、益次郎は戊辰戦争での官軍方の戦死者を慰霊するため、東京招魂社の建立を献策している。これが後の靖国神社となる。

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大村益次郎卿遭難碑 幾松の北側に建つ兵部大輔大村益次郎公遺址

「大村益次郎卿遭難碑」 の地図


大きな地図



大村益次郎卿遭難碑 のMarker List

No. 名称 緯度 経度
 大村益次郎卿遭難碑 35.0117 135.7703
01  佐久間象山・大村益次郎遭難碑北へ約一町 35.009 135.7704
02  兵部大輔大村益次郎公遺址 35.0116 135.7702

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