文書と写真・地図による「記憶」の再現

梁川星巌邸址



梁川星巌邸址(やながわせいがんていあと) 2009年12月10日訪問

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梁川星巌邸址

 立命館草創の地から山紫水明処の前を通り丸太町通に戻る。そして丸太町橋を渡り左京区に入る。昭和47年(1972)から始まった三条・出町柳間の地下化工事は、平成元年(1989)に完成し現在では京阪鴨東線として営業している。川端通の下を京阪電車が走ることで京都の南北間の輸送力を飛躍的に増強させ、自動車による地上の交通緩和に大いに寄与している。それは鴨川とその奥の東山の景観美化の上でも大きな貢献を果たしている。
 川端丸太町の交差点は、京阪鴨東線 神宮丸太町駅の地上出入口以外には特に目立ったものもない、ごく普通の町並みである。川端通丸太町上ルの東丸太町は交差点から三軒の町家が並ぶ先には、簡易な仮囲いを巡らした空き地と新しいマンションが見える。このあたりが梁川星巌邸址であったはずだが、石碑が見当たらない。以前に訪れた時もこの東丸太町を一周したが、やはり石碑をみつけることが出来なかった。その際もこの仮囲いの場所に梁川星巌邸があったと推定し、付近の町並みを撮影した。フィールド・ミュージアム京都に掲載されている写真を見ると、奥の工事中の現場がアルス丸太町山水庵で、あるから現在の空き地の北端に石碑が建っていたようだ。なおフィールド・ミュージアム京都の掲載も更新され、2011年12月時点には、駐車場に改められ京都市教育会が大正5年(1916)に建立した石碑も元に戻ったようだ。
 梁川星巌は寛政元年(1789)美濃国安八郡曽根村(現在の大垣市曽根町)の郷士の子として生まれている。後年、親交を深めた漢詩人であり歴史家の頼山陽が安永9年(1781)生まれであることからすると、星巌は8歳年下になる。
 文化4年(1807)江戸に出て山本北山の奚疑塾に入り、儒学と詩文を学ぶ。さらに儒者で漢詩人の市河寛斎の江湖詩社に参加する。北山や寛斎は、徂徠学派が推進してきた擬古典主義に対し、体験や実感を詩で表現すること提唱した人々である。著書の「作文志彀」や「作詩志彀」で古文辞学の詩文観を批判し,清新性霊の説を唱えた北山は理論面で推進したのに対して、寛斎は天明7年(1787)に江湖詩社を結社し実作を担った。詩情に富む宋詩の影響の下に、日常的な素材を採り上げることにより、近世人としての生活感情を捉えた新しい詩風を示し、漢詩文を日本の風土に完全に根付かせる役割を果たした。
 文化14年(1817)に帰郷した星巌は、私塾梨花村舎を開く。また文政元年(1818)には同郷の村瀬藤城や江馬細香らと白鴎社を作る。女流漢詩人の紅蘭も曽根村の出身で、星巌の又従妹にあたる。14歳で梨花村舎に入り星巌より漢詩を学び、文政3年(1820)17歳で32歳の星巌の妻となる。もとより星巌には放浪癖があったが、紅蘭と結婚しても直ることはなかった。結婚して半年もすると、留守中に家事と詩文の勉強を怠らないことと言い置いて、一人で旅に出ている。再び紅蘭の元に戻ってきたのは文政5年(1822)春のことだった。一般には以上のようなエピソードとして伝わっているが、伊藤信著の「梁川星巌翁 附紅蘭女史」(梁川星巌翁遺徳顕彰会 1925年刊)の年譜の文政4年(1821)の条には、「是歳一詩を作る能はず。蓋し法規に縛せらると云ふ。駿遠参、諸州に遊ぶ。」とある。
 文政5年(1822)9月より紅蘭夫人を伴い西遊に出る。これは頼山陽の西遊に触発されたものであるようだ。文政2年(1819)には「頼山陽が鴨川の酒楼に飲み。遂に留宿す。」とあり、山陽との親交は早くからあった。この時期、山陽は文政元年(1818)広島で父の三回忌の法要を2月29日に終え、梨影夫人を京に置いたまま3月6日より九州遊歴を開始している。そして文政2年(1819)3月10日京に戻る。星巌が留宿したのは、九州遊歴の直後のことであっただろう。星巌は当時としては珍しく夫人を伴い、桑名、四日市、伊賀上野、大和を経て大阪に入る。播磨灘を舟で行き、岡山より陸路を進む。文政6年(1823)には備後の菅茶山、広島の頼杏坪を訪ねている。茶山より長崎行きを勧められる。この年の秋から翌年の春にかけて星巌は、三原と広島の間を往き来している。そして文政7年(1824)5月、広島を発ち赤間関より九州に入る。博多から佐賀に出て、舟で諫早に向かい長崎に着く。再び諫早に戻り、久留米を経由して日田に広瀬淡窓を訪ね、耶馬溪に遊ぶ。そして下関を経て広島に戻ったのは文政8年(1825)正月のことであった。頼杏坪、聿庵を訪ね、三原尾道に滞留し、神辺の茶山の廉塾を訪ねる。さらに讃州丸亀を訪れた後に、岡山に入りここでも滞留する。そして伏見を経て京に入ったのは文政9年(1826)3月のことであった。その際、山陽夫妻と嵐峡で花を観ている。恐らく山陽夫妻及び母の梅飃、そして江馬細香等含めた豪遊に加わったのであろう。その直後、星巌は病に罹り、「烏丸街寓舎」に臥し10余日静養している。この時期の星巌は、烏丸に滞在していたようだ。回復した星巌は、再び3月28日に山陽の招待を受けている。先に取り上げた「梁川星巌翁 附紅蘭女史」でも、この山陽との交流が晩年の星巌の国事への傾斜に繋がっているとしている。頼山陽は文政6年(1823)には、既に三本木の水西荘に居を移しているので、これより何度も星巌夫妻は三本木を訪れることとなる。そして文政9年(1826)4月、大垣に帰還したことで、実に3年半に及ぶ西遊は終了する。

 星巌の大垣での生活はそれ程長くは続かなかった。文政10年(1827)4月、京に入り二条銅駝坊に賃居する。銅駝とは漢の洛陽から西域への起点に駱駝の銅像があったことが由来となっている。中国の都制に倣った平安京の二条より北の中御門辺り迄の左右両京に銅駝坊を設けている。現在でも西の銅駝坊は西ノ京銅駝町として残るが、東の銅駝坊は地名としては失われている。その代わりに銅駝学区や銅駝美術工芸高校として残っている。この年の夏から秋にかけて京を出た星巌は大阪に寓し、紅蘭を大阪に残し広島を訪れている。程なく戻った星巌は再び京に入り、鴨西樵巷に寄寓する。これは木屋町三条下ルにあったとされている。現在でも木屋町通の東側に材木町や下樵木町の地名が残る。しかし文政12年(1829)3月に京を出て彦根に寄り、7月に大垣で祖先祭を行った後は、京で暮らすことが少なくなる。天保元年(1830)2月22日に京に入り鴨涯に寓し、頼山陽を訪ねている。3月26日には伊州に赴いている。7月に山陽と巨椋池に蓮花を看に行き、鴨東の閑地を購入しているが、10月には京を発ち彦根城北の松原に寓している。翌2年(1831)再び京に入り鴨川の西岸に寓すが、7月8日には彦根に帰っている。そして天保3年(1832)9月9日、山陽の見舞いのため入京し、17日の夜に再び山陽を訪ね、江戸に赴くこと告げる。これが星巌と山陽の永別となる。山陽は天保3年(1832)9月23日、門人の関藤藤陰に日本政記の原稿及び跋文の写本を命じ、検閲を済ました後、その日の夕刻に没している。享年53。

 江戸に出た梁川星巌も貧甚だしく、書家の巻菱湖宅に身を寄せた後、12月15日に八丁堀に賃宅を得ている。しかしこの寓居も天保5年(1834)2月7日の大火で焼失し、一時藤田東湖の好意により江東小梅村の水戸藩邸内の小舎に住む。この年の11月に神田お玉ヶ池に移り玉池吟社を起こす。神田お玉ヶ池は、師の市河寛斎の江湖詩社、そしてその弟子の大窪詩仏の詩聖堂があった地でもある。天保10年(1839)6月にお玉ヶ池より不忍池の酒巻立兆の園、蓮塘に寓している。炎暑を避けるための一時的なものであったように、この年の11月の冬至の日に再びお玉ヶ池に戻っている。
 佐久間象山が江戸に出、お玉ヶ池に象山書院を開いたのは天保10年(1839)6月1日のことであった。11月には星巌が不忍池から戻り、玉池吟社と象山書院は相隣することとなる。星巌51歳、象山29歳であった。星巌は既に江戸詩壇の重鎮となり名声も博していたので、世間一般は梁川星巌を老詩人として見ていた。しかしこの時期の星巌は佐久間象山や仙台藩士の大槻磐渓と国事について語ることが多かったとされている。この天保10年(1829)は蛮社の獄が行われ、翌年の1840年は阿片戦争が勃発した年でもある。星巌を始めとする先覚者にとって、近い将来に必ず外患が生じることは避けられないという認識を共有していた。

 頼山陽の三男・頼三樹三郎が羽倉簡堂に従い江戸に出て、昌平黌に入ったのは天保14年(1843)のことだった。三樹三郎も星巌に漢詩の教えを乞うたが、あまりにも瑕疵が多く星巌に呵責されたと伝わる。弘化2年(1845)6月20日、星巌は江戸の玉池吟社を閉じ、凡そ13年に渡る江戸での生活を終え、大垣に帰る。しかし江戸を去ったのは大垣で余生を過すためではなかった。翌弘化3年(1846)12月5日、京に入り二条木屋町の印房座舗を賃宅する。鴨川に臨み遥かに東山連峰を望む家を鴨水寓楼と詠んだ漢詩が残されている。さらに嘉永元年(1848)12月に居を華頂山の北に移し黄葉山房と名付ける。これは瑞龍山すなわち南禅寺の背後に聳える南禅寺山の山麓にあり、南は華頂山に対し、北は南禅、若王、永観の諸寺に接するとあるので、「境頗る幽邃を極む」という言葉通りの奥深い場所にあったのだろう。
 そして嘉永2年(1849)9月下旬に川端丸太町の廃園に移り鴨沂小隠と名付ける。これが今回訪れた梁川星巌邸址である。嘉永3年(1850)の春に佐久間象山に送った書簡に、「小生は9月下旬に鴨川筋丸太橋北三間目へ引移り」とある。つまり梁川星巌は、頼山陽の生前から鴨川の東岸に住んでいたわけではなく、山陽の死後17年経ってから鴨沂小隠に引っ越してきたのである。また山陽没後、2年経た天保5年(1834)10月、梨影未亡人は福井藩医の安藤静軒に水西荘を売却し、3人の子供を連れて富小路通押小路下ルに転居している。だから山陽が星巌を案内した口上が、木崎好尚著の「頼山陽先生 百年記念」(頼山陽先生遺蹟顕彰会 1931年刊)に掲載されている。

今日、鮮鯽、泉川酒など有之候。
御一來同候。
雨裏不ズシモ山紫水明之時候。
チト早く御出可成候。

 以上は山陽が九州から戻った文政2年(1819)春から星巌が西遊に旅立つ文政5年(1822)9月までの間か、星巌が西遊を終え京に戻った文政9年(1826)3月から江戸に発つ天保3年(1932)9月以前のことである。前者の場合だと木屋町二条下ル柴屋長次郎方の山紫水明処、後者だと東三本木丸太町の水西荘となる。恐らく水西荘の山紫水明処に星巌を招いた時の口上であろう。

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梁川星巌邸址 2011年6月18日撮影

「梁川星巌邸址」 の地図


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梁川星巌邸址 のMarker List

No. 名称 緯度 経度
赤●  梁川星巌寓居跡 鴨沂小隠 35.0181 135.7724
01  山紫水明処 35.0181 135.7709
02   鴨沂水荘跡 35.0182 135.7706

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