大聖寺
臨済宗単立 岳松山 大聖寺(だいしょうじ) 2010年1月17日訪問
今出川室町の東北角に建つ足利将軍室町第址の石碑を確認した後、今出川烏丸の交差点を北に上ると左側に大聖寺の山門が現れる。もうすでに17時を回ってしまっていたので門扉を閉める準備を行っていた。大聖寺は一般に公開されていない寺院であるので取り合えず境内の様子のみ見せていただくことにした。 大聖寺は尼五山第1位の景愛寺の法統を継ぐ臨済宗単立寺院。山号は岳松山、御寺御所とも称する尼門跡寺院。ここからは尼五山の成立時期とともに大聖寺や宝鏡寺の基となった景愛寺について少し詳しく見ていくこととする。
尼五山とは室町時代に禅宗の五山制度に倣い、京都と鎌倉の尼寺各5ヶ寺が定められている。京都尼五山は景愛寺、護念寺、檀林寺、恵林寺、通玄寺。鎌倉尼五山は太平寺、東慶寺、国恩寺、護法寺、禅明寺であった。尼五山も五山同様、その起源は明らかではない。荒川玲子氏は「景愛寺の沿革 ―尼五山研究の一齣―」(「書陵部紀要 通号28」(宮内庁書陵部編1976年刊)で下記のように記している。
室町幕府が五山十刹を制定したのは興国三(1342)年で、それ以前に尼五山が制定されたとは考えられない。又、通玄寺は四辻宮尊雅王王女智泉が天授六年改装したもの。護念寺は貞和二年能登守藤原利顕によって創建され、檀林寺は檀林皇后橘嘉智子の開創と伝える。恵林寺の成立は不明であるが、以上の点より考えて、尼五山の制定は天授六年以後である。
荒川氏は景愛寺の創建時期を寺伝にある弘安8年(1285)に限定していない。本論文中では永仁元年(1293)頃の創建も考えている。いずれにしても最も遅い通玄寺創建以降に制定されたと考えるならば、天授6年(1380)以降ということとなるということである。
正安元年(1299)鎌倉幕府執権・北条貞時が浄智寺を「五山」に加える命が、日本における「五山」の最古とされている、その後、足利尊氏による第一位南禅寺・建長寺、第二位天龍寺・円覚寺、第三位寿福寺、第四位建仁寺、第五位東福寺、准五山として浄智寺の選定が、暦応5年(1342)のことであった。さらに五山制で最も有名な足利義満による選定、すなわち南禅寺を「五山の上」で全ての禅林の最高位とし、自らが建立した足利幕府の菩提寺・相国寺を「五山」に入れること、そして五山を京都五山と鎌倉五山に分割したのが至徳3年(1386)であるので、これに近い時期に尼五山も制定されたと考えるのが合理的である。それでも尼五山も京都と鎌倉に設けられたのであるならば荒川氏の天授6年より更に後の時代になるのではないかと思う。
尼五山は皇室や摂関家や有力公家あるいは足利将軍家の子女達を住持として受け入れていた。しかし応仁元年(1467)より始まる応仁の乱と共に衰退が始まり、現存する寺院は京都尼五山で京都市上京区南佐竹町の護念寺と鎌倉尼五山の東慶寺のみになっている。しかも現在では両寺ともに尼寺ではなくなっているので法統が継がれたとは謂い難い。
「京都・山城寺院神社大事典」(平凡社 1997年刊)によれば、景愛寺は現在の上京区西五辻東町すなわち千本今出川あるいは般舟院陵の北にあったようだ。同書では「応仁記」の「五辻ニ景愛寺」という記述とともに、中昔京師地図の大報恩寺の南西に描かれた「景愛寺地」を根拠としてあげている。 これに対して高橋康夫氏は「京都中世都市史研究」(思文閣出版 1983年刊)で、景愛寺は五辻大宮にあったと考えている。同書は平安京造立後から始まった北辺の開発について言及した論文であり、12世紀以降の平安京北辺の変容を纏めている。五辻北の東西32.5丈、南北43丈の敷地が理宝から如大に施入されたと「宝鏡寺文書」に記されている。これを景愛寺の成立と考えている。理宝とは後深草・亀山両天皇の祖母にあたる藤原貞子であり、如大が尼寺を建立するためにその敷地を用立てたものである。これを高橋氏は「五辻大宮北西角の敷地」とし、景愛寺は「世尊寺もしくは五辻齋院御所(五辻殿)と合致する」と述べている。この地は「京都・山城寺院神社大事典」の西五辻東町とは異なり、五辻町の一部に当たる。ちなみに五辻殿は「五辻南・大宮西・櫛笥東」(藤原長兼「三長記」)に造られた後鳥羽上皇の院御所で、元久元年(1204)から使用された邸宅である。「櫛笥東」とは平安京の櫛笥小路で壬生大路と大宮大路の間の小路である。かつての壬生大路を北辺まで延長すると現在の智恵光院通辺りになる。そしてその東側に櫛笥小路があったことになる。
現在、五辻通千本東入北側に五辻殿址の石碑と京都市の駒札が建てられている。これを根拠に景愛寺が西五辻東町にあったと考えるのは少し難しい。この大正5年(1916)に京都市教育会建立の石碑は、最初五辻通浄福寺西入南側の五辻殿推定地に建てられていた。後に嘉楽中学校を経て1999年に現在地に移された経緯がある。つまり五辻殿址の石碑は西五辻東町ではなく、その東隣の一色町に建てられたものであり、次第に西へ西へと移されている。従って現在の石碑の場所にかつての五辻殿や世尊寺そして景愛寺があった訳でもない。 さらに京都市埋蔵文化財研究所の公式HPに掲載されている各区の遺跡(文化財保護課)を見ると、この地には平親信が寛仁元年(1017)以前に建立した尊重寺と藤原行成が長保3年(1001)に建立した世尊寺の2つの寺院があったことが分る。高橋氏によれば、景愛寺は尊重寺ではなく、東の世尊寺の範囲にあったことになる。
五辻大宮は平安京に接する地であるものの条坊の外側にあった。そのため当時の様子をイメージすることはなかなか難しい。現在、平安建都1200年記念事業の一環として平成6年(1994)平安京の1000分の1の復元模型が制作された。そして記念事業が終了した後は京都アスニーで展示されている。特に京城外の自然及びその都市化の過程の復元については、当時の最新の研究成果を表現したとされている。模型作成の過程を記録化した「よみがえる平安京」(淡交社 1965年刊)に、この北辺の地の説明「69 平安京の北郊」を見ることが出来る。
69 平安京の北郊
平安京に隣接する京郊のうちでも、北郊はやや異なった趣を呈していた。もともと大内裏とその周辺の官衙のすぐ北側に接しており、桃園などがあった。加えて、北野は天神・雷公を祀る場であったし、北辺の一条大路は賀茂祭の行列は行き、見物の桟敷が設けられる場所であった。北郊は、比較的早くから市街地に組み込まれつつあった。
また「150 船岡山東南の寺々」では尊重寺、斎院とともに世尊寺の様子が復元されている。そして世尊寺の東側に見える堂宇こそが景愛寺であるのかも知れない。雲林院、斎院、尊重寺、世尊寺そして実相寺や妙覚寺もその周りを樹木や開墾地に囲まれている。その点だけでも京城内の公家の邸宅とは大いに景観を異にしている。
景愛寺の開基は無外如大。如大は鎌倉中期の臨済宗最初の尼僧とされている。後の時代に色々な伝説や伝承が混淆したため、どこまでが如大自身の事跡であるか判別することが困難な状況になっている。このことについて山家浩樹氏は、「無外如大と無着」(金沢文庫研究 通号 301 1998年刊)や「無外如大伝と千代野伝説の交流 」(古代中世日本の内なる「禅」(勉誠出版編 2011年刊))で詳しく解説している。また前述の荒川玲子氏の「景愛寺の沿革」では如大の事跡を宝鏡寺が所蔵する「尼五山景愛寺伝系西山宝鏡寺逓系譜事蹟」を下記のようにまとめている。
(一) 開基無外如大は別号無着、幼名を千代野、長じて賢子と称した。秋田城介安達泰盛の女で、金沢顕時の後室である。その娘は、足利尊氏の父である貞氏に嫁した。
(二) 如大は、夫を失った後、出家して仏光国師の門に入り、上洛して洛北松木島に資寿院を営んだ。
(三) 弘安八(1285)年、如大は仏光国師の命をうけて五辻大宮に景愛寺を創建した。寺号は、仏光国師により「景二仰シテ仏姉母大愛道一ヲ」を由来として命名された。
(四) 上杉・二階堂等の諸大名が檀徒となった。寺地は北山准后藤原貞子の寄進である。
(五) 同年(弘安八年)後宇多天皇は特に叡命を下されて、景愛寺を以て京兆尼五山の甲位となし、紫衣を勅許された。
(六) 如大は永仁六(1192)年十一月二十八日入寂した。歳は七十六であった。
(七) 如大が寂して二百年後、堂宇は兵火に罹って焼亡し、その後、再建されなかった。
(八) しかし、如大派の法系と、景愛寺が尼五山の甲刹である称目は、宝鏡・大聖両寺の住職が交互に朝廷より拝命して相続していった。
以上のことから無外如大の経歴と景愛寺の創設の経緯、そして宝鏡寺及び大聖寺との関係が良く伝わってくる。荒川氏は「景愛寺の沿革」の巻頭で「尼寺の本体は、寺ではなく、寺主であると云われる。」と記している。男僧にとって入寺はその法燈を継承することであるが、尼僧にとっての尼寺は出家した女人の居住所という意味合いが強い。そのため寺号が尼寺の存在する地名にまつわるものが多いと指摘している。そしてこの違いが、尼寺の寺主が不在になると廃絶してしまう可能性に結び付いている。そのような中で明応7年(1498)に堂宇を焼失した後も、再建されることのなかった景愛寺の住持職を大聖寺と宝鏡寺によって相承されていった。塔頭の院主が交代で本寺に入り法燈を守るということは他の4山に見られない本来の禅宗寺院の在り方を示している。
上記のように景愛寺の法統を受け継ぐ大聖寺の開基は無相定円禅尼である。無相定円の俗名は日野宣子で日野資名の娘。宣子は北朝初代の光厳天皇の従一位典侍となり、姪の日野業子(父は宣子の兄弟にあたる日野時光)は足利義満の正室となっている。貞治7年(1368)光厳天皇の法事を天龍寺で行った際、春屋妙葩について落飾した。大聖院無相定円尼となった宣子は、義満の室町殿内の岡松殿に迎えられ、岡松二品尼と呼ばれた。永徳2年(1382)亡くなり、その遺言により岡松殿を寺に改め法名に因み大聖寺とした。 定円尼の姪で西園寺実衡の孫にあたる玉巌悟心も定円尼と同じく金潭素城の下で臨済宗を学び、大聖寺の住持となっている。この頃、大聖寺は景愛寺の末寺になったと見られている。玉巌尼以降の大聖寺の住持は如大尼の法統を継承していることを示すように前景愛寺第○世という称号を用い、質素な黒ではなく格式の高い紫の法衣を纏う特権も得ている。大聖寺では如大尼の命日に特別な法要を営んできた。
15世紀の初め頃、大聖寺は北山長谷(現在の左京区岩倉)に移り、文明11年(1479)8月28日に毘沙門町(上京区)に移っている。現在の黒門通元誓願寺下ルにある毘沙門町のことで大聖寺殿辻子の名が残る。この頃、長く続いた応仁の乱がやっと終結し、多くの寺院が移転や再建を始めた頃に重なる。元禄10年(1697)現在の地に戻ることが適った。これは聖護院が延宝3年(1675)に類焼し左京区聖護院に転出した後の移転となる。
大聖寺に最初に入寺した皇女は後小松天皇の内親王であり、その後も皇女が門跡を継承することが主流となった。そして16世紀の終わり頃に正親町天皇の皇女が入寺した際に「尼寺第一位たるべき」との綸旨を受けている。後水尾天皇の二人の皇女が続けて住持を務めた17世紀の数十年間は、大聖寺が最も文化的に開花した時期でもある。後水尾院がしばしば大聖寺を訪れ俳諧、和歌連句、茶や双六を楽しんだということが鹿苑寺住持・鳳林承章の日記に残っている。
大聖寺の中興となった天巌永皎は、中御門天皇の第7皇女・永皎女王(倫宮)であった。永皎尼が住持であった時に大聖寺は御寺御所の御所号を授かっている。大聖寺が最初室町御所の中(岡松殿)にあり、のちに(京都)御所の近くにあったことから御寺御所の御所号になったと考えられている。また詩歌の詠み手として知られ、茶の湯をよくしたことから、永皎尼に因み大聖寺煎茶道永皎流と名付けられている。
永皎尼は寛政9年(1797)に如大尼の500年遠忌、文化3年(1806)に玉巌尼の400年遠忌と2つの重要な儀式を執り行っている文化5年(1808)に永皎尼が示寂すると、尼僧として異例の准三后が贈られ、大歓喜寺の大聖寺宮墓地に葬られた。
天明8年(1788)に発生した天明の大火により大聖寺は甚大な被害を被った。光格天皇によって宸殿が再建されたが、完成には文化8年(1825)まで要した。現在の大聖寺の本堂は昭和18年(1943)に青山御所の建物一部移して建てられたものである。枯山水庭園は元禄10(1697)年に明正天皇の形見として下賜されたもの。京都市指定文化財。
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