知恩院 方丈庭園
知恩院 方丈庭園(ちおんいん ほうじょうていえん) 2008年05月16日訪問
知恩院の諸堂は法然上人御廟を頂点に、華頂山の裾野に切り開いた台地の上に一つ一つ時間をかけて、お互いの位置関係を確認しながら建設されたようにも見える。これは禅宗寺院の軸線を強調する幾何学的な配置とは明らかに異なっている。そのため、境内のおおまかな構成が理解しづらい。この記事も知恩院の公式HPに掲載されている「総本山知恩院境内地図(http://www.chion-in.or.jp/sanpai/p_k-map.html : リンク先が無くなりました )」を参考にしながら書いている。
国宝の御影堂の北側に集会堂があり、その東側に方丈が建てられている。方丈の南側には唐門があり、その脇に方丈庭園への拝観受付がある。方丈庭園は大方丈の南面から始まり、東面へ回り込む。そして大方丈に雁行した配置となっている小方丈の南面から東面へとつながっている。方丈の足元から池泉の縁の苔地までには白砂が敷かれている。そのため拝観者はこの白砂を踏みしめて小方丈の先まで進むこととなる。
方丈の東側上部には法然上人御廟と勢至堂が建てられているため、この方丈庭園はそれほど奥行きが無く、方丈の縁に沿って景色が展開するように造られている。
庭は2つの部分に分けられている。大方丈の南面から小方丈の南面までつづく部分は、寛政11年(1799)に刊行された都林泉名勝図会に2枚(其一 其二)つづりで掲載されている。現在この部分は方丈庭園と呼び、僧玉淵坊によって作庭された座視鑑賞式蓬莱池泉庭園と考えられている。しかし都林泉名勝図会の頃には池泉回遊式庭園として扱われていたようにも見える。玉淵坊日首は、現在は堀川寺の内にある妙蓮寺の僧であり、この寺の十六羅漢石庭の作庭者として知られている。また玉淵坊は小堀遠州とも関係が深く、桂離宮の造園を指図したとも伝わっていることから、遠州好みが現れている。知恩院自体が徳川家の支援によって現在の壮麗な伽藍を築き上げたことを考えると、小堀遠州自身が関わらなくても遠州に関係ある人間が方丈庭園の作庭に携わったとしても不思議ではない。
先の都林泉名勝図会の其一には、方丈庭園の入口付近にある池泉に浮かぶ島に石橋が掛けられた姿が現在と同じように描かれている。さらにその右側に護法石と書かれた巨石が配されている。 其二の図会の右端には池の向こう岸に2つのお社が祀られているように見える。樹木が鬱蒼としていたため、今回は気がつかなかった。いくつかの石燈籠が池泉の周りに配されていること、其二の図会の左端は小方丈の南面の池の形状は現状と同じように見える。
小方丈の東面、方丈庭園の先の部分は二十五菩薩の庭と呼ばれている。西方極楽浄土から25名の菩薩を従えて阿弥陀如来が来迎する様子を石で現わし、丸く刈り込んだ植込みで如来と菩薩を包む来迎雲を表現している。なお知恩院は、国宝に指定されている鎌倉時代の仏画・絹本著色阿弥陀二十五菩薩来迎図(早来迎)を所蔵している。この庭の名称もここから来ていると考えられる。法然上人御廟と勢至堂の斜面が小方丈の間際まで下りて来ているため、斜面の下のほうは石垣を積み上げている。池泉は既に小方丈南面で終わっているため、この二十五菩薩の庭は石垣を背景にして枯山水様式で造られている。この部分は先の都林泉名勝図会の其二には描かれていないことからも後世の作庭と考えるべきか。
二十五菩薩の庭の先には小さな門があり、その先の石段を上ると小さな仏堂・権現堂がある。知恩院の造営に関わった徳川家康・秀忠・家光の位牌と肖像画を安置する。
「知恩院 方丈庭園」 の地図
知恩院 方丈庭園 のMarker List
No. | 名称 | 緯度 | 経度 |
---|---|---|---|
01 | ▼ 知恩院 方丈庭園 | 35.0057 | 135.7844 |
02 | ▼ 知恩院 方丈庭園 二十五菩薩の庭 | 35.0061 | 135.7846 |
03 | ▼ 知恩院 方丈庭園 権現堂 | 35.0064 | 135.7847 |
04 | ▼ 知恩院 大方丈 | 35.0058 | 135.7841 |
05 | 知恩院 小方丈 | 35.0061 | 135.7844 |
06 | ▼ 知恩院 御影堂 | 35.0062 | 135.7838 |
07 | 知恩院 集会堂 | 35.0058 | 135.7834 |
08 | 知恩院 法然上人御廟 | 35.0056 | 135.7851 |
09 | ▼ 知恩院 三門 | 35.0047 | 135.7818 |
10 | ▼ 知恩院 友禅苑 | 35.0042 | 135.7819 |
この記事へのコメントはありません。