薩摩藩邸跡(二本松) その2
薩摩藩邸跡(二本松)(さつまはんていあと) その2 2010年1月17日訪問
薩摩藩邸跡(二本松) では幕末期の京屋敷について見て来た。江戸時代初期より京には諸藩の武家屋敷、すなわち京屋敷が設けられてきた。禁中並公家諸法度により、「一 武家之官位者、可爲公家當官之外事」と武家と公家の官位は分けられ、武家には将軍を通じて官位が与えられるように定められた。そのため官位叙任に関し武家は公家と直接的な関係を結ぶことがないように制限されてきた。そしてこのことが武家と公家の私的な交際まで拡大適用され、特に譜代大名は参勤交代の際にも幕府の疑念を避けるために京に入ることがなかったとされている。それでも京屋敷が存在した背景には京都が大坂に次ぐ西日本最大の都市であったからと考えられる。特に江戸中期以降の藩政改革の推進に伴い、各藩は特産品の販路を大都市に求めるようになっていった。京屋敷を持たない藩でも御用達を務める商人に管理を委託する取次機関を京に持っていた。これらを通じて諸藩は京での情報も収集してきた。
文久3年(1863)の将軍上洛を機に京が政治の中心地となっていく。これに合わせて京への武士の流入が増大していく。それまでは留守居役と呼ばれる下級武士を藩邸に置いてきたが、大名の上京に随行する者、また禁裏護衛及び京の治安維持の任を命じられた諸藩の藩兵、そして自らの意思で上京し国事に従事する者まで現れるようになった。この変化に伴い、保有してきた京屋敷では手狭になり新たな屋敷を設ける必要が生じた藩も出てきた。しかし京屋敷自体の総数は江戸中期と比べ爆発的に増えることは無かった。このことから、京屋敷の規模を拡張するものや複数の京屋敷を持つものが現れた一方で京から撤退する藩も存在したと考えられる。一般的には西国大名の京屋敷の数が増え、東国諸藩の藩邸は少なかったとも言われている。当時日本最大の都市であり未だ政治の中心地である江戸に近い東国諸藩にとって、わざわざ遠い京に藩邸を持つ必然性は希薄であったのであろう。
将軍上洛に伴う警護により、一時的に増加した藩士・藩兵を収容するため諸藩は寺院・神社に本陣を置くようになる。東本願寺には徳川慶喜、天龍寺に毛利定廣、南禅寺に細川慶順、本圀寺に水戸慶篤、知恩院に島津茂久、真如堂に鍋島閑叟と各宗派の本山は雄藩の藩士藩兵で満ち溢れた。これ以外にも塔頭寺院や市中の多くの寺院も宿陣として使用された。京は禁裏を中心に形成されてきた都市であるため城下町で発展した武家屋敷街が存在しない。そのため上記宿陣から溢れた者は、各町の会所や借家に入れられた。
前年に生じた八月十八日の政変によって京から追い落とされた長州藩は、元治元年(1864)藩兵を率いて京を包囲した。長州とそれを支援する有志によって結成された軍隊は京の西、山崎の宝積寺、粟生の光明寺、嵯峨の天龍寺そして伏見の長州藩邸に駐屯した。来嶋又兵衛が淀川を上り伏見藩邸に入ったのが6月22日とされているので、6月下旬から戦闘が始まる7月19日までの約1ヶ月間長州軍は天龍寺等に駐留し軍備を整えていたことになる。これを斡旋したのが、下嵯峨村の庄屋、総年寄、村吏を勤める福田理兵衛という人物であった。在野の勤皇家で長州藩の支援者としても有名である。文久2年(1862)末、元々天龍寺の用達であった理兵衛は長州藩士の楢原善兵衛より同寺の借用を依頼されている。翌文久3年(1863)1月、寺の借用に関し長州藩側として交渉斡旋し、天龍寺山内24ヶ寺、清凉寺ほか民家30戸を借入している。そして天龍寺に長州旅館の門標を掲げている。これは将軍上洛に併せた毛利定広入京のための準備であろう。以後、長州藩の御用達となり一切の経理をまかされ、経済面で莫大な支援を行なっている。 長州藩は天龍寺と宿舎として使用する永代借用の契約を結んでいたが、その交渉には理兵衛が当たっていた。天龍寺を藩主並びにその代理人の旅館となった際には、料理の供給、資金調達の斡旋から、出立時に残された道具類の保管まで命じられていた。すなわち福田理兵衛が長州藩と天龍寺の関係を深めたとも言える。また出陣した長州軍に代わり、7月19日の早朝、理兵衛は陣営の返謝として金300円を持参すると共に、寺門に災いが降りかからないように、長州軍の幕を取り除き、寺門の幕を張り、高張提灯等も取り替えた上で、境内の清掃も行なったとされている。このように諸藩は用達と一体になって京に藩士達を送り込んでいった。
甲子戦争勃発前夜の対峙から長州戦争さらには鳥羽・伏見の戦いまで、京には実に多くの幕府兵と藩兵が駐留することとなった。これは既に将軍上洛の警護のような一時的な動員の受入れではなく、恒常的に兵隊を養うことの出来る体制へと変わって行った。つまり宿泊や飲食の提供だけでなく、兵隊を調練するための施設も準備しなければならなくなった。幕府は京都守護職のために文久3年(1863)暮には、千本立売角の所司代千本屋敷の北に会津御用屋敷を建て、続いて下長者町通・下立売通、西洞院通・新町通の南北2町東西1町の守護職御用屋敷を新設した。さらに元治元年(1864)には守護職御用屋敷の南にやはり南北2町東西1町の御用御添屋敷を竣工させている。これを以って千本立売の会津御用屋敷は引き払われた。また元治元年2月24日には鴨東に幕府の練兵場が作られた。この年の正月15日に将軍家茂の二度目の上洛があった。同年2月11日、会津藩主・松平容保は京都守護職を免じられ陸軍総裁への就任が決まった。この時に広大な城東練兵場が会津藩に下されている。この練兵場は元々聖護院領の地に作られたもので、現在の京都大学稲盛財団記念館から京都大学医学部までの範囲にあたる。2月15日松平春嶽が京都守護職に任じられるが辞したため、4月7日に松平容保が再任している。このように幕末の会津藩は黒谷の金戒光明寺、守護屋敷と添屋敷そして城東の練兵場の4箇所に屋敷を持つこととなった。
再び話を二本松の薩摩藩邸に戻す。東洞院通錦に既に藩邸を持っていた薩摩藩ではあるが、文久2年(1862)4月16日の島津久光による率兵上京の際に同所が手狭であると感じたようだ。文久2年の冬には御所北側の相国寺敷地内に土地を購入し起工、文久3年(1863)10月までには二本松屋敷が竣工したとされている。この後、薩摩藩は鴨東岡崎にも岡崎藩邸を確保している。この岡崎藩邸を保有していたのは短期間であったため幻の岡崎藩邸ということで産経新聞2018年1月26日に紹介されている。
鳩居堂第8代当主の熊谷直行が明治31年(1898)に鴨川の橋について纏めた「鴨川沿革橋図」の中にある「元治元年四月外柵成慶応四年取払其後此処ヲ分割シテ横須賀大聖寺秋田富山ノ邸ヲ設ク」という記述よりその存在が明らかになったものである。その面積は「凡 五万二千二百拾坪」で邸内には「ヌエ塚、ヒメ塚、西天王寺(ツカ)」があったということから規模と位置を特定することができた。現在の平安神宮の大部分とロームシアター京都から岡崎公園までの範囲に存在した。「元治元年四月外柵成」とあるので、文久3年出版の文久改正新増細見京絵図大全にも掲載されていない。また文久改正新選京絵図に「薩州ヤシキ」とあるがその正確な位置と規模が分らなかった。なお文久改正新選京絵図の鴨東には薩摩以外に、雲州、尾張、会津、阿波、紀伊、越前、芸州、加州などの藩邸があったことが分る。慶応4年(1868)に作成された「改正京町御絵図細見大成」(「もち歩き 幕末京都散歩」(人文社 2012年刊))を見ると、既に秋田屋敷、大聖寺ヤシキ、冨山ヤシキに変わっている。 鵺塚と秘塚は岡崎から東山区本町15丁目にある崇徳天皇中宮皇嘉門院月輪南陵の東側に移されている。今度近くを通りかかったら撮影しておこうと考えています。
この52210坪は後楽園ドーム3.7個分となる。これは単に藩兵を寄宿させるためでなく、軍事調練を行うことを目的に購入した敷地であることは明らかである。上記のとおり元治元年4月より稼動したならば、原田良子氏が「幻の京都薩摩藩邸「岡崎屋敷」 原田良子」で指摘するように甲子戦争に向けても調練も行われた可能性もある。
薩摩藩は岡崎藩邸以外にも衣笠山の麓に調練のための用地を求めている。石田孝喜氏の「幕末京都史跡大事典」(新人物往来社 2009年刊)によれば慶応2年(1866)4月、16000余坪の調練場に弾薬庫、陣屋、休息所、勤番所を置き、その場所は北区小松原北町であった。小松原北町の東端には小松原児童公園がある。周囲が住宅で埋め尽くされている現在、かつての藩邸跡を偲ぶ物は全く残されていない。そのためこの開けた景観がかつての調練場を思い出されるのか、いくつかの小松原調練場を紹介する文書には有名な弾薬庫の写真とともに、この公園の写真が使われている。ところで薩摩藩小松原調練場は小松原北町にあったのか?河島一仁氏は「近代京都における大学の歴史地理的研究 ―藩邸、公家屋敷ならびに寺社地の転用を中心に―」で、その位置を「改正京町御絵図細見大成」を参照し推定している。北野天満宮の鳥居前を通る今小路通は、御土居と紙屋川を越え松原村と真如寺の前を過ぎて等持院の門前に至る。「改正京町御絵図細見大成」に描かれた「薩州屋舗」は等持院村の南であることから、今小路通と妙心寺の北端を通る一条通の中間に位置したと考えている。現在の町名にあてると京福電鉄北野線の軌道の南北、等持院中町、等持院南町、等持院西町あたりとなってしまう。また河西氏は昭和29年(1954)に京都市建設局が発行した3000分の1地形図中に「火」という文字が記載されていることに着目し、大正11年(1922)の測量の際にも幕末の弾薬庫が残っており、その位置を地図が示していると説明している。この地形図を見ていないので、どこの場所に「火」が記載されているかは分らない。しかし等持院村の集落の南側にかつての薩摩藩小松原調練場が存在したのであれば、小松原北町とはかなり異なった場所といえる。石田氏の16000余坪の敷地を信じるならば、250m四方程度になるので小松原北町を含むことは無かったと思われる。 それでは石田氏が所在地とした小松原北町という地名はどこから来たのか?寺井萬次郎が昭和9年(1934)に著わした「京都史蹟めぐり」(西尾勘吾 1934年刊)はその所在地を洛北衣笠小松原に留めそれ以上所在地を特定する記述はない。寺井も敷地は「一萬六千余坪」とし、勤番所詰の“大島六蔵“氏の宅で西郷隆盛がよく休息したと記し、あの弾薬庫の写真を使用している。
これより前の昭和3年(1928)に京都市教育会が刊行した「京都維新史蹟」(カワイ書店 1928年刊)でも衣笠山下の薩藩火薬庫という記述に留めている。調練場の大目付は「高島六蔵」氏で勤番所は氏の住宅であり、今(1928年)も嗣子大次郎氏の住宅として使われていると記している。また下記のような記述も見られる。
併し其火薬庫も今は鬱茂たる竹林中に只一箇(図の中央)より残らず、誰訪ふ人もなき有様なり。
当時残っていた火薬庫は1個だけであったことが分る。
一番詳細に記しているのは昭和14年に大阪毎日新聞社京都支局がまとめた「維新の史蹟」(星野書店 1939年刊)である。これは新聞紙上で70回連載したものを出版したものである。勤番所と火薬庫遺蹟と題しその所在地は「上京区小松原北町 嵐山電車小松原停留所北7丁」としている。先ず調練場の規模を下記のように説明している。
衣笠山麓一帯に数萬坪の地を求めて一大調練場をつくつた。その地域はいまの宇多川以西、小松原北町以北、衣笠山の麓までといふ廣さだつた。
勤番には足軽16名が配置され責任者の大目付は「高島六三」であった。維新後、一帯は兵部省の管轄となりいつしか廃止され、火薬庫の跡が残った他、勤番所と藩主の休息所が小松原北町の高島家の屋敷内に残った。勤番所は借家として残っているが、休息所は4年前(1935年)の区画整理で解体したと当主の高島大次郎氏が話している。同所には勤番所の写真と火薬庫の跡と題された竹林の中に土が盛られた部分の写真が掲載されている。さらに興味深い話として、明治になって兵部省の所管となった火薬庫は火薬商人に貸し出された。倉庫があまりに広いということで小さく建替えた。それも荒廃して今では周囲の土手や松の大木がかろうじて昔の姿を偲ばせているとのことである。あの火薬庫の写真は幕末に建てられた火薬庫であったのだろうか?
未見であるが、小松原調練場で大目付を務めた高島六三そして昭和初期に「維新の史蹟」のインタビューを受けた高島大次郎の子孫にあたる高島健三氏が1989年に「京都小松原附近郷土史」を出版している。私家本のようで東京の図書館には見当たらないが、京都府立京都学・歴彩館に京都歴史地誌として収蔵されている。何かの機会があれば探してみたいと思う。
小松原調練場跡とされる小松原北町周辺を今一度確認してみる。同町の西側には二條天皇の香隆寺陵と白河天皇火葬塚と後朱雀天皇火葬塚がある。また西側には真如寺と等持院と共に立命館大学衣笠キャンパスが隣接している。立命館大学が衣笠キャンパスに移転したのは昭和40年(1965)と新しい。広小路にあった学部を17年間かけて衣笠に移した訳である。現在でもキャンパス内に等持院の墓地があり、河田小龍や中川小十郎等の墓が残されている。 もし小松原北町を中心に小松原調練場が作られたとしたら、天皇陵や火葬塚そして真如寺にも等持院にも掛らない東西幅150メートル位の南北に細長い範囲であったのではないだろうか。南側の市内から続く道の近傍に上記の休息所や勤番所、火薬庫は休息所から離れた竹林の中に建てられたと考えるのが合理的である。そして北側の斜面に向けて射撃を行えば、1万6000坪と岡崎の三分の一程度の面積であっても問題が無かったのかもしれない。
「薩摩藩邸跡(二本松) その2」 の地図
薩摩藩邸跡(二本松) その2 のMarker List
No. | 名称 | 緯度 | 経度 |
---|---|---|---|
▼ 薩摩藩邸跡 | 35.03 | 135.7595 | |
01 | ▼ 薩摩藩錦小路藩邸跡 | 35.0049 | 35.0049 |
02 | ▼ 薩摩藩伏見邸跡 | 34.9377 | 135.7586 |
03 | ▼ 薩摩藩岡崎藩邸跡 | 35.1059 | 135.7636 |
04 | ▼ 小松原調練場 | 35.0325 | 135.7268 |
05 | ▼ 小松帯刀寓居 近衛家御花畑邸 小山町 | 35.0374 | 135.7587 |
06 | ▼ 大久保利通邸跡 | 35.0275 | 135.7681 |
07 | 西郷隆盛寓居 塔之段 | 35.0305 | 135.7652 |
08 | ▼ 西郷隆盛寓居 石薬師中筋 中熊 | 35.0275 | 135.7685 |
09 | ▼ 相国寺 養源院 | 35.0315 | 135.7612 |
10 | ▼ 相国寺 普広院 | 35.0311 | 135.7612 |
11 | ▼ 相国寺 林光院 | 35.0316 | 135.7631 |
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