文書と写真・地図による「記憶」の再現

大久保利通旧邸



大久保利通旧邸(おおくぼとしみちきゅうてい) 2010年1月17日訪問

画像
大久保利通旧邸 右端に寺町通が見える

 個人的な話で恐縮ですが、先日PCのハードディスクを壊し画像データを含む全てのデータを一時的に失いました。定期的なバックアップを行っていたので、幸いなことに一応は元の状態に復旧することができました。その後の再発防止策等に時間を要し、中々ブログの更新を行うことがませんでした。そのため、この大久保利通旧邸に関する一連の書き込みが2015年最後の更新になります。

 2014年6月に京都御所 その3を書き始めて以来、京都御所 その13まで実に長い期間、京都御所あるいは京都御苑について調べてきたが、ここでようやく御苑より外に出ることとなった。京都御苑の東北にある石薬師御門を潜り、石薬師通を東に進む。先ず御苑の東側に隣接する南北路、梨木町通あるいは梨木通が現われる。この道は平安京の東限を定める東京極大路にあたるが、かつての大路の道幅である10丈すなわち約30mもなく、ごくごく目立たない小路である。清和院門より急に始まり、今出川通を越えて出雲路幸神社に突き当り終わる。歩いていてもなかなか気が付かないが、丸太町通より北側の寺町通は東側に傾いている。また京都御苑が矩形であるため、寺町通ではなく東限となる梨木町通が必要となる。もっとも平安京の北限が一条通であったので清和殷門から現在の本禅寺あたりの梨木町通をかつての東京極大路と呼ぶのが正しい。
 石薬師通の南側には京都市立京極小学校がある。さらに東に進むと次の南北路・寺町通が現われる。そのまま東に入り南側3軒目の西角に、大久保利通旧邸の碑が建つ。碑の東側に記されている通り、昭和2年(1927)に京都市教育会が建立したものである。京都市教育会については、横井小楠殉節地で既に記したので詳しくは繰り返さない。明治35年(1902)に創立した組織で、京都市の一部署でもなく、また似た名称の教育委員会とも関係ない。京都市の教育の普及と発達を図ることを創立の目的とした、現職の京都市長が会長や副会長を務める組織であった。理事や評議員には教育者や実業家が加わるなど、京都市の名士の集いという色彩が濃かったようだ。講演会の開催だけではなく、女子高等師範学校を京都に建設するように大臣に建議するなど、教育全般に関する提言も行ってきた。興味のある方は中村武生氏の「京都の江戸時代をあるく 秀吉の城から龍馬の寺田屋伝説まで」(図書出版 文理閣 2008年刊)の中で説明しているので御参照下さい。
 フィールド・ミュージアム京都では、慶応2年(1866)正月から同4年6月までの間,大久保利通がこの地に邸宅を構えたと記している。石田孝喜氏の「幕末京都史跡大事典」(新人物往来社 2009年刊)でも大久保が御所の東、石薬師に居を構えたのを慶応2年正月とし、その理由を長州藩や朝廷との連絡が増えたため、薩摩藩邸より出て民家を隠れ蓑としたとしている。敷地は60坪で建坪30坪、通りに面して格子を設けた旧写真が同書には掲載されている。この写真に石碑が写っていることから昭和初年に撮影されたもののようだ。竹村俊則の「京の史跡めぐり」(京都新聞社 1987年)によれば、明治11年(1878)の大久保暗殺後も大久保家によって、この石薬師の中二階建の邸宅は維持されてきたが、昭和30年頃に売却され近代的な家に建て替わったとしている。恐らく今日、私たちが目にする民家が、“近代的な家”であるようだ。なお竹村が本書を書いた時点でも茶席の“有待庵”は邸内の一番奥に残っていたと記している。また石田氏も「幕末京都史跡大事典」で「その建物の中に、現在唯一維新当時の「茶室」が残っている。」と記述しているが、これが2009年版時点のことか、あるいは1983年に刊行された初版の頃かは分からない。
 「大久保利通文書」(「日本史籍協会叢書 大久保利通文書」(東京大学出版会 1929年発行 1983年覆刻))の最終巻に大久保利通の年譜が所収されている。これに従うならば大久保が最初に上京したのは文久2年(1862)1月13日である。その翌日には近衛前左大臣父子に謁し島津久光の上京及び国事周旋の内意を上陳している。そして2月1日には近衛前左大臣の書を携え帰藩しているので、最初の上京は久光の伝令役に過ぎなかった。西郷隆盛が前藩主の島津斉彬に認められ安政年間から周旋に従事していたことと比べれば、大久保の出世は遅かった。これは嘉永3年(1850)お由羅騒動あるいは高崎崩れに連座し、琉球館掛を勤めていた父・利世は罷免の上鬼界島に遠島、自らも記録所書役助を免職、謹慎となっている。しかし島津斉彬が藩主となると謹慎が解かれ、嘉永6年(1853)5月には記録所への復職を果たし御蔵役となる。なお利世の罪が赦され鹿児島に戻ったのは安政2年(1855)2月とさらに先のことであった。
 続いて3月16日、島津久光の率兵上京に随従する。大久保は久光に働きがけ、遠島にあった西郷を2月12日に召還させている。そして3月22日には、西郷を久光本隊より先発させ下関に情勢分析のため送り込んでいる。西郷は京阪の形勢が想像以上に逼迫していることを知り、久光の到着を待たず下関を後にして上京している。これに激怒した久光は4月8日には西郷捕縛の命を下すこととなる。大久保は11日に大阪で西郷の帰藩を見送り、16日には久光に従い入京を果たしている。そして西郷は2度目の遠島になる。この後、19日に大阪に下り志士等の説得を行い、一同承服したと思い21日に帰京する。それは挙兵の前の嘘の承服であり。文久2年4月23日の寺田屋事件へと続く。事件発生までの経緯と事件後に大久保が行った処置については、田中河内介の寓居 その2で既に書いているので、そちらを御参照下さい。
 寺田屋事件での手際の良い処置が認められ、5月22日に大原勅使に従い島津久光と共に江戸へと向う。久光に随従した大久保は6月7日に江戸に到着している。そして8月21日の江戸出立までの期間、大久保は諸藩の要人に面会し国事について議論を重ねている。薩摩藩は帰路の途上で生麦事件を引き起こすが、久光一行は閏8月7日に帰京している。そして大久保も同月23日に、久光に従い鹿児島へ発っている。
 さらに同年12月9日に久光の命を受けて吉井友実と共に京を目指し、20日に到着している。即日、近衛関白に謁し久光よりの書を呈した上で時事についての建言を行っている。さらに25日には朝廷の内旨を奉じ江戸に降っている。文久3年(1863)正月3日に江戸に到着した大久保は、松平春嶽、山内容堂等に面会し将軍上洛の延期について建言している。1月9日に近衛関白に復命するため入京している。2月になり鹿児島への途につくが、大阪よりの船が暴風に見舞われ難破している。その後、国許で薩英戦争の準備に従事する。そのため八月十八日の政変の報を島津久光と共に鹿児島で聞く。
 薩英戦争及び政変後の文久3年(1863)9月12日、島津久光に随従し上京の途につき、10月3日に到着している。大久保は同月20日には将軍上洛及び薩英戦争の和議の件で江戸に向っている。11月1日に薩英戦争の和議が成立したため、11月15日京都に復命し、このまま元治元年(1864)を京で迎えている。2月28日に大久保の尽力により、西郷が沖永良部島から召還される。西郷は3月14日に京に到着するが、参預会議が決裂し4月18日に久光は大久保を伴って帰藩の途につく。そして大久保に代わって京に残った西郷が甲子戦争において薩摩軍を指揮することとなる。

 慶応元年(1865)正月25日、大久保は吉井友実、税所篤を伴い鹿児島を発ち福岡、久留米両藩に赴き、さらに大宰府に五卿を訪ねる。ここより東上し2月7日に着京している。同月9日には朝彦親王に、そして11日には近衛父子に謁し毛利父子の処遇及び五卿の進退について建言している。3月22日に京を発ち4月3日に鹿児島に帰藩。5月4日の幕府による第二次長州征討の令に伴い、同月21日に鹿児島を発ち東上、閏5月10日に入京する。再征の不可を当路の公卿に入説する。7月8日に京を発ち帰藩するが再び9月に上京する。
 慶応元年2月の上京以降、明治元年(1868)6月までの大久保利通の政治活動の中心地は京都となる。この凡そ3年半の期間、大久保が京を離れることがあっても、長い期間に及ぶ事は無かった。この慶応元年は3月22日に京を発し翌月3日に帰藩していること。そして5月21日に鹿児島を発ち閏5月10日は京に戻っている。また7月8日に京より帰藩し9月にはまた入京している。さらに9月27日に福井に赴き松平春嶽に謁し国是決定の意見を言上している。そして翌月3日には帰京している。慶応元年の出京は上記の3回のみであった。
 諸説あるようだが慶応2年(1866)正月21日頃に薩長同盟が結ばれ、その直後の21日に大久保は京を出て2月1日に帰藩している。そして2月21日には鹿児島を発ち西郷と交替して入京している。年譜を見る限り、慶応2年の出京はこの帰藩の1度のみである。慶応3年(1867)は9月17日に大山綱良と共に山口に往き長州藩主父子に謁し王政復古の決行を議し挙兵に関する盟約を桂、廣澤等と結んでいる。この後、10月6日には岩倉村で岩倉具視、中御門経之の両卿、そして長州の品川弥二郎と王政復古の密会を持っているので、その前には京に戻ったのであろう。そして10月17日に、小松、西郷、他に長州の廣澤、福田等と京都を発し、22日に三田尻に寄航して26日に帰藩している。11月10日に鹿児島を発ち12日に高知に於いて山内容堂の上京を促し15日に入京している。この11月15日が偶然か坂本龍馬の暗殺される近江屋事件の日と一致する。こうして12月9日の王政復古から慶応4年(1868)正月3日の鳥羽伏見での開戦まで情勢は一気に進んで行く。大久保は1月下旬より大阪遷都についての建言を各方面に行っている。その中でも堺で仏国兵殺害事件が発生し、2月17日に堺に赴き20日には帰京している。そして6月6日に大阪に下り18日には海路で江戸へ向っている。この江戸への出張で大久保は御東幸を三条実美に言上し決定している。7月17日には江戸は東京に改められ、鎮将府が置かれ東国の政務を総括することとなっている。大久保は9月9日に海路東京を発ち13日に上京している。そして明治元年9月20日車駕京都を発す。大久保は海路で27日に東京に到着している。以上が大久保利通の京における幕末から維新にかけての活動の最後となる。

 大久保利通旧邸は、勝田孫弥著「甲東逸話」(富山房 1928年刊)にも「京都石薬師の寓居」として取り上げられている。この書によれば、大久保は自らの住居の他に、長州藩士のために邸宅の南隣の一軒家も借りていた。さらに邸内の土蔵の側の潜戸から出入りするため、外からは分からないようになっていたとしている。品川弥二郎や廣澤真臣、福田侠平等の長州藩士が、維新までの間代わる代わる入洛しては、この一軒家を使用し薩長両藩間の連絡を取っていた。周囲には会津藩の藩士等も多く住んでいたため、大久保邸に出入りする者を見張る武家姿が邸宅前で見られることも多かったようだ。この品川等が出入りした借家は、大久保利通旧邸の東隣や西隣ではなく南隣であったと「甲東逸話」は記述している。東西路の石薬師通に面した大久保利通旧邸のさらに奥に位置した建物という意味であろう。既に元の大久保利通旧邸が失われているため詳しいことは分からない。しかし洛中への立ち入りが禁じられていた長州藩士が屯していた一軒家は、「土蔵の側の潜戸から出入りする」ということから石薬師通から路地を経て入るような目立たない建物であったように読める。

「大久保利通旧邸」 の地図


大きな地図



大久保利通旧邸 のMarker List

No. 名称 緯度 経度
 大久保利通邸跡 35.0275 135.7681
  小松帯刀寓居 近衛家御花畑邸 小山町 35.0374 135.7587
01  薩摩藩邸跡 35.03 135.7595
02  小松帯刀寓居 近衛家御花畑邸 室町頭町 35.0326 135.7578
03  西郷隆盛寓居 石薬師中筋 中熊 35.0275 135.7685
04   西郷隆盛寓居 塔之段 35.0305 135.7652
05  京都御苑 近衛邸址 今出川本邸 35.0282 135.7617
06  近衛殿桜御所 35.0312 135.7551
07  近衛基煕別邸 堀川屋敷 35.026 135.7523
08  小松帯刀寓居参考地・近衛家堀川邸跡他 35.0261 135.7525
09   近衛家煕別邸 河原邸 35.0159 135.7707
10   近衛忠煕別邸 桜木御殿 35.018 135.7734

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