徘徊の旅の中で巡り合った名所や史跡などの「場所」を文書と写真と地図を使って保存するブログ

鞍馬



鞍馬(くらま) 2010年9月18日訪問

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貴船口 梶取橋と貴船神社の鳥居

2010年1月17日分の最後として冷泉家を書き上げたことで、2009年の晩秋から冬にかけての京都訪問をやっと終了した。その後BIGLOBEウェブリブログの大幅な仕様変更に伴い、徘徊の記憶の調整と新しいブログ 徘徊の記憶│Haikai no kiokuの立ち上げに1年近い時間を費やしてしまった。やっと立ち上がった徘徊の記憶│Haikai no kiokuも、実はまだまだ修正しなければならない所が山積みになっている。しかし修正ばかりを行なっていル訳にもいかないので、修正作業を継続しながら新たな投稿も行なっていくこととした。

ということで、ここからは2010年9月の3日間の訪問を書いていくこととする。今回の訪問地は今まで行くことのできなかった遠い場所を選んだ。1日目は鞍馬、貴船から岩倉にかけての左京区の北側の部分。2日目は大原野から善峯寺にかけての西山、そして3日目は今まででも一番遠い、山国とよばれる右京区京北から梅ケ畑を巡るものである。一応スケジュールを立てて出発はしたものの、やはり市内での移動とは異なり、なかなか乗り継ぎ等が容易ではなく、当初の予定通りには進まない旅となった。

第一日目は5時過ぎに四条室町のホテルを出発し徒歩で京阪電鉄 祇園四条に向かった。さすがにこの時間はバスもなく、駅までの移動の手段は徒歩しかない。先ずは京阪電鉄で出町柳へ、急いで6時15分発の叡山電鉄に乗り換え貴船口を目指す。出町柳を出発した叡電は岩倉までは町中を進むが、市原あたりから山中に入る。鞍馬線の終点となる鞍馬から1つ手前の貴船口は、府道38号 京都広河原美山線の鞍馬街道と府道361号 上黒田貴船線の分岐路にある。ここまで出町柳から30分と時間的には短いものの、かなり山中まで入ったという印象が強い。貴船口のプラットフォームは府道361号を跨ぐため、道の上部に架けられている。フォームから下りて駅舎を出るとすぐに府道361号がある。周囲には店舗や観光施設は一切無い。貴船神社への参拝や川床旅館への最寄り駅にもかかわらず、実に簡素なものである。また7時前と早朝であったためか殆ど人影は見えない。この日の旅の目的は、今まで訪れたことのなかった貴船神社と鞍馬寺を詣でることであり、先ずは開門時間の無い貴船神社から巡る事とした。

先ず行なうべきことは本日の出発点がどのような場所かを確認することと考え、駅より100メートル南に戻ると府道361号と鞍馬街道(府道38号)の分岐地点が目の前に現れた。この2つの府道の分岐点はまた鞍馬川と貴船川の合流点でもある。鞍馬川は一級河川で鴨川の支流にあたる。花背峠南麓に発し府道38号に沿った南流と鞍馬北縁の天ヶ岳南麓に発する南西流が鞍馬山北東の扶桑橋で合流する。つまり鞍馬川は鞍馬街道に沿って北東からこの合流点に流れ込んでくる。一方、芹生峠を源とする貴船川は貴船の山間集落を府道361号に沿って流れ下りてくる。貴船口でこの2つの川は合流し鞍馬川となり叡電に沿って南下する。そして市原で流路を西に変え、左京区静市市原町(京都産業大学総合グランドの北側)で賀茂川に合流する。

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叡山電鉄鞍馬線 貴船口駅
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叡山電鉄鞍馬線 貴船口駅 駅舎

この貴船神社と鞍馬寺のある地域は山城国愛宕郡に属し、昔から鞍馬とよばれてきた。「日本歴史地名体系27 京都市の地名」(平凡社 1979年刊)によれば、もともと鞍馬寺門前と貴船村は同一領域であった。しかし延暦15年(796)に鞍馬寺が勅命により定額寺となり寺領を得たことにより二地に分かれ、鞍馬寺門前が門前村となり、貴船村は貴船神社の社領に、そして村民は貴船社神人となっていった。
明治22年(1889)の市町村制施行により、鞍馬村(鞍馬寺門前)と貴船村は二之瀬村(現在の鞍馬二之瀬町)と合併し、再び(京都府愛宕郡)鞍馬村となった。北は別所村・丹波国芹生村、南は野中村、東は静原村、西は中津川村に接する鞍馬街道沿いに発達した地域が村域となった。中世より当地は京都と丹波、若狭を結ぶ軍事的な要衝として位置づけられ、鞍馬寺衆徒の活発な活動が見られた。また洛中の合戦から身を守るための貴族達の避難所的な性格も持ち合わせていた。承久の乱勃発時には土御門上皇、順徳上皇等が貴船に逃れるという事態も生じている。
明治時代に入り鞍馬寺は、境内山林等が上知となり財政的に逼迫する。一方の貴船神社は明治4年(1871)に上賀茂社から独立している。これは時期不明ではあるが平安期に上賀茂社の末社となり貴船が上賀茂社領になって以来の大きな転換点となり、鞍馬地域の性格を大いに変えることにもなった。昭和4年(1929)鞍馬電鉄が山端(現在の宝ヶ池)から鞍馬までの営業を開始した。京都電燈叡山電鉄が山端駅に乗り入れたことにより、鞍馬から出町柳駅までの直通運転が可能となった。洛北に残された静寂の地にも観光の波が押し寄せる契機となった。
昭和22年(1947)には鞍馬寺が鞍馬弘教を開宗し、2年後には天台宗から独立し鞍馬弘教総本山となる。もともと鞍馬寺は寛喜元年(1229)に青蓮院門跡座主が鞍馬寺検校職を兼務して以来、青蓮院の末寺となっていた。さらに享保15年(1730)には日光輪王寺の末寺にもなった。幕末の安政2年(1855)には日光輪王寺の末寺だけになったが、再び明治元年(1868)には青蓮院の末寺に加えられている。そのような変遷を経て第二次世界大戦後に、単立という新たな出発を果たしている。鞍馬寺が独立した昭和24年(1949)鞍馬村は岩倉、八瀬、大原、静市野、花背、久多村とともに京都市左京区に編入されている。そしてこの時を以って律令制によって定められた愛宕郡は消滅した。

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貴船神社 鳥居
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貴船神社 鳥居

この項の最後として、手元にある地名事典等を使い鞍馬の地名の由来について調べてみる。「角川日本地名大辞典26 京都府上巻」(角川書店 1982年刊)では「竜王岳の北方に位置する。四方を山林に囲まれ、中央部の谷間を鞍馬川が南流する。同川に沿って山間集落を形成する洛北仙境の地。」と説明した上で、鞍馬の地名の由来を下記のように記している。

地名由来は「都花月名所」に、天武天皇が大友皇子に追われて当地に逃れ、鞍をつけた馬をそのままつないだことによるとあるが、一般には鞍馬寺の寺名によるという。

出典となった「都花月名所」は秋里籬島が寛政5年(1793)に刊行した名所図会である。秋里は「都名所図会」の著者であり名所図会あるいは地誌の先駆者でもある。「新修 京都叢書 第2巻」(光彩社 1967年刊)に所収されている「都花月名所」を参照すると、「看花」の条で御室、嵐山、華頂山、醍醐などに続き鞍馬が以下のように記されている。

鞍馬 北山 昔天武帝大友王子に襲れ此所まで逃のぶ給ふて鞍をける馬を繋ぎしよりくらまと呼ぶ。

この部分が「角川日本地名大辞典」の記した由来のひとつとなっているが、同書は鞍馬寺の寺名説の方が有力であるとし、「[古代]鞍馬 平安期に見える地名。山城国愛宕郡のうち。鞍馬寺と結びついた地名で、鞍馬あるいは鞍馬山が同寺を指す場合が少なくない。」としている。なお鞍馬寺の条を参照しても寺名の由来は記されていない。
前掲の「日本歴史地名体系 京都市の地名」は、直接地名の由来について記述していないが、鞍馬寺の条に下記のような白馬伝説を見ることができる。

鞍馬蓋寺縁起では宝亀元年(770)2月4日、鑑真和尚の弟子鑑禎が夢で山城国北方の霊地を知り、宝鞍の白馬に導かれて赴いた。その夜鬼が現れたが毘沙門天により災いを逃れたので、鑑禎は毘沙門天像を彫し草堂を結んだのが当寺の起こりという。

さらに続けて

なお同縁起は、伊勢人が観音を安置する一堂の地を求めていたところ、夢に貴船明神が現れて教示し、自らの白馬を放って止まったところが先の毘沙門天の草堂であった。そこで観音と毘沙門天を、神仏習合の本地是一の思想によりともに安置した堂舎を建立したと、これも白馬伝説を交えて説く。

と2つ目の白馬伝説も紹介している。

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貴船口

京都出身の郷土史研究家 竹村俊則は鞍馬という地名をどのように考えていたか?「昭和京都名所圖會 洛北」(駸々堂出版 1982年刊)で下記のように記している。

『大和本紀』によれば、鞍馬というのは天武天皇が大友皇子に追われ、矢背(八瀬)の里よりこの地に逃げのび、城を構え、馬に鞍を置いたままでつないでおかれた故に因るといわれるが、これは地名付会の説で信じられない。「くらま」は闇部・暗部の転訛したもので、樹木がうっそうと生い茂り、昼なお暗いところから称したものであろう。後世、山谷の形に付会して鞍馬の字を当てたものとみられる。

天武天皇白馬伝説を否定することに関しては上記の「角川日本地名大辞典」と同様である。竹村はすでに昭和34年(1959)に刊行された「新撰京都名所圖會」でも同様のことを記しているので、最初から天武天皇の白馬伝説ではなく闇部転訛説を推していたとみてよいだろう。

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貴船口 梶取橋
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貴船口 梶取橋

比較的新しい「京都の地名 検証2」(勉誠出版 2007年刊)の鞍馬の条(木村恭造著)では、天武天皇の白馬伝説や闇部転訛説を簡単に紹介した上で、朝鮮語の谷や渕という「コル」が「クラ」に転じたという吉田金彦氏の説(「京都の地名を歩く」(京都新聞出版センター 2003年刊))を採用している。つまり鞍馬川流域の北東から南西に連なる谷の地形が地名の由来となっているという。さらにその谷の地域とか周辺を意味するzoneが「マ」という語となったと推測している。この後半の「マ」の部分については吉野政治氏の「古代の基礎的認識語とその敬語の研究」(和泉書院 2005年刊)を参考としているようだ。
さらに続編となる「京都の地名 検証3」(勉誠出版 2010年刊)でも鞍馬(綱本逸雄氏著)を取り上げ、次の3つの説を整理している。第1の説は鞍馬の「クラ」に着目し「全国のクラ地名と同様に崖や谷を意味し岩場の多い峻険な山とか、朝鮮語の「コル」(谷・渕)から転訛した説」。上記の「京都の地名 検証2」の説はここに含まれるようだ。第2は「木々に覆われていて、いつも暗い所という意味で「暗部(闇部)」の読みが鞍馬に転じたとする説」。竹村俊則の説や歌枕として用いられてきた「くらぶ山」もこの説に含まれる。「日本歴史地名体系 京都市の地名」にも「暗部山」という条が鞍馬山の次に記されているが「著名な歌枕だが所在不明。」としている。つまり近世の地誌においても鞍馬山から貴船山そして嵯峨野まで諸説があり、同定できていないということらしい。第3は「「鞍馬蓋寺縁起」に載る白馬伝説が由来とする説」である。「京都の地名 検証3」は第2の暗部説については暗部山が鞍馬山に断定できないこと、第3の白馬伝説も鞍馬寺の縁起を史実とする裏づけが得られないことから採用していない。そして同書は第1の谷を意味する「クラ」説を採用している。鞍馬寺が建立される以前から鞍馬山一帯は神の住む場所として信じられ、そのことが白馬伝説を産み出したとしている。「神の座す場を馬具の鞍に見立て」たことから鞍馬の地名が生じ、鞍馬山周辺の地形と馬具の鞍の形状が一致することも確認している。
何れの説が正しいかは別として、この3つの説が現時点での地名としての鞍馬の由来であると考えてよいであろう。

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貴船口 貴船川

「鞍馬」 の地図





鞍馬 のMarker List

No.名称緯度経度
 叡山電鉄鞍馬線 貴船口 35.1059135.7636
01  貴船神社 梶取橋 35.1051135.7637
02  貴船神社 一之鳥居 35.1048135.7637
03  梶取社 35.1047135.7636
04  貴船神社 本宮 35.1216135.7629
05  貴船神社 結宮 35.1257135.764
06  貴船神社 奥宮 35.129135.765
07  貴船山 35.004935.0049
08  貴船川 35.1181135.7618
09  鞍馬寺 35.1177135.771
10  鞍馬山 35.1238135.7715
11   鞍馬川 35.1125135.7729

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