貴船
貴船(きぶね) 2010年9月18日訪問
前項では鞍馬という地名について書いてきた。この項では明治以降の山城国愛宕郡の変遷を辿りながら貴船の地名について調べてみる。
平安時代中期に作られた辞書「和名類聚抄」には全国の国名・郡名とともに郡内の郷についての記述がある。山城国は、乙訓(於止久)、葛野(加止乃)、愛宕(於多岐)、紀伊(岐)、宇治(宇知)、久世(久世)、綴喜(豆々岐)そして相楽(佐加良加)の8郡で構成されている。()内は訓であり愛宕は「あたご」ではなく「おたぎ」と呼んでいたことがわかる。さらに郡内には、蓼倉郷(多天久良)、栗野郷(久留須乃)、上粟田郷(阿波多)、大野郷、下粟田郷、小野郷(乎乃)、錦部郷(尓之古利)、八坂郷(也佐加)、鳥戸郷(止利倍)、愛宕郷(於多木)、出雲郷(以都毛)(在上下)、賀茂郷などの12の郷があった。当時の愛宕郡を現在の行政区画に割り当てると、北区の一部(上賀茂、出雲路から紫野、紫竹、大宮、西賀茂、小山、鷹峯、雲ケ畑を冠称する各町)と東山区の一部(粟田口から清閑寺、今熊野、泉涌寺を冠称する各町)そして左京区の大部分と一致する。このようにして古代に制定された山城国愛宕郡は大きな変化もなく明治時代を迎える。
慶応3年(1867)12月、王政復古が宣言され徳川慶喜が京を退き大阪に入ると、薩摩、長州、土佐、尾張、越前などの王政復古府勢力は京都所司代と京都町奉行を廃止している。そして京都市中の治安を維持するため、同月13日に膳所、篠山、亀山三藩の京都留守居役に京都町奉行に代わり市中取締に当たることを命じている。三藩は蔵人の見習いである雑色を役人に加え、室町三条上ルの雑色詰所に仮役所を設営、早くも15日には訴訟等を受理し民政に当たる旨を各町村に触れている。こうして新政府による京都行政はバタバタと始まっていった。
鳥羽伏見の戦いに勝利した新政府は1月11日に再び市中取締仮役所を東町奉行所跡地に移している。室町三条上ルに仮役所が設けられ、次いで近隣の三条烏丸東入ルの旧教諭所(江戸時代中期以後,全国に設けられた庶民教化のための施設)に移した市中取締役所を、今度は徳川幕府が300年以上京都を統治してきた地、すなわち二条城の西南に移設している。新政府が徳川幕府に代わる唯一の政体となることを京都の市民に示す出来事ともいえる。
京都府史料 政治部府治類の慶応4年(1868)2月19日の条は、市中取締役所を統括する役職として京都裁判所総督を設置したことを記している。(「史料 京都の歴史 第3巻 政治・行政」(平凡社 1979年刊))当時の裁判所は司法権を行使する現在の組織とは異なり、諸藩に属さない直轄地を治めるために設けた地方行政機関であった。さらに同年3月3日の条で市中取締役所を京都裁判所へ改称、閏4月25日の条では京都裁判所自体を京都府に改めたことも記している。前年の12月に急遽発足した市中取締役所は半年を経ずして解消され、今に続く行政機関としての京都府が誕生したわけである。この時の京都府域は山城国だけであり、なおかつ藩領を除くものであった。
明治時代初期、政府は江戸時代における日本全国の村落の実情を把握するため各府県に台帳、すなわち旧高旧領取調帳を作成させている。もちろん徳川幕府に代わり国民から税金を徴収するための調査である。取調帳は旧村名・旧領名・旧高・旧県名の4種類の項目について郡別にまとめられ、概ね慶応年間から明治4年(1871)頃までの実情を調べている。ちなみに山城国は「明治元年取調旧高」となっているので、布告されてすぐに作成したのであろう。この取調帳の原本は内務省地理局地誌課で保管していたが、残念ながら関東大震災の際に全て焼失している。原本は失われたものの筆写本が残されており、欠落部分の補完と誤写の校訂を行なったものが日本史料選集(3,11、13、16、18、19 近藤出版 1969~79年刊)として出版されている。さらに国立歴史民俗博物館は自ら校訂を加えた上でデータベース化し同館のホームページ上で公開している。2020年6月現在、「旧郡名」=「愛宕郡」で検索すると427件がヒットし、「旧村名」吉田村が7つも表示される。これらは吉田村の「旧領名」が吉田家領、北小路家領、小堀数馬支配、羽倉信義知行、赤塚正性知行、松室重篤知行、摂取院領と7人の領主によって分割されていたために生じている。この427件を「旧村名」でマージすると90件=90村となる。これが明治初年の愛宕郷の村数であると思われる。この方法でカウントすると愛宕郡90村、葛野郡83村、乙訓郡52村、宇治郡43村、紀伊郡33村(納所村、水垂村、大下津村の3村の一部は分割されて淀藩へ編入されている)、久世郡39村のうちの19村、綴喜郡59村のうちの43村、相楽郡92村のうち56村が含まれたとされている。戊辰戦争中の混乱期であり廃藩置県の前であったため、京都府には藩領は含まれなかったのである。
明治4年(1871)の廃藩置県を経て、京都府は淀、亀山、園部、綾部、山家の4藩の領地を併合、さらに明治9年(1876)8月21日には福知山、宮津、田辺、峰山藩が統合されて発足した豊岡県も京都府に加えられた。こうして京都府は山城国と丹後国そして丹波国の大部分を占める現在の府域とほぼ同じ行政区分になった。明治12年(1879)4月10日に郡区町村編制法が施行される。従前の大区小区制が地方の実情に合わず不評であったため、これを見直すために導入した制度であった。旧来の郡町村制に戻すことで住民の便宜が図られた。この自治法の施行に伴い行政区分としての愛宕郡が発足し、郡役所が下鴨村に設置されている。なお同時に上京区と下京区の2区が京都府内に誕生し、愛宕郡の30町が上京区と下京区に編入されている。これ以降、京都の郡部から区部への編入が、中心部に近い地域から順次生じている。
明治16年(1884)には勝林院村や来迎院村など8村が合併して大原村に、明治17年(1885)には西紫竹大門村が鷹峯村に改称している。そして明治21年(1888)には再び、吉田村、岡崎村、聖護院村、浄土寺村、鹿ヶ谷村、粟田口村、南禅寺村が上京区に、今熊野村、清閑寺村が下京区に合併されている。
明治22年(1889)4月1日、町村制の施行により以下の17町村が発足している。市制・町村制は明治憲法下で、地方公共団体としての町村の構成・組織・権能・監督などを定める法律で、政府が国会開設に先立ち地方統治構造を固めるために前年の21年に公布している。この制度により市町村の合併が進む一方、内務大臣の強い統制下に置かれたことで町村の自治権は弱かったとされている。上京区と下京区が合併して京都市が発足したが、両区共に京都市の行政区として残る。
白川村
田中村
下鴨村
鞍馬口村
修学院村
松ヶ崎村
上賀茂村
大宮村
鷹峯村
雲ケ畑村
岩倉村
八瀬村
大原村
静市野村
鞍馬村
花脊村
久多村
大正7年(1918)4月1日には、野口村、鞍馬口村、下鴨村、田中村、白川村および大宮村の一部と上賀茂村の一部が京都市上京区に編入され、13村が愛宕郡に残る。昭和4年(1929)には上京区から左京区、下京区から東山区、そして両区から中京区が分離し5区となっている。さらに昭和6年(1931)4月1日、上賀茂村、大宮村、鷹峯村が京都市上京区、修学院村、松ヶ崎村が京都市左京区に編入される。この時、葛野郡から右京区、伏見市と紀伊郡から伏見区が設立している。
そして残った8村も昭和24年(1949)4月1日に雲ケ畑村が京都市上京区、岩倉村、八瀬村、大原村、静市野村、鞍馬村、花脊村、久多村の7村が京都市左京区に編入が決まり、ついに律令制から続いてきた愛宕郡はここに消滅する。
山城国愛宕郡から京都府京都市への変遷は以上の通りである。最初に京都府が発足したのは慶応4年(1868)閏4月25日のことであった。その後、明治12年(1879)4月10日の郡区町村編制法により上京区と下京区の2区が京都府内にできるとともに、行政区分としての愛宕郡も発足し下鴨村に郡役所が設置されている。
京都市の設立は、これより10年遅い明治22年(1889)4月1日の市制・町村制の施行による。この時、愛宕郡も村の合併が行われ17町村になったが、区部への編入はこの後も続き郡域も村数も徐々に減少していく。そして昭和24年(1949)4月1日の変更により残った8村が区部に編入され、愛宕郡は消滅する。ちなみに葛野郡は小野郷村と中川村が昭和23年(1948)4月1日に上京区に編入されたのを以って消滅している。紀伊郡はやや早く昭和6年(1931)の編入によって終了している。乙訓郡は昭和47年(1972)10月1日に向日町と長岡町がそれぞれ向日市と長岡京市(長岡市から即日改称)に分離しているが、大山崎町があるため現在も乙訓郡の郡名は久世郡、綴喜郡、相楽郡とともに残っている。
貴船村は二ノ瀬村の北、貴船川と鞍馬川の合流地である貴船口より約二キロ貴船川に沿って北上したところに位置する山間集落の地名であり、古くは貴布禰、木船とも記されてきた。この「きふね」について、「日本歴史地名体系27 京都市の地名」(平凡社 1979年刊)は貴船神社の社伝を引用し樹木生い茂る樹の神の意味である木生根、木生嶺であったとしている。京都出身の郷土史研究家 竹村俊則も「昭和京都名所圖會 洛北」(駸々堂出版 1982年刊)で下記のように記している。
貴船はふるくは木船・貴布禰とも記す。創祀は延暦遷都以前と思われ、社傳によれば玉依姫(神武天皇母后)が貴船に召して浪花(大阪)より淀川に入り、賀茂川を経て鞍馬・貴船川をさかのぼり、遂にこの地に上陸されたといわれ、そこに一宇の祠を営んで祀ったのが当社の起りと傳える。しかしこれも地名付會に依る傳説である。貴船は元来木生根、木生嶺であって、はじめは樹木生い茂る樹の神として崇敬されていたのが、桓武天皇が都を京都にうつされてより、こゝが都の北方にして皇居の御用水たる賀茂川の水源地にあたるところから川上神とあがめられ、水を司る神(彌都波能賣神)を祭神とされたのであろう。
竹村は玉依姫が船を仕立てて賀茂川を遡り貴船に着いたという伝説から社名となったのではなく、樹木生い茂る樹の神という木生根や木生嶺がこの地の地名となり、それが貴船神社の社名となったと考えている。
「京都の地名を歩く」(京都新聞出版センター 2003年刊)で、鞍馬のクラは谷という意味で、もとは朝鮮語の谷や渕という「コル」が「クラ」に転じたとする吉田金彦氏は、貴船のキブネには「人の往来する意味がある」としている。
山城の貴船は、おそらくキノフネ(岐の経根)ということで、キは人の往来することを表わすキ(来)であり、そこにあるフネ(経由する所)というのが語源なのであろう。水の神をそこに祭ったから“貴船”という文字を当てるようになったものと思われる。
貴船は芹生へ、鞍馬は花背へと連なり滋賀県の朽木村に至る。このクツキ(朽木)は、クツ(沓掛などろいうクツ)キ(往来のキ)の意味で、西近江から若狭・敦賀へ行き来する出入口の機能を果たしている。
元禄13年(1700)から同15年の(1702)かけて作成された「元禄郷帳」には二瀬村(34.97石)と鞍馬寺門前(193.377石)はあるが残念ながら貴船村の記述は見当たらない。ただし元禄国絵図の山城国には貴布祢社の脇に貴布祢村という文字が確認できる。
天保年間に作成された「天保郷帳」では貴布祢村(9.4026石)、二之瀬村(35.6513石)、鞍馬時門前(216.757石)と記されている。同様の内容が天保国絵図にも描かれている。何時の時点で鞍馬村と別れたかは明らかではないものの、少なくとも江戸時代には鞍馬村と貴船村は地名として分けて用いられていたようだ。
明治20年(1887)にまとめられた「地方行政区画便覧」を参照すると、二之瀬村、貴船村、野中村、市原村、静原村、鞍馬村の6村、別所村、大布施村、八枡村、原地新田の4村と久多村1村が記されている。明治22年(1889)4月1日、町村制の施行により二之瀬村、貴船村、野中村、市原村、静原村、鞍馬村の6村の内の市原、野中、静原が静市野村となり、二之瀬、貴船、鞍馬が鞍馬村となっている。ちなみに別所、大布施、八枡、原地新田は花背村に久多村はそのまま久多村となっている。つまり町村制が施行された明治22年より貴船村の名称は行政区画からなくなり、鞍馬村の大字となっていた。
次に貴船の地名が現れるのは愛宕郡鞍馬村が左京区に編入される昭和24年(1949)4月1日のことであった。静市野村が静市静原町、静市市原町、静市野中町となり、花背村も花脊別所町、花脊大布施町、花脊八桝町、花脊原地町とかつての村名を冠称する地名に変わった。鞍馬村も大字鞍馬が鞍馬本町となりそれ以外の鞍馬二ノ瀬町と鞍馬貴船町は鞍馬を冠称し旧大字名を継承する地名となった。ちなみに久多村は久多下の町、久多川合町、久多中の町、久多上の町、久多宮の町の5つに分かれた。
「貴船」 の地図
貴船 のMarker List
No. | 名称 | 緯度 | 経度 |
---|---|---|---|
▼ 叡山電鉄鞍馬線 貴船口 | 35.1059 | 135.7636 | |
01 | ▼ 貴船神社 梶取橋 | 35.1051 | 135.7637 |
02 | ▼ 貴船神社 一之鳥居 | 35.1048 | 135.7637 |
03 | ▼ 梶取社 | 35.1047 | 135.7636 |
04 | ▼ 貴船神社 本宮 | 35.1216 | 135.7629 |
05 | ▼ 貴船神社 結宮 | 35.1257 | 135.764 |
06 | ▼ 貴船神社 奥宮 | 35.129 | 135.765 |
07 | ▼ 貴船山 | 35.0049 | 35.0049 |
08 | ▼ 貴船川 | 35.1181 | 135.7618 |
09 | ▼ 鞍馬寺 | 35.1177 | 135.771 |
10 | ▼ 鞍馬山 | 35.1238 | 135.7715 |
11 | 鞍馬川 | 35.1125 | 135.7729 |
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