鬼一法眼之古跡
鬼一法眼之古跡(きいちほうげんのこせき) 2010年9月18日訪問
貴船口から鞍馬街道を北に進むと右手の高台に大きな椋の木が現れる。その傍らには石寄大明神があり、御社に向かい合うように鬼一法眼古跡の石碑が建つ。この石碑はフィールドミュージアム京都 いしぶみデータベースにも鬼一法眼古跡 SA001として掲載されている。その碑文から鞍馬校職員生徒が100年以上前の大正4年(1915)11月10日に建立したことが分る。
正徳元年(1711)に刊行された「山州名跡志」(「新修京都叢書第十八巻 山州名跡志 乾」(光彩社 1967年刊))にも、この地に鬼一法眼塚があることが以下のように記されている。
帰一法眼塚 在リ二梶取ノ社ヲ為メレ左ニ到ヿレ北ニ半町東方ニ一 是レ則判官義経若年ノ時。兵術ノ師ナリト云フ。此所ニ塚ヲ築コト 未レ考
「山州名跡志」は神社・仏閣・名所旧跡の由来、縁起等を記した山城国の地誌である。作者の白慧(坂内直頼)自らが元禄年間(1688~1704)に実地踏査を行って纏めたもので、総巻数22巻にも及ぶ。古書の記載と当時の状況との相違について考証を行なうなど山城国研究の基本的な書籍でもある。「此所ニ塚ヲ築コト 未レ考」の記述より、鞍馬に鬼一法眼の墓があることについて深く考証することを差し控えた、すなわち史実では無い と郷土史研究家の竹村俊則は推測している。
名所紹介の図会に法眼塚が掲載され世間一般に広まるのは、天明7年(1787)秋に刊行された拾遺都名所の頃からと思われる。
帰一法眼塚〔梶取社の北半町ばかり東の方にあり。是則源牛若丸鞍馬に住居のとき、兵術の師なりといふ〕
拾遺都名所は都名所図会の後編として、本文を秋里籬島が著わし図版は大坂の絵師竹原春朝斎が描いた墨摺五冊本である。なお表記は「山州名跡志」と同じく帰一となっているが、後述するように鬼一法眼のことである。
上記の竹村俊則は昭和34年(1959)に著わした「新撰京都名所圖會」で以下のように記している。
鬼一法眼古址は楫取社より東、鞍馬街道に面する南側にある。くすの老木の下に一個の石碑をたてゝ鬼一法眼の墓とつたえる。(中略)歌舞伎狂言「鬼一法眼三略巻」はこれに因んで作られたもので、世に流布する義経傳説の一つである。この遺蹟は義経と鞍馬に結んで後世つくられたものであろう。
四半世紀後に書き改めた「昭和京都名所圖會 3洛北」(駸々堂出版 1989年刊)でもほぼ同じ表現となっている。
鬼一法眼古址は楫取社より東へ五〇メートル、鞍馬街道の南側とつたえ。現在六・七百年とつたえる「くす」の大木の下に「鬼一法眼之古跡」としるした石碑が建っている。(中略)江戸時代にはこれをテーマ(「義経記」)として浄瑠璃「鬼一法眼三略巻」がつくられ、さらに歌舞伎芝居にも上演されて、いやが上にも有名になった。この遺蹟は義経と鞍馬に結んで後世つくられたものであろう。
竹村の鬼一法眼塚に対する見方は「義経と鞍馬に結んで後世つくられたもの」ということで変わってはいない。また「京都伝説の旅」(駸々堂出版 1972年刊)でも「この辺はもと墓地であったが、付近に鞍馬小学校の運動場を拡張する際、石棺と思われる石が発掘された。しかし、後難をおそれた人々がそのままにしたことから法眼墓説が生まれたのである。」と記している。この石棺らしきものが発掘された時期は明記されていない。京都府愛宕郡鞍馬小学校が創設されたのは明治8年(1875)と古いが、鞍馬村梶取に校舎が新築されたのは明治33年(1897)11月のことであった。そして18年後の大正4年(1915)に鞍馬校職員生徒が石碑を建立している。碑文が塚ではなく、例えば法眼の屋敷があったとするような古跡としていることから、発掘は石碑建立後のことであったのかもしれない。また「山州名跡志」が記すように既にこの地には法眼塚伝承があったので、新たに法眼墓説が生まれた訳ではなく、発掘後にそのような伝承が強くなったという意味であろう。
ここからは、鬼一法眼と義経記について書いていく。
鬼一法眼とはいかなる人物であったのだろうか?Wikipediaの鬼一法眼の条を参照すると以下のようにある。
鬼一法眼(きいちほうげん、おにいちほうげん)は、室町時代初期に書かれた『義経記』巻2に登場する伝説上の人物。
伝説上の人物とは実在しない者という意味もあるが、この場合は実在が確認できない人物と考えた方が良いだろう。この鬼一法眼の存在に対する疑問は、かなり昔から存在していたようである。綿谷雪の「図説・古武道史」(青蛙工房 1966年刊 2013年新装版)では以下のように紹介している。
世に「京八流・鹿島七流」の語があって、上方の剣法の淵源は鬼一法眼に発して京八流(―鞍馬八流)に分かれ、関東の淵源は鹿島の神官に発して関東七流ができたといい=貝原益軒『知約』、また判官流伝書に、「鬼一法眼―源判官義経」の次に「祐頼・清尊・朝範・性尊・隆尊・光尊・性祐・了尊」の八名を挙げて、「右八人鞍馬法師」と付記している。
ところが、その鬼一法眼の実体が、しごくあやふやである。一に帰一。名は憲海。今出川義円と自称したとか、伊予国吉岡村、傔杖律師三代目の孫吉岡憲清の子で、陰陽博士安倍泰長の門人。在府頼長から六韜・三略をさずけられ軍法の巨匠になった、などという俗説もあるが=『義経勲功記』、たしかな根拠は一つもない。
つまり鬼一法眼は日本の剣術の源流とされる京八流・鹿島七流の内、京に伝わる八つの流派の始祖にあたる。源義経に剣法を教えるとともに、鞍馬寺の8人の法師に伝授したことで京八流の始祖とされている。ただし京八流に関する文献は室町期以降に消失しているため、現在その実態を把握することは難しい。
ちなみに帰一という名がここで出てくるので、山州名跡志や拾遺都名所が「帰一法眼塚」とするのは間違いではないようだ。
また法眼は陰陽師であり六韜三略を授けられた兵法師であったなどという俗説もあるが、いずれも裏付けのない説ということらしい。綿谷は江戸時代中期の儒学者・荻生徂徠の『南留辺志』や同時代の篠崎東海の『不問談』などが紀一の文字に置き換えて紀氏の惣領とするのも推測の域を出ないとしている。また、江戸時代後期の戯作者・高井蘭山は中国古典の鬼谷子になぞらえた架空人物としたことも紹介している。このように江戸時代の中期頃から、すでに鬼一法眼の存在に対する疑問が湧き出ていたことが分かる。さらに鬼一の出身が吉岡村で、名乗ったとされる姓の今出川は足利将軍家の兵法所となった吉岡憲法(直綱)代々の住地であること、義円が義経の同母兄の名であったことを綿谷は指摘している。これらから鬼一法眼の名前や経歴は法眼に関連する人々の氏名から合成されたもの、あるいはそれらの人々との関係を連想できるように作られたものという推測も可能となる。
鬼一法眼が在府頼長(悪左府 藤原頼長)から授けられたとされる六韜三略は中国を代表する兵法書・武経七書の一つ。六韜三略と一緒に言われることもあるが、元々は別の兵書である。
六韜は秦の統一以前の戦国時代(紀元前5世紀~紀元前221年)に成立したと考えられ、一巻に「文韜」「武韜」、二巻に「龍韜」「虎韜」、三巻に「豹韜」「犬韜」の60編から構成されている。この内、「虎韜」は虎の巻と呼ばれ、兵法の極意を記した書という意味で有名である。
三略は『黄石公記』『黄石公三略』とも称される上略、中略、下略の3つで構成されている。そのため「三略」と呼ばれている。太公望が書き神仙の黄石公が選録したとされているが、後世の人物が太公望や黄石公に仮託して書いた偽書とも考えられている。「柔能く剛を制す」の出典としても有名。
この六韜三略が日本に入ってきたのは10世紀始めのことで、唐で学問を修めた大江維時が日本に持ち帰った書籍の中に含まれていた。しかしこれらの兵法書が人の耳目を惑わすものになると考え、他家に秘し大江家のみに伝えられてきた。
このように伝説上の人物と考えられる鬼一法眼と歴史上実在した源義経との接点を探るためには『義経記』を読まなければならない。『義経記』は源義経とその主従を中心に書かれた作者不詳の軍記物語である。全8巻構成で南北朝時代から室町時代初期に成立したと考えられている。源義経の生涯を描いた物語ではあるものの、頼朝の命を受けて木曽義仲を都から追い出し、平家を一の谷、鵯越、さらに壇ノ浦まで追い詰めて壊滅させる辺りの最も義経にとって華やかな時期は平家物語の方が詳しく記されている。むしろ今まで歴史に現れてこなかった牛若丸時代から奥州藤原氏を訪ねる辺り、そして梶原の讒言による都落ちから秀衡を頼って平泉へと逃れついには衣川合戦で自害する辺りの記述に多くの頁を割いている。
『義経記』の巻1は義朝都落の事から始まり、遮那王殿鞍馬出の事で終わる。義経と鬼一法眼の物語が記されている巻2は、鏡の宿にて吉次宿に強盗入る事から義経鬼一法眼が所へ御出での事まで。そして巻3は熊野別当乱行の事から、頼朝謀反により義経奥州より出で給う事までで、弁慶の生い立ちから義経の君臣になることまでも含まれている。この巻1から3までが歴史に現れる前の牛若丸時代の物語である。この時期の義経はまだ史料に登場していないため、色々な異なった伝説が一つの物語として纏められている。
巻4は頼朝義経対面の事から始まるが、木曽義仲、平家討伐は義経平家の討手に上り給う事で完結し、すぐに、腰越の申し状の事、土佐坊義経の討手に上る事、義経都落の事、住吉・大物二箇所合戦の事と義経が劣勢に追い込まれる部分に変わっていく。そして巻5から巻8までは義経主従の艱難辛苦が延々と続く。前半が牛若丸物語としたら後半は義経追討記である。つまり『義経記』がまとめられたのは、源義経という若き英雄の功績を称えるものではなく、むしろ義経主従の悲劇を描くためにあったとも云える。ある意味で偏ったとも言える『義経記』の構成について、高橋富雄は「義経伝説 歴史の虚実」(中央公論社 1966年刊)で以下のように記している。
歴史(事実)のないところに新しい歴史(虚構)を成立させ、確かな歴史のあるところでは、歴史を避けて物語にこれを転じてゆく形で、伝記を形成するのである。あったかのような歴史、あってほしい歴史をつくりだそうとする姿勢、つまり歴史を借りたフィクションの構想は、部分的には『平家物語』や『源平盛衰記』にも見られたものであるが、『義経記』は、そのような例外的な本文とする形で、成立する。
『義経記』の「義経鬼一法眼が所へ御出での事」は以下のような話である。
奥州から都に戻った義経は、一条堀川の陰陽師鬼一法眼が秘蔵する兵法書六韜三略を手に入れようとする。法眼に拒絶された義経は「かうじのまつ」という女房を通じて法眼の娘に近づき契りを結ぶ。義経は娘の助勢を得てついに兵法書を手に入れる。これを知った法眼は怒り北白川の東海湛海坊に命じて義経を斬らせようとする。前より兵法書を得たいと思っていた湛海は伝授を約束に義経暗殺に加担する。法眼の企みを知った娘は義経に報せ、義経は危難を免れ兵法習得にも成功する。義経に去られた娘は焦がれ悲嘆して死んでしまう。
この鬼一法眼伝説は、源義経が天才的な軍略を手に入れる事ができた経緯を明らかにしている。そのため『義経記』にとって欠かすことの出来ない重要なエピソードでもある。義経の超人間的な早業や妖術は秘伝の兵法書・六韜三略を習得したことによるもので、その軍事的能力が常人と比べて如何に秀でていたかを印象付ける役割も担っている。すでに六韜三略を習得していた老練な兵法者 鬼一法眼は、若い義経に見事なまでに出し抜かれたことになる。そういう意味でも鬼一法眼は義経を引き立てるための脇役を演じることとなった。
室町時代初期にはすでに成立したと考えられている『義経記』の鬼一法眼伝説は江戸時代になって世間に広まって行く。浄瑠璃・鬼一法眼三略巻が大阪竹本座で初演されたのは享保16年(1731)のことであった。そして翌年には歌舞伎の演目となっている。
鬼一法眼三略巻と『義経記』の鬼一法眼伝説では若干異なった点が見られる。鬼一法眼は吉岡姓を名乗る源氏の侍であった。この法眼の館に下働きする奴に身をやつした虎蔵と智恵内が入り込む。二人の目的は法眼家に伝わる虎の巻を手に入れることであった。虎蔵は牛若丸、そして従者の智恵内は生き別れた鬼一法眼の弟の鬼三太という設定になっている。法眼の息女の皆鶴姫は牛若丸と知った上で虎蔵へ思いを寄せる。姫を娶り吉岡家の跡取り狙っていた法眼の弟子湛海は、牛若丸と鬼三太の目論見を知り清盛公に注進しようとするが、逆に虎蔵に斬り捨てられてしまう。
正体を明かし鬼一法眼との対決を決意した牛若丸の前に現れたのは天狗の面をかぶった鞍馬山の恩師僧正坊であった。鞍馬山で天狗の僧正坊と名乗り幼い牛若丸に軍法の奥義を教えていたのは鬼一法眼であったことがここで明かされる。今は平家の禄を食む鬼一は皆鶴姫に虎の巻を託し自害する。
以上が歌舞伎で演じられる鬼一法眼三略巻のあらすじである。『義経記』では弟子の湛海をけしかけ義経を亡き者にしようとした敵役が、娘の幸せと源氏再興を願い自害していくという善役に替わっている。この鬼一法眼三略巻では、鬼一法眼の果たすべき役割が全く逆転したと云ってもよいだろう。
この項の最初に参照した拾遺都名所が刊行されたのが天明7年(1787)であった。これは鬼一法眼三略巻が人形浄瑠璃として上演された享保16年(1731)から凡そ50年後のことであり、この頃には鬼一法眼の名は世間に既に広まり、鞍馬には法眼の墓があるという認識になっていたのであろう。
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