鉄輪掛石
鉄輪掛石(かなわのかけいし) 2010年9月18日訪問
鞍馬川に架かる梶取橋の北詰から叡山電鉄鞍馬線の高架の間に、宇治の橋姫にまつわる足酒石と鉄輪掛石があると比較的新しい書物にも掲載されている。しかし現状では見つける事ができない。ここでは足酒石に次いで、鉄輪掛石の謂れと謡曲「鉄輪」について書いていくこととする。
正徳元年(1711)に刊行された「山州名跡志」(「新修京都叢書第十八巻 山州名跡志 乾」(光彩社 1967年刊))には、足酒石についての記述はあるものの鉄輪掛石は見当たらない。また安永9年(1780)に刊行された都名所図会とその後編にあたる天明7年(1787)秋に刊行された拾遺都名所にも記述がない。
鉄輪掛石が現れるのは、竹村俊則の「新撰京都名所圖會 第二巻」(白川書院 1959年刊)である。貴船川の中の小項目として鉄輪掛石が以下のように記されている。
鉄輪掛石は貴船口駅の傍、梶取橋を渡ったところにある。むかし宇治の橋姫が丑の刻詣りをした時に、頭に冠った金輪をこゝへおいたといわれるもので、これは嫉妬の一念に凝った女が貴船神社に詣うで、霊夢の告げによって鬼となる方法を社人から授かり、恐ろしい鬼の姿となつて捨てた夫をとり殺さんとするところをm陰陽師安倍晴明に祈り伏されるという、謡曲「鉄輪」に因んだ傳説によるものである。また橋姫が足をすゝいだという足酒石は、橋の上流にある。
以上のような詳細な説明の上に、貴船口の鳥瞰図の中に鉄輪掛石と足酒石の位置を描いている。また「昭和京都名所圖會 3洛北」(駸々堂出版 1989年刊)の貴船川という項目の中で「川中には奇岩・怪石が多く、なかでも和泉式部の歌に因んだ「蛍石」、謡曲『鉄輪』に因んだ「鉄輪掛石」・「足酒石」等があり、また歌枕として古来多くの和歌にうたわれた川である。」と書いた上で脚注に「鉄輪掛石 梶取橋の北。貴船道の傍らにある。宇治の橋姫が丑の刻詣りのとき、頭に冠っていた金輪を置いた石とつたえる。」と補足している。
石田孝喜氏の「京都史跡事典」(新人物往来社 1994年刊)では、下京区鍛治屋町にある「43 鉄輪井」で謡曲「鉄輪」を説明した上で、「60 貴船」で鉄輪掛石の場所を「橋を渡ると、すぐ左手にある。」と記し、名所案内「鞍馬・貴船」の地図にその位置を描いている。
このように戦後に発刊された書物に足酒石や鉄輪掛石の記述があるにも係わらず、それらの写真の掲載はない。またネット上にも位置を特定した記述やそれらしき写真も見あたらない。伏水物語を主催されているSyoさんが洛雅記というサイト中に掲載している貴船道散策「貴船参り」には「貴船川の氾濫によって梶取橋と共に流出したと思われ、所在不明」と結論付けている。
足酒石で書いたように、平安時代前期に編纂された勅撰和歌集「古今和歌集」の巻十四恋歌四には以下の歌がある。
さむしろに衣片敷き今宵もや我を待つらむ宇治の橋姫
これは読み人知らずとして宇治地方で伝承されてきた歌であるが、その歴史はかなり古いものだと考えられる。男の訪問を待つ女の純真な心情を詠った恋歌であり、もととなった説話も地方に伝承されてきたもので宇治橋を守護する女神の物語であった。
宇治橋は大化2年(646)僧道登が架橋したとされている。これは橋寺放生院にある宇治橋の由来を記した石碑・宇治橋断碑による。江戸中期の寛政3年(1791)に橋寺放生院の境内から発掘されたが、断碑という名称の通り見つかったのは首部三分の一であった。幸い14世紀後半に成立した「帝王編年記」に碑の全文が収録されていたため、見つからなかった部分は補刻し現在の姿になった。
現在も橋姫神社はこの地にある。
橋姫神社の祭神は瀬織津姫。瀬織津姫は瀬織津比咩・瀬織津比売・瀬織津媛とも表記されるが、古事記・日本書紀には記されていない。水神や祓神、瀧神、川神であり九州以南では海の神ともされる。祓戸四神の一柱で祓い浄めの女神。人の穢れを早川の瀬で浄めるとあり、治水神としての特性もある。「京都伝説の旅」(駸々堂出版 1972年刊)によれば、その神像は裸形の鬼女が緋の袴をつけ、左手に蛇を握り、右手に釣針を持った物凄い形相の坐像という。橋姫神は縁切りの神と呼ばれ男女間の悪縁を断ち切ることを祈る信仰がある。これは橋姫伝説の嫉妬心の強い面が表に現れた結果であろう。そのため結婚式場への往復には宇治橋と橋姫神社の社前を通らないようにすると言われている。また橋の上を通れば橋姫神の妬みによって夫婦仲は末遠くまで通らないとし、宇治と久世二郡の民は嫁入りにあたって橋の下を舟で渡ったとされている。
これに対して合祀されている住吉三神は航海守護神と共に縁結びの神としての信仰を集めている。そのため「縁切り」と「縁結び」の2つの神様が同居する珍しい神社でもある。
ここからは、嫉妬心の強い橋姫が現れた背景について見て行く。鎌倉時代初期の歌人で新古今和歌集の撰者であった藤原定家は自らの「さむしろや待つ夜の秋の風ふけて月を片敷く宇治の橋姫」を新古今和歌集 巻四 秋上に選んでいる。定家による古今和歌集の注釈書・顕註密勘には、宇治地方の里民に伝わる口承説話を元に橋姫を主題とした恋歌を作ったことが分る。
宇治の橋姫とは、姫大明神とて宇治の橋の下におはす神なり。その御許へ宇治橋の北におはする離宮と申す神、夜毎に通ひ給ふとて、暁毎におびただしく浪の立つ音のするとなん、彼の辺に侍る土民達申し侍り云々
ここには橋姫の持つとされる嫉妬心は明らかに感じられない。定家は古今和歌集に選ばれた「さむしろに衣片敷き今宵もや我を待つらむ宇治の橋姫」と同じ主題で歌を詠んでいたと思われる。また定家の子の藤原為家が「古今為家抄」で取り上げた宇治川辺りに住む仲の良い夫婦の説話も同様である。夫を失った妻は悲しみ亡くなり橋守明神となったという話は、宇治川で発生した水難事故により夫を失った妻に対する同情心を煽るものであり、橋姫の暗い側面は現れていない。
しかし六条藤家を継ぐ藤原清輔の歌学書「奥儀抄」にある橋姫説話は若干異なる。2人の妻が夫の死に対して異なった反応を示す。本妻は夫の死を悼む部分は為家の「古今為家抄」に出てくる漁師の妻と同じであるが、後妻が夫残した歌が本妻を愛していたと知った時の感情は嫉妬心に他ならない。本妻を橋姫とするならば「古今為家抄」と同じ主旨の説話となるが、後妻を橋姫とするならば嫉妬心が前面に出た新たな橋姫物語となる。竹村俊則は「京都伝説の旅」の宇治の橋姫伝説で、本来本妻を橋姫とすべきところを清輔は誤って後妻を橋姫としたと考えている。
藤原清輔は六条藤家の三代目にあたり、歌学において御子左家の藤原俊成と対抗する関係にあった。特に二条天皇の歌壇においては六条藤家が重用されていたため、藤原俊成が歌壇で成功を治めるのは清輔の没後10年経ってからであった。清輔は俊成より10歳年長であった。俊成の子の定家とは40年近い隔たりがあった。つまり定家が古今和歌集時代の主題で「さむしろや・・・」の歌を詠むより半世紀近く前から嫉妬心を持った橋姫物語が存在していたことになる。
藤原為家の「古今為家抄」には、漁師の妻が橋姫となる説話の他に、父の定家の橋姫像とは異なった橋姫物語がある。それが嵯峨天皇の御代の嫉妬深き女の説話である。女は百夜鬼神となることを宇治川で祈ったことで、本物の鬼となり夫を奪った女を殺すことが叶った。それが宇治の橋姫であるとされている。嵯峨天皇は桓武天皇の子であるので平安遷都間もない頃の説話という設定である。ここには貴船神社は一切現れないが、嫉妬心に燃えた女は鬼神になり得ること示している。そして藤原清輔の橋姫物語の延長線上にある説話でもある。
藤原為家は鎌倉時代中期の人であったので、その著書「古今為家抄」に掲載された橋姫物語もほぼ同時代の説話と考えられる。この為家の橋姫物語をさらに恐怖を与えるように脚色したものが「源平盛衰記」の剣巻に掲載されている橋姫物語である。ここには源頼光・渡辺綱主従や安倍晴明が登場するので平安時代の中期の説話である事が分る。頼光に関する説話は橋姫物語以外にも酒呑童子討伐や土蜘蛛退治が平安時代末期の「今昔物語集」や室町時代になって成立した「御伽草子」に載っている。「源平盛衰記」については成立時期に関する諸説があり、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけてとしか言えない。いづれにしても「古今為家抄」よりも後の時代に作られたものと考えられる。
「源平盛衰記」の橋姫は最初の7日間、貴船神社に詣でて鬼神になることを祈った後、貴船大明神の示現があり、37日間宇治の河瀬に通い漬かったことで生ながら鬼になったとされている。つまり鬼になったのは貴船ではなく宇治であったため橋姫となったのであろう。
謡曲 鉄輪は作者不詳であるものの長享2年(1488)に演能記録があることから15世紀後半には成立していたと考えられる。つまり応仁の乱あたりの室町時代後期で、「源平盛衰記」よりも後の時代になる。謡曲 鉄輪のあらすじは以下の通りである。
貴船神社の神職に丑の刻詣でをする都の女に神託を伝えよという夢のお告げがあった。真夜中、神社に女が現れた。自分を捨てて後妻を娶った夫に報いを受けさせるため、都から幾晩も貴船神社に詣でていた。神職は女に、赤い衣を着、顔も赤く塗り立て、三つの脚に火を灯した鉄輪を頭に載せ、怒りの心を持ち続けるならば望み通り鬼になる、と神託を告げた。途中で怖くなった神職は逃げ出すが、女が神託に従うと雷鳴轟き髪が逆立ち、女の様子は一変する。恨みを晴らすと女は言い捨て、貴船を駆け去って行った。
下京辺りに住んでいた女の元夫は連夜の悪夢に悩み、高名な陰陽師 安倍晴明を訪ねていた。晴明は、夫婦の命は先妻の呪いにより今夜にも絶命する、その呪いは止めることはできないと見立てる。男の懇願に応じ、晴明は彼の家に祈祷棚を設け夫婦の形代を載せた。そして呪いを肩代わりさせるための祈祷を始める。そこへ鉄輪を戴き異形の姿となった先妻が現れる。鬼女は捨てられた恨みを述べた後、後妻の形代の黒髪に手をかけ散々に打ち据える。そして男の形代に襲いかかるが、神力に退けられ「またの機会を持っているがよい」と言残し鬼女は退散していった。
以上が大まかな鉄輪のあらすじである。「源平盛衰記」との一番の違いは、「鉄輪」には源頼光も渡辺綱も登場しない。鬼女を追い払う役は安倍晴明が担っている。また「源平盛衰記」では、貴船で神託を受けた女が37日間宇治の河瀬に通うことで鬼女になったのに対して、「鉄輪」では貴船神社に通うことで女は鬼女に変じている。そのため「鉄輪」には宇治詣も出てこないし、演目中の橋姫のイメージも極めて希薄である。「鉄輪」の鬼女が使用する面は「橋姫」と呼ばれる“夫の愛が涸れたことに思い乱れ、恨みのあまり鬼女となった女性“の面である。この面は「海人」にも使用されるため、「鉄輪」の鬼女=橋姫専用の面ではない。
このように「古今為家抄」から「鉄輪」への変遷を見ていくと、「橋姫物語」の登場人物としての「橋姫」は、愛を失い嫉妬のあまり鬼女となった女というイメージに普遍化していったことが分かる。つまり都に住む普通の公卿の娘が鬼女に変身するのは、嫉妬心を抑え込むことのできない人間として弱さの表れであり、「橋姫物語」の存在が無くても十分にその狂気と恐ろしさが見る者に伝わる構成になったということだ。
この記事へのコメントはありません。