伏水街道の橋
伏水街道の橋 (ふしみかいどう の はし) 2008/05/10訪問
東山山麓から流れ出て鴨川にそそぐ河川が伏見街道に交差する箇所に4本の橋が架けられ、北から一ノ橋、二ノ橋、三ノ橋、四ノ橋と呼ばれていた。現在、一ノ橋と二ノ橋の川は暗渠となり元の橋の位置と異なった場所に親柱が保存されている。三ノ橋と四ノ橋は伏見街道の橋として使用されている。いずれの橋の親柱にも伏見街道ではなく“伏水街道”とある。
JRと京阪電鉄の東福寺駅より200m北、現在の本町12丁目にある清涼山寶寿寺の北側を一の橋川は流れていたようだ。泉涌寺より東大路通を越え大谷学園大谷高等学校の南を蛇行し泉涌寺通を跨ぐ路地が昔の河川の名残を示している。”Tenkei”さんのHPには一の橋川は流れを求めた貴重なレポートがある。
現在、一ノ橋の親柱は市立一橋小学校のグランドの北側に残されている。学校の構内なので今後も永く保存されるだろうが、一般に開放されていないのは残念である。特に訪問日が休日だったため学校は閉まっていました。
二ノ橋の親柱は九条通の高架橋がかかる伏見街道の歩道上に保存されている。この親柱には、二ノ橋川が昭和3年に都市計画によって廃川となったので記念とし永久に保存するという意味の言葉が刻まれている。やはり同じく”Tenkei”さんが二の橋川の流れも調査されている。
発起人総代は本町十五丁目の清水茂吉と本町十四丁目の久保庄吉とあることから、この九条通の高架橋の近くにあったものをこの場所で保存されたことが推測できる。さらに現在の本町14丁目・15丁目が九条通の南側にあることが、橋の元の位置を絞り込むヒントとなるかもしれない。ともかく東福寺境内を西に向かい、伏見街道手前で北に折れ、北門前にある石橋の下を流れていた。おそらく九条通の手前を西に折れ、伏見街道の二ノ橋の下を流れ、鴨川にそそいでいたと思われる。
三ノ橋は東福寺 中門のすぐ北側の伏見街道に架かる。橋の下には東福寺の洗玉澗(せんぎょくかん)からの流れが見える。東福寺の境内では洗玉澗には東側より偃月橋、通天橋、臥雲橋の3つの屋根がついた橋が架けられている。
明治6年(1873)竣工 石アーチ 1連 石工内田徳佐エ門
この橋の全景を見ることのできる場所が見つけられなかったので、“にえもん“さんのHP
を参考にする。三ノ橋の形状はアーチ型の石橋で、伏見街道より水面までの距離はかなりあることが分かる。しかし通天橋のかかる洗玉澗の深い渓谷から、三ノ橋の間で落差が縮まったと考えるべきだろう。
■四ノ橋 2008/05/11訪問
四ノ橋は一ノ橋、二ノ橋、三ノ橋からかなり南に下った、深草直違橋北1丁目にある。
石橋の形状は三ノ橋に似ているが、路面から水面までの距離が三ノ橋ほどないこと、アーチが馬蹄形ではなく正円になっていることが異なる。
明治6年(1873)竣工 石アーチ 1連 真円 石工内田徳佐エ門
“にえもん“さんのHP
伏見街道の4つの橋のうち、一ノ橋、二ノ橋は橋としての役目を終え、親柱も安住と思われる場所に設置されている。三ノ橋、四ノ橋は未だ現役の橋として活躍しているが、歩道にガードレールもなく、車が接触すれば破壊される恐れもある。しかし伏見街道の道路拡幅が行われない限り2つの石橋はこの後もなお長く使われ続けていくだろう。
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