徘徊の旅の中で巡り合った名所や史跡などの「場所」を文書と写真と地図を使って保存するブログ

伏見奉行所址



伏見奉行所址(ふしみぶぎょうしょあと)  2008/05/10訪問

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桃陵団地と伏見奉行所址を示す石標

 魚三楼の前から京町通をさらに南に50メートル緩やかな坂町を下ると東西に走る魚町通に出る。ここを左折し近鉄京都線の高架をくぐると目の前に伏見の町並みに調和するように屋根を載せ、妻面を黒板張り風に仕上げた集合住宅群が現れる。これが伏見奉行所の跡地に建設された京都市営桃陵団地である。団地の西側の入口には3つの石碑がある。

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桃陵団地の発掘調査を示す碑

 一つ目の石碑は上部に笠を載せたようなデザインで、説明文とともに2枚の写真が印刷されている。桃陵団地の歴史を説明するために設置されたようだ。建設時に発掘された江戸時代の奉行所の石垣と明治時代に陸軍が奉行所前の道路部分を西へ広げて建設した石垣の文化財調査の結果を説明するものである。

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伏見奉行所址を示す石標

 二つ目は昭和43年(1968)に京都市が建てた「伏見奉行所跡」という石標。黒板塀風に仕立てられた塀を背にして建つ。シンプルなデザインであるため、色々な感慨を捨てここが伏見奉行所であったということを事実として受け入れざるを得ない説得力があるように思う。

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伏見工兵第16大隊跡を示す碑

 三つ目の石碑は2つの碑の向かい側に置かれている「伏見工兵第16大隊跡」。新政府はこの地を早くから陸軍用地として利用し伏見工兵第16大隊を設置した。明治41年(1908)第十六師団が増設され、現在の聖母女学院の場所に師団司令部が建設されると工兵第16大隊は第四師団(大阪)から第十六師団に移された。

 慶応4年(1868)1月3日の夕刻、鳥羽方面で幕府軍と新政府軍が衝突する。伏見でもほぼ同時刻に御香宮神社に陣取った薩摩軍より伏見奉行所への砲撃が開始される。御香宮神社と伏見奉行所跡はわずか100メートル程度の距離で近接している。この辺りの地形は東側の桃山丘陵から西側へ下っていく。また南側は宇治川に続くためこちら方向にも下る地形となっている。そのため御香宮神社の方が伏見奉行所よりやや高台にあることは歩いてみても分かる。うろ覚えではあるが司馬遼太郎の「新選組風血録」の「四斤山砲」に、薩摩軍は眼下の伏見奉行所に大砲を打ち込んだような表現があり、これが強いイメージとなって残っている。そのため現地で御香宮神社から伏見奉行所を眼下に置くほどの標高差がないことが分かり疑問を感じていた。

 Syoさんの伏水街道コラムの中に掲載された「両軍伏見市街戦概要図」を見ると桃山筑前台町の龍雲寺から砲撃が行われたことが分かる。さらにバックさんの隼人物語龍雲寺・桃山善光寺の薩摩砲兵隊(http://homepage2.nifty.com/airman/satsuma/ryuun.html : リンク先が無くなりました )によると当時の龍雲寺はもう少し東側の桃山三河町のあたりにあったということである。いずれにしても桃山丘陵の中程に大砲陣地が築かれ、ここより“イメージ”どおりの砲撃が行われたようだ。そして1月3日の夜半から4日の深夜にかけて伏見奉行所は炎上するほどの被害が出た。この炎により伏見奉行所を背にして立つ幕府軍の姿は、御香宮神社側の薩摩軍からはっきり目視できたことが想像できる。新選組は自らの能力を最も発揮できる夜間の市街戦に持ち込む機会を失った。開戦の日の深夜には幕府軍、会津藩、新選組は伏見における拠点を失い淀方面に下がらざるを得ない状況に置かれた。
 またこの炎上により奉行所より西側の伏見の町並みを焼き尽くすこととなった。再び「両軍伏見市街戦概要図」に注目するとこの戦いによる焼失地域も描かれている。魚屋通の南側は伏見奉行所から現在の新高瀬川までの間をほとんど焼き尽くしたことが分かる。この中には寺田屋も含まれている。

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現在の桃陵団地

「伏見奉行所址」 の地図





伏見奉行所址 のMarker List

No.名称緯度経度
01  伏見奉行所址 34.931135.7658
02  御香宮神社 34.9344135.7675
03  龍雲寺 34.9354135.7699

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