納所と淀小橋
納所と淀小橋(のうそ と よどこばし) 2008/05/11訪問
辨慶淀店から旧京阪国道を70メートルほど南西に進むと納所の交差点に出る。
納所の交差点には6方向から道が入っている。旧京阪国道の府道13号が北東から入り、南西に出て行く。これに府道204号、府道125号、府道124号と千本通の4つの道が交差点に入り込んでいる。府道124号は中書島を起点にほぼ京阪本線と併走する道であり、また千本通は北区鷹峯から始まるが、九条以南は鳥羽街道とよばれている。すなわち、慶応4年1月5日の日に千本通から鳥羽方面の幕府軍が、府道124号からは会津藩と新選組が淀城を目指して撤退してきた交差点と言うことになる。
納所の交差点から府道124号に入り、100メートルくらい進むと淀小橋の石標が左手に現れる。ここは周囲の住宅地と異なり、一段高い場所に府道と平行して細い生活道がある。この形状で淀小橋がかつてここにあったということから、この生活道が土手となり現在の府道あたりが宇治川の河川敷となっていたようにも見える。記録によると淀小橋は幅4間、長さ71間あったといわれている。1間1.8メートルとすると120メートルを超える橋だったことが分かる。もし石標の位置が橋の納所側のたもととすると真直ぐ南に位置していた対岸は現在の府道125号の京阪本線の近くあたり達する。これにより当時の宇治川は伏見方面から府道124号に沿い、納所の交差点から淀城までの間を流れていたこととなる。
淀小橋と対になるように幅3間、長さ137間の淀大橋(http://homepage2.nifty.com/sa-osamu/kyokaidou2.htm : リンク先が無くなりました )が淀と美豆の間に架けられていた。現在の府道15号からNTT西日本京都支店淀別館の辺りに架かっていたと思われる。大阪側からは先ず淀大橋を渡り、淀城の城下に入り、さらに淀小橋を渡り京都伏見方面に進むということになる。2つの橋と淀城は京阪の交通の要衝となっている。
慶応4年(1968)1月5日、鳥羽街道の冨の森から撤退してきた幕府軍は納所の陣地で再び新政府軍を迎え撃つことを計画していた。妙教寺の本堂に不発砲弾が飛び込んだりもしたが、納層ではそれほど大規模な戦闘にならず、幕府軍は淀小橋を渡り淀城下に流れ込むこととなった。しかし幕府軍が淀城に立て籠もり新政府軍を迎え撃つことはできなかった。淀城は城門を閉じて幕府軍の進入を拒んだ。そのため敗走した幕府軍は1月5日の夜には橋本まで撤退せざるを得なかった。
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